【 XXV 】 零度。
その手帳はところどころ血に塗れ、体積に見合わない異様な重みがあった。
革張りの表紙には黒い十字架を突き刺している剣の紋様――《古刃連盟》の刻印が施されている。
(……他人に見せることはないと思っていたがな)
縄を解いてやった後、安堵の吐息を漏らす青年に手帳を渡した。
「私の父の手記だ。読め」
「読めって……僕から何か聞き出そうとしてたんじゃないの?」
青年の影が少し首を傾げる。暗闇の中で表情は見えないが、おそらく怪訝そうな顔をしているのだろう。……いや、微笑っているのかもしれない。
(『何か聞き出すつもり』、か。あくまで現時点で認めるつもりはないというわけだ)
問いに答える代わりにポーチから小型光畜機を取り出して放ってやる。
「痛ッ!?」
闇の中を放物線を描いて飛んだ光畜機は軽快な音を立てて青年の頭に直撃し、その衝撃で即座に作動した。
水晶大の球体から、昼の間に蓄積されていた光が一斉に弾け始める。
「静かにしろ。クライが起きる」
「…………僕が悪いのか……。出来ればスイッチ入れてから投げてほしかった……」
暗がりに慣れた目を容赦なく突き刺す光に目を細めながら溜息を吐き、青年は手帳を開いた。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
「…………ねむ……」
少女に渡された血塗りの手記を読み終え、僕は睡魔に乗っ取られそうな頭を叩き起こして考えてみた。
まず、どうやらこの世界ではいくつか強大な勢力を持った組織……この中の言葉を借りれば『列強団体』というものが存在しているらしい。多分その組織を中心として社会が形成されていると判断して良いだろう。
はっきり言って『聖女狩り』がどうとかはどうでもいいけれど――この『列強団体』情報はいろいろなことに活用可能だ。
世界を左右するほどの力がある組織を協力者として得ることが出来れば、こちらに飛ばされてきて以後音信不通の令嗣も容易に捜索を行える。さらにもし僕達のような異世界人の前例があったとしたら、そのひとは十中八九組織の保護下にあるはずだ。そしてそれに関する研究はトップクラスの研究員が揃えられた研究室で行われている……。
もとの世界に戻れる確率急上昇間違いなし。これはめでたし街道まっしぐらだ。
「……何をにやついている」
クライの様子を見ていた少女がいつの間にか戻ってきて、こちらを可哀想なものを見る目で凝視していた。
「何でもない。ありがとう、久し振りに良い夢が見られそ――」
「待て。寝るな」
良い気分のまま就寝準備を始めようとすると、冷たい針のような声で制された。
「次は貴様が話すのが道理だろう。それで貴様が得た価値ある情報の分、私に返せ」
なんだその詐欺まがいの理屈は……!
僕は剣呑な雰囲気に呑み込まれてしまいそうになりながら、再び思考する。
まずさすがに得るところは全く無かったというのは無理がある。
それに変に隠していると思われたら一巻の終わりだ。このひと拷問とか躊躇しなさそうだし。
だからといって流れで軽々しく『異世界人』とか何とかの話は出来るはずもない。
さて……じゃあここでのベストな選択は、と。
「残念だけど今は眠気で頭が朦朧としていてまともなことをしゃべれそうにないんだ。明日話すよ」
実際問題、僕はすごく眠い。
少女には申し訳ないがこのままのらりくらりと躱させてもらおう。
「そうか……歩き通しだったこともある、仕方ないだろう」
「まぁそういわず――え?」
不気味すぎるほど殊勝な面持ちで頷くと、少女はウェストポーチをごそごそあさり始めた。
泥水が溜まるように嫌な予感が胸中でふくれあがる。
「……ここに私が調合したブレンド薬品の素がある」
そういって取り出したのは、小指程度の大きさの数本の瓶。
闇の中で電球――少女は『光畜機』とか言っていたけれど――の明かりに照らされる毒々しい色をした液体や粉末は、いろいろな感情を通り越して恐怖そのものだった。
「ちょ、ちょっと待って。薬品ってお手軽にブレンドするものじゃないよね」
「滋養強壮剤・鎮痛剤・胃腸薬・自白剤・睡眠薬――薬品の組み合わせ次第で一通りの効果が得られる」
「いいいいやいや、どうして身近なお薬の間にさらっと劇薬を並べてるのかな」
少女は無表情のまま「冗談だ」と小瓶をポーチに戻した。いや、中々笑える冗談だ。
「アレは後始末が大変だからな」というのは聞かなかったことにしておく。……笑えない冗談だ。
「貴様はどう思っているか知らないが、私はそういった手段は使わない……だが列強団体は躊躇いなく使うだろうな」
「…………」
すっと少女が顔を近づけてくる。
「私は根拠もなくこんな話はしない――つまりこんな話をしている私にはその根拠がある」
とん、と人差し指で僕の左胸を指した。一度は止まったはずの心臓は、今は何事もなかったのように拍動している。
「全て私に話して私を利用するか。全て私に話されて連中に『後始末』されるか」
少女はまばたきひとつせず僕を見据えたまま、絶対零度の微笑を浮かべた。
「いつまでも対等な取引が出来るとは思わないことだ――黒蠍」