【 XV 】 太刀。
「生憎だな、ロヴェード。俺はそう簡単に呉れてやる命は持ってねぇ。……お前さんと違ってな」
僕達を窮地から救った大男はそう言ってニヒルに笑った。
左顔面は血に染まっているが、熊のような巨躯に橙色の野性味溢れる顎髭、そして磨き込まれたハルバード。この監獄のたった一人の看守・グルーディスに間違いなかった。
「真っ二つにして一泡吹かせてやろうと思ったが、傷一つなしか――噂に聞いた以上の化け物だな」
震える両腕で大斧を構える。床のタイルには決して少ないとは言えない血痕。その体躯と武器の重量を支えるべき足元はよろよろとおぼつかない。身体のダメージはかなり深刻であろうことが見て取れた。
僕達に背中を向け看守と正対するローリエは、不気味なほど穏やかに佇んでいる。
まるで獲物を狩る前にじっくりと品定めをする虎のようだった。
「グルーディス、もう十分だ。退がれ」
「それは飲めませんぜ」
僕の隣で少女が身を乗り出す気配がした。口ぶりこそ淡々としているが、確かにそこには焦りが含まれている。彼女にもグルーディスとローリエの戦いの結果は見えているようだった。だがこの一触即発の状況で下手に援護射撃をすれば、看守の移動範囲は更に狭まり、行動のタイミングも取りづらくことになるだろうことは自明だった。
看守がそんな葛藤の中で歯ぎしりする少女に優しげな眼差しを向ける。
「ボス……あんたとあんたの親父さんには世話になった。野良犬同然だった俺を拾ってくれて、感謝してもしきれない。最期の仕事はその恩返しにさせてくれねぇか」
「…………」
少女は何も言わない。
看守は満足だと言わんばかりに微笑み、微かに頷く。
「……ボスには指一本触れさせん!」
看守の身体に一層力が入る。筋肉が強張り、軍服の上からでも身体全体が一回り隆起したのが分かった。
ローリエはそんな彼を見て微かに首を傾げる。
「解せませんわ。ほとんど瀕死の状態でヴェンバイアに戦いを挑む事もそうですが、何よりそこの小娘は貴方が命を懸けるに値する人間なのですか?」
「ふん、永遠に理解できまい。命は喰らうモノだとしか思えんお前さんにはな」
ローリエの瞳がすっと細くなり、内側から冷たい殺意が広がり始めた。
「そうですか。ではもう話す事もありませんわね」
次の刹那、突き出された吸血鬼の細い腕が看守の左脇腹を貫いていた。
鮮血が舞い、看守の口から新たに一筋の血が流れる。ローリエの金髪が反動でふわりと揺れた。
「死んで下さい」
「グルーディスッ!!」
少女が激昂する。怒りにまかせ機関銃を構えるが、その先でローリエは看守を楯に微笑していた。
「大人しく閣下をこちらに渡して下さい。素直に言う事を聞いて頂ければ――」
「やっと……捕まえたぜぇッ、吸血鬼……!」
その時、グルーディスの目に異様なまでの生気が燃え上がった。
振り向きざまに渾身の力を込めて大斧を吸血鬼に叩きつける。
突然の反撃に意表を突かれたローリエは対応できない。ハルバードの刃は彼女の身体を両断し、床のタイルを轟音をたてて砕いた。
「……貴方には本当に驚かされますわね。ですがわたくしにはその最期の一太刀さえ無意味なのです」
血液の代わりに大量に吹き出した塵灰の中で、ローリエが嘲るような、それでいてどこか失望したような笑みを浮かべた。既にその傷口は再生を始めている。
看守は武器を床に突き刺したまま、ぼたぼたと傷口から血を垂らしてゆらゆらと数メートルを後退し、懐から何かの小瓶を取り出した。
「……甘い」
ハルバードに向かって気怠そうに小瓶を投げつける。
硝子が砕ける音とともに薄い黄色の液体が飛散し、独特な匂いが辺りに充満した。
「これは――ウィスキー?」
それは黴っぽい湿り気と混じり合って監獄に重く淀んでいたウィスキーの匂い。
看守は血が溢れ続ける口許を乱暴に拭い、軍服の内から小型のピストルを引き抜いた。銃口の向く先は大斧の輝く刃。
「――ッ!」
完全に復活したローリエがその意図を把握する。慌てて後ろに逃れようとしたが、ハルバードの刃が食い込んだ漆黒のドレスがそれを阻んだ。ドレスを引き千切ろうと白い手が伸びる。
「こいつが……最期の一太刀、だ」
乾いた銃声が響いた。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
銀の刃が甲高い悲鳴をあげて銃弾をはじく。白い火花が見えたと思ったのも一瞬、即座にハルバードは業火に包まれて燃え上がった。熱気を帯びた風を浴びて汗が噴き出る。
炎の中に浮かび上がる黒影は狂ったようにもがき苦しんでいた。直視できずに目を逸らす。
「グルーディス!」
少女が駆け寄るのと同時に、看守が倒れ込むように膝をついた。
荒く細切れの呼吸。瞳は虚ろで視線は空を彷徨い、咳き込むと震える唇から血が零れた。
「……せ……」
「喋るな! 待っていろ、今止血を――」
ジャケットから応急処置の道具を取り出した少女の手を、看守が強く掴んで止める。
床の血溜まりは際限なく広がり続け、炎の元で紅く輝いていた。
看守が何かを伝えようと苦しげに喘ぎながら口を開く。
「……聖霊具……を、取り戻せ……」