第16話 勝利の席と嫉妬の影
「勝った……これも母さんのおかげかな……」
誠は静かにシートに身を沈めていた。シミュレータの残光がまだ瞼の裏に焼き付いて、心臓はゆっくりと収縮と拡張を繰り返す。勝つはずのない模擬戦に勝った直後の身体は、興奮よりもどこか醒めた静けさに包まれていた。胸の奥には、幼い頃に母から叩き込まれた型の断片が、ほんの瞬きの間に鮮やかに甦っただけだった。
シートに身を投げている誠の目の前で全天周囲モニターの隙間が広がった。そこからざわめきと歓声の波が流れ込むように、外界の気配がコックピットへ押し寄せる。金属音や笑い声、誰かのタバコを潰す音までが、明瞭に聞こえた。
「すげえな!オメエ!あのメカねーちゃんに勝ちやがった!どうやって勝った?どんな魔法を使った?生身であの西園寺さんに勝つなんて無理な話だぜ……さすが俺の舎弟……俺が男と認めた男だ!」
満面笑みの島田の叫びがこだまし、ひよこの尊敬の念を含んだ笑顔が顔をのぞかせた。整備班の男達の顔に浮かぶ無邪気な好奇心や、医務室の柔らかい灯りの記憶が混じりあい、誠の勝利を祝う熱が場内を満たしていく。湿った布の匂い、オイルの匂い、それらが混ざった空気の中で、誠はしばし言葉を持たなかった。
「はっ……はっ……勝ちました……なんだかよく分かりませんけど……勝ったみたいです……」
二人の歓喜の視線に誠は薄ら笑いを浮かべて二人の賞賛に答えた。笑顔は下手に作るほど滑稽だと分かっている。だから誠の笑いはいつも控えめで、どこか自分を宥めるような仕草を伴う。
誠は伸ばしてきた島田の手につかまってそのまま地面に降り立った。床の冷たさが足裏を刺し、現実の重みが戻ってくる。頭の中の静けさはまだ続いていて、歓声は遠隔操作のように心に届く。
「糞ったれ!なんで負けるんだよ!アタシの馬鹿野郎!」
かなめの絶叫がシミュレーター・ルームに響いた。彼女の声は鋭く、それでいてどこか可愛らしい憤りを含んでいる。大きな感情の波が部屋の空気を震わせ、皆が振り向く。かなめはシミュレータから這い出て、汗と油の匂いもなく、潔く怒りを表出していた。
明らかに不機嫌そうにシミュレータから這い出た彼女は誠の前に立って苦笑いを浮かべつつ、長身の誠を見上げた。
「ああ、負けたのは事実だ……目で見たリアルがすべてってのがここのお約束でね。オメエ……結構やるじゃん。あの一撃でアタシを仕留めなきゃ……」
かなめの言葉に、誠は静かに答えて胸の内の一点に灯るものを確かめる。
「分かってます。あそこは攻め時でした。あそこを逃せば次の反撃で僕は負けてました」
言い切る誠の口調には余分な粉飾がない。その正直さをかなめは感心したようにまぶしげに見つめ、悔しさと同時に一種の敬意を滲ませる。彼女は不器用に頭を掻き、短い沈黙の後に素直な評価を口にした。
「認めてやる。オメエはこれまでのカスとは違うタイプだ。気に入らねえが負けたのは事実だ。オメエの事……『少し』は認めてやる……どこまでも『少し』だがな」
その一言には、戦場でしか換えの効かない『尊敬』の形が含まれている。かなめの態度のどこか素直でないながらあれほど悔しがって自分を攻撃してくると誠が感じていたかなめが急に自分を称賛する言葉を吐くのに誠は苦笑いを浮かべながら、今この瞬間は素直な祝福として誠の胸に届く。
それでもやはり悔しいのだろう、かなめは照れた表情を浮かべた後、誠に背を向けてまっすぐに出口に向かった。
「西園寺さん!」
誠は素直でないかなめのその態度に思わずかなめを怒らせてしまったのではないかと不安に思って声をかけた。
「タバコだよ……ちょっと熱くなったからな……アタシなりの熱くなった時のクールダウンのやり方なんだ……そのことで人にどうこう言われる筋合いはねえよ」
誠の問いかけにそれだけ答えるとかなめは出て行った。タバコの箱をタイトスカートのポケットから取り出すかなめの姿には、勝者への素直な称賛の態度と敗者の矜持が同居している。部屋にはまだ、戦いの余韻と金属の匂いが残っている。
