【 XXi 】 紅葉。
『見ての通り耳が良い』事件から十数分、距離にして約一キロ。
僕はとある一本の樹の前に茫然自失として立ち尽くし、ある種の畏敬の念のようなものを感じていた。
昼間に根元で休憩をとったような大樹であるわけではないし、むしろ大きさは平均よりも少々小さいといえる。それなのにその樹が異様な存在感を放っていた理由……。
それはまるで夕陽の柔らかな光を凝縮させた雫のように――紅葉していたから。
青々とした若草ばかりが生い茂る草原に深紅を散らしているその樹は、生命の鼓動すら聞こえてきそうな程に神秘的だった。夕焼けに染まる世界の中で誇り高い輝きをいっそう増し、あたかも意志ある広原の主として君臨しているかのようだ。
「すごい……」
知らず感嘆の言葉が漏れる。
こういう時に気の利いた表現でもぱっと出てくればいいのだけれど、残念ながらその光景を端的に言い表す言葉は僕の辞書にはなかった。ナポレオン的な意味ではなく単なるボキャブラリーの貧困なのが悔やまれるところだが、近年の一般的な高校生なんてそんなものだろう。多分。
「神すら否定するソルフィネの民が唯一神聖なる存在として崇拝する樹だ。《精霊の紅葉樹》とも呼ばれている」
紅葉を仰ぎ見て、少女が呟いた。徐々に冷たくなってきた風に艶やかな黒髪とダークジェケットがなびく。
その微かに恍惚の入り混じった声音を聞いて、クライが悲しげに嘆息した。
「黄昏時の《精霊の紅葉樹》は絶景のひとつとしても名高いですよね……わたしも見てみたかったです」
「そうだ。それゆえに賊が狙いに来ることも少なくない――だから普通は《政府》から派遣された十文字騎士団が警護にあたっているはずなのだが」
騎士団というセンセーショナルな響きに突き動かされて辺りを見渡してみるが、そんな大仰なものはもちろん猫の子一匹の気配すらない。
「いないみたいだね」
「……妙だな」
少女が思案顔で顎に手を当てる。
「まぁこのあたりには何にもないし、たださぼってるだけじゃないかなー」
僕が頭の後ろで手を組んで欠伸を噛み殺しながらぼやくと、少女が横目で僕を睨め付けてきた。
「十文字騎士団は今でこそ《政府》直属の傭兵部隊のような扱いだが、義を重んじる騎士だ。守備を命じられた場所を放棄するなど、そんな無責任な真似はしない。……貴様とは違ってな」
「わ、分かった分かった……って最後のは別に言う必要ないんじゃ……」
一応弱々しく形だけ抗議をしてみるが、もちろんというべきか少女は清々しいほど華麗に無視。
……実際僕はそんな騎士様じゃない一般人なんだけど、釈然としないなぁ。
隣でクライも不思議そうに小首を傾げた。
「わたしも騎士団の方々には一度お世話になりましたが、とても紳士的でした。……何かあったんでしょうか」
「あぁ。だが駐留していたのは一個小隊にも満たないほんの十数名だ。《政府》の緊急収集がかかったとは考えにくいだろうな。しかし代わりの者がいないとなるとある程度は急を要した……」
「あの、ちょっといいかな」
少女が大儀そうに視線だけこちらに寄越し、少しだけ目を細めた。
これはおそらく先を促されたと取ってもいいだろう。クライも僕に期待の表情を向けているので、なんとなくかしこまって咳払いをする。
「とりあえずそのソルフィネって都市に行くべきだと。そこで騎士団のことも何か分かるかもしれないし」
僕がそう提案すると、
「……む。それは名案だ。もしかしたら君は天才じゃないのか。天才に対していままで失礼なことをした。土下座します」
「さすがですヴァクス君っ」
――というようなことにはならず、
「……ふぅ……」「…………チッ」
なんということか、クライにナチュラルな溜め息をつかれてしまった。舌打ちなんて全然聞こえない。
普通にまともなことを言ったはずなのに、なぜこんな『やれやれこいつは……』みたいないたたまれない雰囲気になるんだろう……。
「ヴァクス君。ソルフィネには、もう着いてます」
クライが極めて控えめなトーンでゆっくりと、かつはっきりと言った。
何か子供に言い聞かせるみたいな感じなのが腑に落ちない……って、
「――え?」
唖然として、間の抜けた声で問い返す。
一瞬の静寂の後に、がらんと広がる草原にFew...と一筋の微風が駆け抜けた。
「い、いやいや確かに綺麗な紅葉はあるけど。ソルフィネってのは都市の名前なんじゃ」
「《眠りの都市》ソルフィネは」
少女は話を遮るようにそう言うと、僕の一歩前にすっと踏みだしてからくるっとこちらに向き直った。
そしてぐっと右手の親指を立て――地面に向ける。
「この地下だ」