【 XXViii 】 侮辱。
「それで何があったんだ――劫」
ユウィルがそう尋ねた直後、場は水を打ったように静まりかえった。
クライはそれが何を意味する言葉なのかを理解できずにぽかんと固まり、僕は溜め息を押し殺しながらそっと頭を抱える。カンダタよ、今なら君と友達になれる気がする。
「…………」
そして自分が蜘蛛の糸を垂らした事にも切った事にも気付いていない釈迦は、僕達の反応が予想外だったのか動揺を隠しきれないご様子だった。
クライは硬直状態が解けると同時に耳まで顔が真っ赤になり、両手を頬にぺたっと当てて『あわわ』とか『はうう』とか、そんな感じの愉快な奇声を上げ始めた。
「『ごー』というのはヴァクス君の名前だったんですね!? とととっ、ということはつまり、昨日の夜をきっかけにおふたりはなまえでよびあうかんけいに……!」
収拾がつかなそうな方向へとヒートアップしていくクライ。首が据わっていない子供みたいに頭がふらふらと不安定に揺れている。
誤解を解く為には昨日の事もすべて正直に話すのが一番なのだろうけれど、そうすればクライを僕達の腹の内の探り合いに巻き込んでしまう事になる。出来る事ならそれは避けたい。
どうしようか――と思ってふと見た先のユウィルは、なんだそんな事かとでも言わんばかりのすまし顔だった。
「確かに昨晩、この男と二人で話をした」
クライの息を呑む気配がした。僕にも少なからず緊張がはしる。
ユウィルはクライを巻き込む危険を顧みずあの契約の事を話してしまうつもりなのだろうか。
それが正しい判断なのかどうか、僕には判らな――
「――が、仲良くお喋りしていたわけではない。むしろかなり険悪だった」
……うん。よくよく考えてみるとそうでした。
いや待て、だけどクライが不満に思っているのは、おそらくその話し合いを自分が寝た後に勝手に二人だけでされた事に対してだろう。険悪どうこうの雰囲気の話はこの際関係ないんじゃ――
「えっ……そうなんですか」
「ああ。このにやけ面を鉛玉で矯正してやろうかと思った回数は枚挙に遑がなかった」
「そうですか!」
「この前読んだ『ラクラク拷問ガイドブック~旅先ですぐに役立つお手軽拷問百選』を試してみようかとも考えたが、一番良さそうな『廃人確定編』は火と針が必要だったからな。……残念だ」
「そうですよね! フルーシャさんに限ってそんなことはあり得ません!」
……おかしい、盛り上がっている。微妙に話が噛み合ってない気もするけれど。
でもあの時この場所に火と針がなかった事と廃人にならずに済んだ事は神に感謝しようと思う。
「それにしても昨日の薬品調合といい、どうしてお手軽に解決しようとするんだ。拷問なんて相手の一生に関わるんだからもっとよく考えてだね」
「……あの、それは拷問されることが決定事項になっている哀しい発言ですよ……」
溜め息混じりに呟いた一言がクライに拾われてしまった。やけに優しげな声音がつらい。
「そういえばクライ、耳が良いって言ってたよね。何人居る?」
僕が尋ねると、クライはきょとんとした顔で小首を傾げた。
顔の三分の一は包帯で覆われているのに表情が豊かだなと今更ながらに思う。今も風に揺られて大枝をしなやかに揺らす圧巻の紅葉樹を見上げても鉄仮面を崩していないユウィルとは対極だ。
「確かに他のひとよりも少し耳は良いですが……『何人』ってどういうことですか?」
「僕達を囲んでる奴らの話だよ。良く解らないけど剣呑な雰囲気だし、場所と人数を特定して早いところ逃げたほうが良さそうだけど」
「ぇ」
「――!?」
和やかな談笑が一気に戦慄へと変わる。クライはまた先程のようにぴたっと凍結し、ユウィルは深い漆黒の瞳で射殺さんとばかりに僕を睨み付けてきた。
「……何だと?」
胸の前で十字に交差された両腕が背中側へと伸び、硝煙が染みついたダークジャケットの下でそっと何かを掴んでいる。普通の人が見れば肩伸ばしのストレッチに見えるこのポーズも、そこに忍ばせてあるのが短機関銃と知れば爆発寸前の臨戦態勢に早変わりだ。
銃口がこちらに向かないように僕はなるべく丁寧に説明する。
「昨日は気付かなかったから、囲まれたのは多分今朝からだろうね。君も見廻りに行った時からずっと張り付かれてる」
「ふざけた事を言うな! そうであれば私もとっくに気付いている!」
苛立ちと不快さが滲む鋭利な刃物のような視線で周囲を見渡そうとするユウィル。
僕はそれを出来るだけ柔和な表情と声色を意識して制した。
「落ち着いて僕のほうを見て。奴らはまだ僕達が気付いていることを知らないみたいだ。勢いと正確さをもって勝負を仕掛ければ、完全に鎮圧とまではいかなくても脱出の突破口くらいは開けるはずだよ」
「……………………」
木枯らしのように身を切り裂く鋭い沈黙の後、ユウィルはゆっくりと構えを解く。
「……ここまで侮辱されたのは初めてだ。良いだろう、乗ってやる」
そして絶対零度のナイフを目に宿したまま、口許に機械的な笑みを刻んで見せた。