気が付くと誠は整備班員や運航部の様々な色の髪の女子士官に囲まれていた。目の前に広がるのは、笑顔や驚き、羨望の混じった顔々。普段は侮蔑を向けられていた彼が、初めて祝福に包まれる場だった。
「すごいわね。西園寺さんに勝つなんて!」
「下手だって聞いてたけど嘘じゃねえかよ」
「すげーよ!やっぱオメエはすげーよ!」
数々の賞賛の声が室内に響いた。誠はいつもどこか居心地の悪さを感じる場面でも、今日は照れとほのかな誇りで頬が温かくなる。勝利の善意は、長らく渇望していたこれまで得たことの無い『居場所』への渇望の念をほんの少しだけ満たしてくれる。
誠がシュツルム・パンツァーの操縦を褒められるのは初めての経験だった。これまで浴びてきた明らかなおべんちゃらと侮蔑と嘲笑の視線はそこには無かった。誠は久しぶりの自分をほめたたえる雰囲気に酔いながら照れて頭を掻いた。
「そんなこと無いですよ。偶然ですって偶然。格闘戦は偶然の要素が強いですから」
謙遜の声は自然だった。この一つの勝利で自分の居場所を得たことで満足するのは彼なりの慎ましい欲望であり、今日の勝利はその小さな願いを満たす一片に過ぎない。
照れ笑いを浮かべながら誠はそう言って周りを見渡した。その視線はかなめがどれほどの難敵だったのか、そして自分の勝利がどれほど奇跡的なものなのかを誠に知らしめた。
「そーだな。今回、勝てたのはハンデと偶然。それが分かってりゃー次も勝てるかも知れねーな。たとえ飛び道具があったとしても……アタシから見るとサイボーグで反応速度と望遠射撃が得意で一見無敵に見える西園寺にも色々攻めどころがあってね……まーオメーにゃーそんなところまで今すぐ達しろなんて無理なことは言うつもりはねーがな」
入り口の方でそんな厳しいランの寸評が響いた。ランは子供の外見に似合わぬ重厚な語り口で、勝利を冷静に分析する。彼女の評価は厳しくも的確で、誠にとっては叱咤と励ましの混合である。
ちっちゃな彼女の隣には長身のアメリアとエメラルドグリーンのポニーテールのカウラの姿があった。二人の視線は誠をしっかりと捉え、入隊後初めて受ける確かな承認がそこにあった。
「でも……あの途中で僕を守って勝敗を決めたようななんだか『壁』みたいなのはなんなんですか?あんなもの……これまで何度もシュツルム・パンツァーシミュレータには乗ってきましたけどあんなもの一度も見たことは無いですよ。それと僕以外乗るなと書かれたシミュレータにあったあのゲージ……あれも何なんですか?あれとあの西園寺さんの攻撃を防いだ『壁』って関係あるんですよね?鈍い僕にだってそれくらい分かりますよ。あれが勝負を決めたんです。教えてください。あれはなんですか?」
誠は正気に戻るとそう言ってランに歩み寄った。勝利の余韻の裏に残る『不可解』を解きたかった。
不自然な『障壁』。あれが誠を守らなければ誠は明らかに負けていた。
ただ、勝利のもたらす感傷に酔っている誠はランに深く質問するつもりは無かった。とりあえず今の自分が納得できる答えだけを彼女に求めていた。そんな誠の心を読んだようにランは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「あれか?システムエラーじゃねーの?それにそのゲージとシステムエラーの関係……オメーはどう説明すれば納得するんだ?逆にアタシが聞きたいくらいだね……オメーも理系の大学を出てるんだからシステムにはエラーが付きもんだってことは理解してるだろ?今はそう思ってりゃそれで良ーんだ」
そう言ってランはとぼけてみせた。だが誠はその返答を単なる冗談とは受け取らなかった。何かが、部隊の内部で誠という存在に特別なレイヤーを与えている。誰が、何のために、という問いは頭の片隅に冷たい石のように残る。
「システムにエラーがつきものだと分かってるから言ってるんですよ。エラーにしてはしっかり画面に再現されてましたね……もしあれが予期せぬエラーならあんなに効果的に僕を守ったりするわけがありません。それにあのゲージとクバルカ中佐がエラーと呼ぶものに関係があるのは僕でも分かります。そこに何があるのか説明しろと言われても、このシミュレータを作ったのは僕じゃないんで……でもそれにしてもおかしいですよ」
