第71話 『戦争は平和である』
夏の暑さに霞の漂う薄曇りの午後、運航部の詰め所には古い蛍光灯の柔らかな光と、冷房の控えめな低いうなりがある。書棚にぼんやりと並ぶ文庫本の背表紙は色褪せ、何度も手に取られた跡がある。そういう場所に、誠とアメリアは向き合っていた。周囲にはシミュレーションの無音のスクリーン、コーヒーの残り香、そして小さなラックに掛かった防寒ジャンパー。武装警察の『仕事場』でありながら、どこか日常のにおいがする一室だった。
その光景はこの国の『異常さ』について語るには、あまりにも普通すぎる光景だった。
「その『存在』、『ビッグブラザー』のおかげで『東和共和国』では、地球人と接触して以来、国民の戦死者が『一人』も出ていないわ。まあ、それ以前の記録は『ビッグブラザー』がその情報に特別な権限が無いとアクセスできないから私も知らないけど。こんなに戦乱が続く遼州星系にあって……まあ、『ビッグブラザー』がなんであれほど20世紀末『日本』に拘るかは分かるような……分からないような……なにも食べる魚の種類まで合わせる為に海の環境そのものをいじって、わざわざ地球と同じ種類の魚を地球人には理解不能な『魔法』を使って……まあ私はその仕組みは知っているんだけどね。地球の日本近海から大量にほぼ全種類揃えて見せるなんて……そんなに魚が好きなのかしら?それとも『日常生活の再現は食にあり』という強烈なこだわりでもあるのかしら……そこのところは『ビッグブラザー』に感謝しなきゃかも。特に日本料理が大好きなランちゃんは『ビッグブラザー』には頭が上がらないわね」
「え?」
誠は一瞬、言葉の意味を飲み込めずに目をぱちくりさせた。部屋の時計は静かに時を刻み、外の風が古い窓ガラスをさする音だけが聞こえる。アメリアの声は明るくふざけているようで、その内容は重く冷たい事実の塊だった。ただ後半の恐らくアメリアが冗談で言った『ビッグブラザー』という意思がやたらと魚が好きなんじゃないかということには魚が好きな誠は感謝していた。
『遼州政治同盟』による一応の安定が実現した今もなお、遼州星系の各地で今も武力衝突が続いていることは知っていた。
20年前に終わった、遼州圏を含めた地球人のたどり着いた宇宙全体を覆った『第二次遼州大戦』の死者は、この遼州圏だけでも5億を超えていたという。
特に甲武とゲルパルトの地球への先制核攻撃の死者は突出していて、それこそ20億を超えたという。その後も地球圏や地球に同盟する遼州圏の反甲武・ゲルパルトの国家は損害をものともしない物量戦を展開し通常戦力を使った戦闘やそれに巻き込まれた民間人の死者もまた10億人を超えていた。
……そんな時代にあって、アメリアが言うには東和共和国では一人の戦死者も出ていない。それ以前に地球人の遼州到着以来400年近く、地球圏が侵略した遼州人以外の三つの知的生命体の絶滅戦争が多くの命を奪った。
それらむやみたらと戦争を起こす地球人に恐怖することが多い東和共和国の遼州人の誠だが、この国ではそれらの地球圏の核やミサイルが乱れこむ戦いと関わったことが無いという。
総計で1000億近い人間が核の炎で焼き殺されたこの400年という時代にあって、一切それに関わることなく一人の死者も出ていないという現象は明らかに異常なことであることは誠にも理解できた。
こんな異常な東和共和国について語るアメリアにはいつものお笑いTシャツを着ているぶっ飛んだ姉ちゃんの面影はなかった。机の上のコップを指先で回しながら、彼女の表情は一段と真剣さを帯びている。
