【 XiV 】 咆哮。
鉄製の扉を容易く潰した細腕が空を裂きながら目前まで伸びて、突然止まった。
ふう、と彼女の真っ赤な唇から失望の溜息が漏れる。乙女の血で彩られたかのような紅。
「……だめですわ。だめだめです」
先程までの鬼の如き形相とは打って変わった淑やかな微笑みが浮かんでいる。
「その方はそんなオモチャみたいな弾じゃ殺せません。……といいますか、どうやっても殺せません」
『その方』と言う時に、ローリエは僕の方へ丁寧に手を向けてみせた。
呆気に取られている僕をちらと見ては楽しげにくすくすと忍び笑う。
「あ、ちなみに今のは演技ですわ、演技。わたくしがあの程度の侮辱で怒るはずがありませんもの」
にっこりと笑って少し首を傾げる。世の男を全て虜に出来そうなショットだ。勿論、自分の命が風前の灯火でなければ、の話だけど。
僕には絶対に本気で激昂していたという確信が持てるが、下手な事は言わない方が吉だろう。
「ところでそちらの貴女……どこまで知っているのです?」
ローリエの目の奥に一瞬だけ獣のような獰猛な光が見えた。
少女は僕のこめかみに銃を突きつけたまま澄ました顔をしている。うっかり引き金を引いちゃったりしないだろうか。僕、普通に死ぬけど。
「どこまで、とはどういう意味だ?」
「言葉通りです。察するに、『暗融月』、『黒蠍』あたりまでは知っているのでしょう?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。暗融月とか黒蠍とか、一体何の話なのかな」
思わず口を挟んでしまう。ローリエが少しだけ目を見開いた。
「まぁ。閣下はまだご存じなかったのですか……。どおりで波動が微弱すぎると思っていましたわ」
「えーっと。まさかとは思うけど、閣下って……僕?」
「勿論そうですわ。わたくしの一族は代々閣下にお仕え申し上げておりますの」
ローリエは大仰に首肯する。
代々……? つい昨日、訳も解らないままにこの世界に飛ばされてきたばかりである僕はまだロクな人間と会ってすらいないというのに、どういう事だろう。人違いではないだろうか?
「死者と不死者の境界の王、吸血鬼の核にして最後の一族……か」
少女が抑揚のないトーンで冷たく言い放つ。ローリエはもの柔らかな面持ちで頷いた。
「その通りです。我々は元来、生と死の境界の更に向こう側……つまり死と不死の境界を統べる者であり、完全に死に浸っている者。象徴である暗融月に仕えるは当然といえば当然ですわ」
「はっ……その主が復活したから迎えに来た、と」
「ええ。まぁ、あの黴っぽい牢獄にはほとほとうんざりしていたところでもありますし」
「……陽が当たった方が好みだったか?」
「あら、分かっていてそれを訊きますの? 見た目通りの加虐主義者ですのね」
「八世紀前に『司の一族』全員を虐殺してオーラルセア宮殿を血に染めた貴様に言われたくはない」
「ふふ、昔の事ですわ。それにあれは虐殺でなく報復です」
どちらも冷静に会話しているように見えるが、その実いつ爆発してもおかしくないような張り詰めた雰囲気に包まれている。表面下で腹の探り合いをする二人についていけず、僕は黙っているしかなかった。
「……埒が明きませんわね。初めの質問に答えないようでしたら、もう貴女は不要でしてよ」
ローリエは残念そうに首を横に振った。
茶番は終わりだとでもいうように『動』の体勢に入ろうとする彼女を、少女が鋭い語気で制する。
「待て。おそらく貴様がいま本気を出せば私には止められまい。それこそ引き金を引く前に八つ裂きにされるだろう」
「命乞いですの……? 見苦しいですわ、醜態をさらす前にわたくしが――」
その時、少女がすっとローリエの赤い瞳から目を逸らした。そして次に視線が向かった先は――無残に押し破られた扉の残骸が残る、監守室の出入り口付近。
衝撃によって粉塵がまだ立ちのぼるその奥に、荒れ狂う灰色熊のシルエットが浮かび上がっている。
そして稲妻が駆け抜けたかのような錯覚に陥る程に激しい咆哮が響き渡った。
「――――ッ!?」
狼狽の色を隠せないローリエが振り返る。
だが時すでに遅し。次の瞬間には、額から血を滴らせながら悪鬼羅刹の如く疾駆した雷神が、身の丈を優に超える大斧で彼女を切り裂いていた。
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
左の首筋から急角度で侵入し、一直線に右脇腹へと抜ける。
間違いなく即死の経路を辿ったはずのハルバードの刃は銀色の輝きを保ったままだった。
ローリエの身体から血の代わりに噴き出たのは、大量のくすんだ灰。
非常に細かいそれは勢いよく飛散した後、重力に逆らって砂漠の風のように彼女の周りを包み込んだ。
「…………ふふっ」
何となく予想はしていた。
それでもやはり驚きを禁じ得ない。いや、むしろ信じたくないという感情に近いか。
「……ふふふっ、いい。とってもいいですわ、貴方。あれで死んでいなかったとはまさに不死身です。しかし残念ですが今度こそ――」
傷一つ、塵一つついていないローリエ・ヴェン・ドルチェリア。
彼女はどこか楽しげな、そして凍てついた微笑みを浮かべてそこに立っていた。
「――死んでもらいますね」