真剣な表情の誠はランの言葉を額面通りには受け取らない。疑問は残るが、今は祝杯の行方や仲間たちとの会話を楽しむべき時だと、自分を納得させる。
「じゃあ、逆に聞くが、アタシがなんと言えばオメーは納得するんだ?オメーの使える超能力……ということにでもしておくか?今はその程度の理解でいーんじゃねーの?アタシとしてもそー思ってくれた方が気が楽だ」
ランがからかうように言うと、場内の空気が一瞬和らぐ。この東和共和国のネットでも時々騒がれる遼州人には地球人には無い力があるという手の話は遼州圏の人間にとっては単なる都市伝説のようなものだ。理系の最高学府を出て地球科学に絶対の信頼を持っている誠にもそんな話は単なる陰謀論程度の認識しかなかった。
「超能力だと思え?そんな話はただの与太話……そもそもこの宇宙の原則は物理化学ですべて証明済みですよ。まあ、クバルカ中佐が魔法少女であるという事実は科学では説明できませんけど……まあ、あれは冗談なんですよね?うちの人達もみんな中佐を魔法少女認定してますけどここの人は全員頭のねじが一本ぶっ飛んでる人ばかりなので。僕は科学を勉強した人間です。あの絶対に崩れないとされた『相対性理論』も『相対性理論超克空間把握理論』という、これも地球人の考えた科学によって否定されたんですから。 科学を超克するのは、常にその矛盾を指摘する『次の科学』だ……大学の授業で、うんざりするほど聞かされました。超能力なんてものは存在しません!そんなのはアニメの中だけの話です!クバルカ中佐が魔法少女なのは……なんとなく認めたい気がしますけどそれは僕の個人的な趣味の問題で現実とは関係ない話ですから」
あまりに突飛なランの言葉に誠は少し呆れながらそうつぶやいた。どこまでも理系の大学で基礎理論が常に現実を動かしているんだという教育を受けてきた誠にとって一足飛びにすべての科学理論を否定して『超能力』などと言うことを言いだすランの真意が読めなかった。
「遼州人には地球人には無い能力がある。そんな噂がある。遼州人は地球人が誕生する……いや、地球に哺乳類と言う存在が生まれるはるか以前から『鉄』も作らずに『焼き畑農業』を続けていた民族だ。それ以上の文明を持たなかった理由がそこにあるんじゃねーかっていう学者もいる……第一、400年前の独立戦争で小銃と石斧で近代兵器の地球軍を追い払う実力が遼州にあった説明はどうつける?遼州人には超能力がある。地球の連中はそう思ってる。そしてオメーが大学で習った科学ではそれが説明がつかねーことも連中は知っている。その知識は遼帝国の中興の祖である女帝遼武の代まではただの不思議で済んでいた」
ランは、頭でっかちだと感じている誠を見上げ、笑顔を浮かべながらそう言った。
「でも今は違うんだ。進み過ぎた科学はもはや魔法だ……昔の地球人にそんなことをいったにんげんがいるそーだ。だから地球科学で説明の不可能な力を遼州人が持っていても決して不思議なことだとはアタシには思えねーがな。アタシ自身そのことはよくわかってるし……なんと言ってもアタシは魔法少女だから。アタシの愛機だった『方天画戟』、そしてオメーの乗る『05式乙型』にはその進み過ぎた科学が生み出した遼州人の力を生かすシステムが組み込まれている……オメーがその地球科学とやらを信じるのは勝手だが、現実にオメーは勝つ見込みのない西園寺の馬鹿にこうして勝った……その理由を説明するのに科学的根拠が必要だなんて話はアタシは知らねーな。勝ちは勝ちで負けは負けだ。理屈なんて言う物は後からついてくるもんだ……違うか?」
ランの話は断片的だが、説得力を帯びる。誠は自分を特殊視する言葉に戸惑いを感じつつ、これまで信じてきた地球科学がある意味限界を迎えつつあるとランは言いたいらしいことは理解できた。
「でも、そんな噂は聞いたことがあるんですが……確かに科学の理論は常にすでにある理論を全否定することで地球人は科学を進めてきたんですからね……でも遼州独立戦争とか言う話になると……僕、歴史は苦手で。魔法少女のクバルカ中佐がそう言うのなら今のところは、そういうことにしておきます。それにしても話は変わりますけど、05式乙型って何です?『乙型』ってことは当然『甲型』も存在するんですよね?」