「戦死者がいないってことは戦争に参加していないってこと……でも、それっていいことなのかな……私としてはちょっと疑問なのよね。『東和共和国』だけが平和で他は戦争ばかり。というかむしろ東和共和国はそういった戦争をしたい国に『無制限の戦時国債の受け入れ』という甘言で自分とは無関係なところで戦争が起きるように煽っている……この国の国内経済は一切成長せず、かといって輸出が増えている訳でもないのに経済的に繁栄しているのは地球人の『闘争本能』に付け込んで政府系金融機関が戦争を望む地球人の国々から受け取る、戦時国債が生む利子収入なのよ。最初に東和が目を付けたのはアメリカ。なんと言っても経済的裏付けがあるから貸し倒れの心配も無いとあの国自身は思ってたんでしょうね……初めのうちは。でも、ひたすら自国を偉大にするために次から次と金を借り続けては侵略戦争を続けたおかげでついには首が回らなくなってきた。つぎにこの国が目を付けたのはイギリスとフランスとイタリア。この三国には東和には無い美術品がうんざりするほど昔はあった。でも、今誠ちゃんはその美術品を地球にまで見に行く必要はないわよ。下野の美術館にほぼ現物が戦時国債を返しきれなくって差し押さえされて保管されてるから。先月もモナリザ展を下野近代美術館でやってたけど、あの東都の下野にあるモナリザが本物でパリのルーブル美術館にあるのは模写だから。結局、戦争のやりすぎでこの国に取り上げられたってわけ」
アメリアの語るこの国の富の源泉に関する話題には経済にはほとんど関心のない誠でも、恐怖だけは感じ取れた。
「誠ちゃんもお医者さんでお薬もらう時にお金を払ったことは無いでしょ?お医者さんのお給料も高いし、お薬だってただじゃないけどじゃあそのお金は何処から出ていると思う?」
またアメリアは誠の身近な話題に変えて誠に考えさせた。
「たぶんこれも誠ちゃんはそれが毎日食べている魚の時と同じように当たり前だったんでしょうね。でもそれは当たり前のお金じゃないのよ。それは地球人の『闘争本能』を煽って『戦時国債』と言うまるで麻薬みたいなお金をこの国が戦争がしたい国にばらまくことで生まれている。実に皮肉な話よね。金をばらまく国は一人の死者も出ていないのに『戦時国債』で戦争で敵国の民族浄化に伴う多くの死を生み出している地球人の『超富裕層』達はその勝利と引き換えに多額の利子をまるで上納金のようにこの東和に振り込んでいる。最近ではその返済さえできなくなった国が出てきて有り金全部この国に巻き上げられた国だって珍しくないわよ。そのお金がこの国の福祉を支えている……地球人はそんな自分が利用されるだけの存在だなんて気づいているのかしら?」
いかにも皮肉屋と言うアメリアの笑みに誠はある種の怖さを感じて背筋を自然と伸ばしていた。
誠は思わず、自分が病院で薬代を払ったことがない理由を思い出した。
それは福祉国家の善意ではなかった。
どこか遠い国で誰かが戦争をし、その利子を東和に払い続けているからだった。
先の第二次遼州大戦では総計で50億の命が消えたと言う。それ以外にもこの400年間の間にこの比較的戦争が少ない遼州圏でも軍事衝突により戦死者が出たというニュースは誠も頻繁に耳にしていた。
しかし、その400年間の間。東和共和国民で戦争に巻き込まれて死んだ人は一人もいないと言う。それはあまりに異常で誰かの意図が働いていなければ不可能なことだと言うことくらいは誠にも理解できた。
「まあ、地球圏のお金持ちの人達は経済指標にしか興味が無いからそれで良いんでしょうけど。そしてそのお金持ちはこの東和共和国から戦争をする為に無限にお金を借り続けて永遠にその利子を払い続ける。『戦争は平和である』……まさにその言葉がこの国にはぴったりくるわ。でもそんな自分勝手に地球人の本能を利用して戦争を煽って自滅へと導こうだなんて……自分では手を汚さずに嫌いな地球人を勝手に自滅に導くなんて『ビッグブラザー』がもし人間ならば私はちょっと会ってお話を聞きたいわね。でもその時は言いたいわね、あなたの考えはちょっと違うんじゃないかなって」
アメリアは真剣な表情で話を続けた。窓の外、通りを歩く人影がふと止まる。彼女の声はかすかに低く、そこに含まれる重みは誠の胸にじわじわと浸みてくる。
誠も本名すら知らない『ビッグブラザー』が何を考えているのか知りたくなってきた。
