【 XXVii 】 子猫。
西からの穏やかな風が、なにかのしるしのようにざわざわと草原を駆け抜けていった。
恵みの雨を浴びて生命の緑を広げた植物は日の光に輝きながら柔らかく揺らされている。
(天候は回復したが、思った通り地面の状態が悪い)
柔らかく粘りの強いぬかるんだ土壌。その感触を指先で確かめ、嘆息する。
(これから先は休める場所はほとんどない。クライのことを考慮すると、やはり不安要素が取り除かれるまでは下手に動きたくはないのが正直なところだ)
周辺の見廻りを切り上げ、これからの旅の方針を考えつつ紅葉樹に足を向ける。
(《連盟》への報告も急を要する。彼とクライの件は当然隠すとしても、監獄の陥落と吸血鬼の暴走、それに――グルーディスの死。これは黙っておくわけにはいくまい)
漆黒と黄金の吸血鬼、ローリエ・ヴェン・ドルチェリア。
死者と不死者の境界の王にして、聖獣・黒蠍と暗融月の忠実な僕である一族、ヴェンバイアの末裔。
八世紀にもわたって封印され続けてきた彼女が復活を遂げた。これはすなわち、主である黒蠍の復活もまた考え得るということだ。
(ロヴェードは《連盟》にとって最大の脅威だ。時を見ていつかは解放するつもりだったが、このような非常事態では扱いようがない。……だが、まさかあれほどの化け物とはな)
無意識のうちに舌を打ち鳴らす。
(今になって私は何を焦っている?)
……いや。無論、原因は判っている。
昨夜の彼の話。
自分の本名は貴蔵劫といい、蒼い空が広がる全く別の世界から来たのだ――彼はそう話した。
異世界同士を繋ぐ不可思議な空間、消えた友人、暗融月の下での黒き蠍との邂逅。
まるで聖戦黙示録の一節を聞いている気分だった。幼い頃に父に神話を読み聞かせて貰った懐かしい記憶が込み上げてくるのも合わさって、私はおそらく……その、話に聞き入っていたと思う。
もしあの顔が見られていたならば私は彼を始末せざるを得ないが、あの暗闇ではその心配もないだろう。
空想の物語にしか聞こえない彼の話に熱中した理由はもうひとつある。
今まで幾重にも重なり絡まった謎と異常の不調和が、魔法のようにするりと解けるのだ。
例えば先に挙げたロヴェードの復活。これまで破れなかった封印を突然払って、監獄を壊滅させた――これも彼が本当に黒蠍に出会い、吸血鬼の主である暗融月の聖獣が蘇ったのだとすれば、今度は逆に奴が復活しないほうが不自然な事になる。
つまり、どちらかは『異常』であることを認めざるを得ないということだ。
「………………!」
「………………」
紅葉樹まであとわずかのところで誰かが言い争っているような声が聞こえ、ふと我に返る。
見ればクライが何か言いながら彼に詰め寄っていて、それを彼は苦笑いを浮かべながらなだめていた。
「やっぱり昨日の夜、何かあったんですね」
「えっ。いや、どう……かな……」
呆れを通り越してやるせなさを感じ、細く長い溜め息が漏れる。
あの青年は一体何者なのか――そんなことを真剣に考えていた自分が愚かしく思えてくる。
眉根を揉みながら睨んだ先には、こちらに気付いて弱々しく救援を求める彼の困窮した瞳があった。
(鬼が出るか蛇が出るか、どちらにせよ働いてもらおうか)
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
長い黒髪と丈の合わないダークジャケットを風に踊らせ、腕組みをしてジトッとこちらを見据えている少女――ユウィル・フルーシャ。
昨晩、僕は全てを彼女に話した。
初めは黙っているつもりだったにも関わらずなぜ話したのかと言われれば、まぁ期待と好奇心が半々ずつといったところだ。……強がっても仕方ないから白状してしまうと、あの脅しも結構効いた。
具体的に、期待とは彼女が話を信じて僕と相互の利用関係を築いてくれることに対して。
そして好奇心とは冷静沈着な彼女が僕の話を聞いてどんな反応をするのかに対してだった。
それで結果からいうなら、どちらの面でも僕にとっては満足のいくものになった。
まず第一に、『僕は元の世界に帰る為に彼女を利用し、彼女は自分の目的の為に僕を利用する』――彼女はこの話を承諾した。『神を殺すに等しい目的』とやらに自分が利用されるというのもなかなかぞっとしないけれど、出来る範囲で協力すればいいだろう。……彼女がそんな甘いことを許してくれるかどうかは別として。
そして僕の話を聞いているときの彼女の表情。自分ではポーカーフェイスのつもりだったかもしれないが、いやはや眺めているとかなり面白かった。
いつも熟練の兵士さながら固く結ばれている口からは熱っぽい吐息が漏れ、普段は鋭い光を放っている目は初めて雪を見た子猫みたいにまるく見開かれていた。
貰った小さなライトでこちらからは丸見えだったのだけれど……気付いてなかったみたいだ。しかしここでニコニコしながらその事を指摘したりしようものなら彼女は眉一つ動かさずに銃を抜くだろうだから、これは心のアルバムにしまっておこう。
まぁそういう流れの中で僕は本名を教え、彼女も律儀に自己紹介のようなものを返した――それでこういう事態に陥っているわけで……。
……わけだから。
…………早く助けてよ!
「そのくらいにしておけ、クライ」
「フ、フルーシャさん!」
やっとユウィルが億劫そうに声を掛け、クライの注意がそちらに逸れる。僕はその一瞬を見逃さず、銀髪の少女の滔々たる尋問から脱した。これ以上続けられていたら、前世の罪を全て懺悔していたかもしれない。
助かった――と思った矢先、救世主はあまりに空気を読めない一言で新たな戦慄を巻き起こすことになる。
「それで何があったんだ――劫」