【 ii 】 戦慄。
「ど……こだ、ここは……」
令嗣が独り言のようにぽつりと呟いた。
いや、事実独り言なのだろう。その問いに僕が答えられるとは、彼も思ってはいないはずだ。
下校途中、僕達が列車から突然飛ばされてきた異世界――。
断言しておくが、そこは異世界という言葉から想像できるファンタジックなものとはほど遠かった。
まず、広さでいえばどこかの豪邸の応接間程度か。部屋としては申し分ないが、『世界』と表現するにはいささか壮大さと迫力に欠ける。
ついで蔦の絡まった古城や未知なる野生動物が闊歩する草原どころか、人間一人、草木の一本も存在していなかった。
では何故、僕がそこを異世界などという空想的で非科学的な分類の中に認知するのか。
球体だったからだ。
内側が空洞のボールの中に入り込んだような感覚。
床は赤と黒のタイルでチェック柄に敷き詰められ、視界のありとあらゆる所を這うように覆っていた。
さらに重力は常に球の外側に向かって、床に対して垂直にはたらいている。
それはこの場が地球上にないことの証明でもあったし、頭上の物質が落下せずに天井に張り付いているという異様な状況の原因でもあった。
いびつな形の小さな扉、底の見えない程の深い穴、大小がまちまちのトランプ、壊れたオルガン。
どこからか聞こえるクラシックは時折音がとび、深い穴の奥から子供の笑い声がねじれたように響く。
実に多様な『奇妙なもの』が散らばる、乱雑な『異世界』――。
その中心に置かれたS字に歪んだ一際大きなテーブルはお茶会の準備が整っていて、僕達はそこに用意されていた古びたアンティーク調の椅子に腰掛けていた。
「さしずめ、俺達はアリスといったところか……?」
令嗣が自嘲気味に笑った。既に持ち前の冷静さを取り戻し、周りを鋭く観察している。
精神面においても、やはり令嗣は常人ではない状況処理能力を兼ね備えていたようだ。
彼がどうにもならないことに対して感情的に取り乱すことは決してない。
不思議の国、ね……。
そのファンシーな彩りとミステリアスな雰囲気は、確かにルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を彷彿とさせる節がある。
「不思議の国か……じゃあこれから始まるのは――」
「気違いのお茶会……その通りです」
僕の言葉はまだ言い終わらぬ内に遮られた。いや、継がれたと言うべきか。
身を強ばらせてテーブルの向かいに目を遣る僕と令嗣。
ひとりの男がティーカップに口を付けていた。
――先程までどこにもなかった椅子に、どこにもいなかった男が。
僕と令嗣を取り巻く空気が、一瞬にして戦慄する。
「しかし『不思議の国』とは頂けませんね。それは貴方達の世界からの物言いです。違いますか?」
男は大きなシルクハットを斜めに深くかぶり、その表情はこちらからは窺えない。
首もとの蝶ネクタイはくすんだ黒色で、中地の赤い襟が尖ったダークマントがどこかドラキュラ伯爵を連想させる。
彼の身につけているものは殆どが長く使われてきたような古さがあり、所々に傷も見られたが、ほっそりとした手に嵌められた純白の手袋は新しさと清潔さを保っているようだった。
「ですが貴方達は客人――無礼な扱いはわたくしたちの沽券に関わります」
よく通る静かな声はその装いに似合わぬ程に若々しく、
「《那由他路》へようこそ。《蒼き鷲》の諸君」
どこかこの場を愉しんでいるかのような――そんな響きを含んでいた。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
鉛のような沈黙が場を支配する。
お互いを探り合うかのような、張り詰めた時間が流れた。
果たしてそれが数秒だったのか、数分だったのかは良く覚えていない。臨戦態勢に入った人間は、大抵こういった時間に関する感覚が鈍る。代わりに研ぎ澄まされた五感は、目前のシルクハットの男に全て向けられていた。
男は左手でテーブルに頬杖をつき、右手に持ったティーカップを楽しげに揺らしている。
目端で捉えた令嗣の顔は、少なからず緊張の色を帯びていた。
それは男の唐突な出現によるものだけではなく、おそらく強敵に対しての本能的なそれがあるのだろう。
――コノ男ハ危険デアル。
「ふふふ、そのような強ばった顔はおやめ下さい。あ、紅茶はいかがですか?」
沈黙を破ったのは、男の愉快そうな笑い声と意外な言葉だった。
呆気に取られている僕達をよそに、彼はPaKiNと指を打ち鳴らす。
その音に反応して、テーブルに並べられていたティーポットがひとりでにゆらりと宙に浮いた。
ふたつのティーカップにのんびりと紅茶を注ぎ始めたポットがその役目を終わると、今度はティーカップが湯気を立ち昇らせながら宙をただよって移動し、僕達の前に行儀良く並んだ。
令嗣は未だに訳が分からないといった様子で不思議なティーセットの一連の動作を眺めていたが、ひとつ小さく息をついてから臨戦態勢を解いた。だが、伏せた視線には警戒が色濃く残っているままだ。
「……自己紹介がまだでしたね」
前置きしてから男はすっと背筋を伸ばし、静かにカップを置いた。
「私はこの《那由他路》の主にして従者――《帽子屋》とお呼び下さい」
シルクハットのつばに右手をあて、恭しく一礼。
そして任務完了とばかりに満足げに二、三度頷くと、彼は再び美味そうに紅茶をすすり始めた。
え。いや、終わり?
「ちょ、ちょっと待って下さい。えーと……《帽子屋》さん?」
「はい?」
《帽子屋》は『何でしょうか?』とでも言うように首を傾げながら、自分でポットを取って紅茶を注いでいる。
「つまりここは異世界で――」
「貴方達の世界から見れば、ですが」
すかさず《帽子屋》の訂正が入る。
そこは譲れないんだ……。
苦笑しながら「そうですね、僕達の世界から見て」と付け加えると、彼は頷いて先を促した。
「僕達はこの世界へ招かれた、と。そういうことですか?」
《帽子屋》はシルクハットを押さえながら、少々大袈裟なくらいにかぶりを振った。
「いえ……確かに私は『客人』と言いましたが、この《那由他路》の客人ではありません。もともとこの《那由他路》というのは――」
「別にそれはどうでもいいんですけど」
「そんなことはどうでもいいんだが」
微笑みを浮かべた僕と苛立たしそうな令嗣がほぼ同時に口を開く。
三杯目の紅茶を注ぎつつ、嬉々として話をしていた《帽子屋》は、不意を突かれたように身体を仰け反らせた。はずみで白いテーブルクロスに赤褐色の染みが広がっていく。
追い打ちをかけるように僕はテーブルに肘をついて目を細め、令嗣は腕を組んで目をつむる。
そして言った。
「早く元の世界に戻してください」
「さっさと元の世界に戻してくれ」