「それ以上に東和を守る意思『ビッグブラザー』には東和の『一国平和主義』を完遂できる自信がある。そのキーワードは、『アナログ式量子コンピュータ』と『それに同期する通信システム』。それに『情報戦』と『電子戦』。そして、その解説書がこれよ」
そう言ってアメリアは一冊の文庫本を誠に手渡した。その背表紙は擦り切れており、頁の端が手垢で茶色くなっている。誠は本を受け取り、頁をめくる指先が一瞬だけ震えた。
「作者は『ジョージ・オーウェル』……地球人ですよね、この人……なんでこんな本が突然出て来るんです?」
誠は古びた文庫本を手に取ってその著者名を読み上げた。
回し読みでもされたように、その本は手あかに汚れていた。
誠は学生時代に教科書の端で見たことがある程度の作家名だ。だが、本の実物を手に取るのは今回が初めてに近い。生活の細部を示す古本の匂いが、彼には少しだけ特別に感じられた。
「題名は『1984年』。SF小説の金字塔とか呼ばれてるわ。そこに登場する超存在『ビッグブラザー』をこの『東和共和国』は『アナログ式量子コンピュータ』を使って作り上げることに成功した……まあ、これも隊長の受け売りなんだけどね」
誠は本の背表紙を見つめながら、頭の中でキーワードが結び付いていくのを感じた。アメリアの口調は普段通り砕けているが、話の内容は軍事的で技術的だ。部屋にかかる空気が静かに引き締まる。ただのSF小説の名前だと思っていたものが、自分の暮らす国の『取扱説明書』だと言われる居心地の悪さに、誠はぞくりとした。
「SF小説の『指導者』がなんでこの国に君臨してるんですか?」
誠はほとんど『ちゃんとした本』を読んだことが無いので、アメリアにそう尋ねることしかできなかった。巡る言葉の一つ一つが、彼の既知の世界を少しずつ解体している気がする。
「誠ちゃんの『理系脳』でもわかるように言うと、『デジタル』はどんなに進化しても『0』と『1』の2進法でしかない。これは知ってるでしょ?」
笑顔のアメリアに誠は静かにうなずく。窓辺のプラントが揺れ、午後の光が本の頁を淡く照らす。アメリアの説明は噛み砕かれ、誠の理系的直感に触れる。
「でも、『アナログ』な世界には無限のパターンが存在するわけ。アナログの世界は数字で割り切れない無限の可能性がある。その無限を量子コンピュータの特性であるその圧倒的なデータ処理速度で実現したのが『アナログ式量子コンピュータ』。そう考えてみると、人間の脳は神経細胞『ニューロン』のプラスとマイナスの反応でしか認識できないから、地球のコンピュータと同じで『デジタル』なのよ。まあ、『デジタル』で考えるのが普通の『ヒューマノイド』ね。『無機的コンピュータ』も『有機・生体コンピュータ』も結局は『デジタル』信号で動いているのは同じだもの。『アナログ』の世界をそのまま『アナログ』で理解することは人間にもできない。『量子コンピュータ』の圧倒的な計算能力が『アナログ』なこの世界を『アナログ』な世界のまま計算し、理解することができる技術を手に入れることができた」
誠はその『理系脳』に導かれてアメリアの言葉にうなずいた。彼は頭の中で、アナログとデジタル、そして『存在』の関係を図に描くように整理してみる。だが、図の端にある『意思』というワードがまだ輪郭を持たない。
それを見て満足したようにアメリアは続けた。
「でもね、遼州人は頭の構造は地球人と同じように『ニューロン』で反応するデジタルな脳の持ち主でも、見た現実を見たままで理解したいと考える『デジタル』とかとは無縁の『アナログ人間』だから、『量子コンピュータ』が『アナログなシステム』で動くことに着目したの。その結果出来た『アナログ量子コンピュータ』は0と1ですべてを分析するという工程を経ないと現象を理解し回答を得ることができない『デジタル』のコンピュータとはまるで違う認識方式で情報の入力を受け入れてそれを判断することができるわけ」
アメリアは相変わらず冷ややかな笑顔を浮かべたままそうつぶやいた。
「つまり……地球のコンピュータは世界を数字に直してから考える。でも東和のそれは、世界を世界のまま扱おうとしている……そういうことですか?」
誠は理系らしくそう返した。
コンピュータシステムについてはデータ収集のためにAIでプログラムを作った程度の誠にはそのコンピュータがどんなシステムで動いているかについて詳しく考えたことは無かった。
ただ、電子工学でコンピュータシステムの勉強をしている友達から『地球人のコンピュータは馬鹿だ』と言う言葉は聞いていたので、それが明らかに違うと言う認識はないわけでは無かった。
ただし、その動くシステムの根幹がまるで逆と言うところまで違い、それが性能に露骨に反映していることまでは知らなかった。
「雑だけど、誠ちゃんにしては上出来ね。さすが理系……と言いたいところだけどこれまでの観察眼の無さからして帳消しってところかしら?」
アメリアはそう言って悪戯めいた笑みを浮かべた。
「処理速度がそもそも比較にならないレベルなんだから、当然、そんなこれまで不可能と思われた入力方式で情報を処理するその仕組みは『デジタル』で送られる単純な『デジタル』の通信を瞬時に解析ができちゃうの。その東和共和国が地球圏到達以前に開発していたその技術により地球圏が何を考えても東和共和国で『ビッグブラザー』は所詮『殺人狂』にしか過ぎない地球人の蛮行を嗤って見守っていることができた……なぜならいつでも自分に銃口を向けた瞬間に地球人のすべてを『電子戦』で絶滅させられる自信があったから……随分と身勝手な指導者ね。そういう意味では遼州人も地球人を『殺人狂』だなんて言っていられないのかもしれないわね」
この国の平和だけに関心を持つ存在『ビッグブラザー』。
その装置は、敵だけを見ているのだろうか。
東和を守るために作られた目は、東和の国民である自分のことも、ずっと見ていたのではないか。
そう思った瞬間、誠は手の中の文庫本が急に重くなった気がした。
要するに、地球の計算機が離散化して近似するしかない現実を、東和は最初から連続体のまま扱おうとしている……そういう話らしかった。教え導くように言うアメリアの言葉が誠の知識の枠を超えた。ノートに走り書きする指がない誠は、頭の中でその仕組みを追いかけるのに必死だ。だが、アメリアの説明が示すのは単なる技術ではなく、技術が国家を規定する『政治性』だった。
誠は、説明の細部は追いきれないながらも……『東和のコンピュータは、地球人のそれとは根本から別物らしい』ということだけは理解した。そもそもこの東和共和国からその持ち前の『もんじゃ焼き製造マシン』と呼ばれる乗り物酔い体質から出たことが無い誠は『デジタルなシステムで動くコンピュータ』という物の存在は知っていたが実物を見たことが無かった。
『量子コンピュータ』がプラスとマイナスだけではなく、原子の数だけ無限の数値を表す『アナログコンピュータ』であることは誠にも理解できた。『デジタル』の粒子が『アナログ』の世界を完全に表現できないことや、『デジタルシステム』が『アナログ世界』の遼州系のハッカーには余裕で潰せる脆いシステムだということは誠も十分理解している。
しかし、それがなぜ悪いことなのか?
確かに異常なことだが、悪いことには思えなかった。
それが誠には理解できなかった。
平和で何が悪いのか?
宇宙は戦いに満ちている。
この『東和共和国』ぐらい平和であってもいいはずだ。
誠にもやたらと自分と違う存在を見つけると騒ぎ立て徒党を組み、それが国家であれば核戦争まで行う地球人がこの宇宙から消えてくれればいいと思ったことは何回かあった。
誠はなんとかアメリアの言葉に反論しようとするが、語彙力が完全に不足していた。窓の外、小さな自転車が通り過ぎる音が聞こえるだけで、議論の輪郭が曖昧に消えていく。
誠は、自分が『平和な国の国民』だと思っていた。
だが今は、自分が『平和を維持するための巨大な装置の中で育った住民』なのではないか、という考えが頭から離れなかった。
守られていた。
その言葉は、少し前までなら安心の響きだった。
だが今の誠には、それが『見張られていた』という言葉と、ほとんど同じ重さに聞こえた。