誠の質問は率直だった。元々文系知識を持つ気のない誠は周りの友人たちに自分の歓心の無いことについて聞く事には慣れていた。その目の前の現実を理解しようとする姿勢が、周囲の士気を和らげる。
「あるぞ『甲型』は。うちに有る三機は全て『甲型』だ。オメーの専用機になる『乙型』にはアタシの愛機だった『方天画戟』を参考にしたシステムを組み込んで一般仕様の『甲型』から『乙型』への改修作業を現在隣の工場でやってるからうちへの納入が遅れてるんだ。到着まで楽しみに待ってろ……オメーのシミュレータは『乙型』のコックピットを再現したもので、『乙型』に乗らなきゃ起きねー現象を再現しただけだ。オメーが乗る機体ではあの機体でのシミュレーションで体験したことが実際に起きる……さっきアタシがエラー扱いした現象が現実に起きる……なんてこともあるかも知れねーな。ま、オメーが『その力』を欲しがらなきゃ、それでいいんだけどな。過ぎた力は身を亡ぼす。アタシも常に魔法少女としてその事だけは心に命じているんだ」
ランは俯いた誠に笑いかけ、余計な詮索は不要だと告げるように肩を叩いた。その信頼は誠にとって何よりの励ましだ。
「オメーの質問……結構アタシには冷汗もんだったぜ。これまでの馬鹿と違ってアタシの話しちゃなんねー急所を的確に突いてくる。オメーが馬鹿じゃねーのはよく分かった。でも、世の中知ってていいことと知っているとまずいことがある。今はさっきのエラーの話はオメーは知らねーでいるのが空気を読める士官の在り方……軍や武装警察にはそんな自分の置かれた立場を理解する必要がある時があるんだ。オメーは幹部候補生の触れ込みで東和宇宙軍に入ったんだろ?パイロットとしての技量だけならオメーはただの使い捨ての駒だ。ちゃんと自分で考えて行動する。そのために必要な知識を自ら得る努力をする。それが士官てーもんだ。少尉候補生だろ?」
厳しい言葉だが、そこには期待も混ざっている。誠は拳を軽く握り、胸の内に静かな決意が灯るのを感じた。
「まあいいじゃないですか!俺だって技術部長代理なんてやってますけど情報士官のシステム系の話なんてついて行けねえんですから……それより、神前。今日は暇か?」
助け舟を出すという雰囲気で島田が誠に声をかけてきた。温かい声だ。島田の存在は誠にとっては兄貴分であり、安心できる保護であった。
「ええ、まあ……でも今日は僕はどこに泊まればいいんですか?ここからだと僕の実家まで帰るのに国鉄、私鉄、営団地下鉄と何回も乗り換えればいいのか分からないんで……」
誠はこんな千要半島のど真ん中のバスさえろくに走っていないだろう工場の中まで連れてこられるとは思いもしなかったので帰りの足を心配した。
「安心しろ。もう寮にオメエの部屋が用意してあんだ。今日からはそこに住め。さっき非番の奴に仮設ベッドと布団は用意させた。飲むぞ!」
『オー!』
島田の叫びに合わせてシミュレーションルームになだれ込んできていた整備班員の男達が一斉に雄たけびを上げた。笑い声は場の緊張を完全に溶かす。誠はその輪に引き込まれる自分を少しだけ許す。
「ちょっとまってね……」
そこに水を差したのはアメリアだった。紺色の髪をかき上げながら、彼女は相変わらず表情が掴みづらい。だが、その糸目の奥には誠に向ける確かな計算があるように見える。
『相変わらず何を考えてるか分からないオバサンだな』
失礼な内心の呟きも、優しい島田の顔を見れば軽やかに消えていく。誠は微笑を作り、場の空気に馴染もうとする。
「なんですか……」
誠は信用ならないそのアルカイックスマイルを浮かべたアメリアを警戒したようにそうつぶやいた。
「今日は私達と飲みましょう。私とカウラちゃんとかなめちゃん。以前来た補充パイロットの五人も一緒に呑んだのよ。まあ連中はいなくなったけど他のとは違って誠ちゃんはきっとうちに居つきたくなるから……ね?」
アメリアの誘いは確かな配慮に満ちている。彼女の振る舞いは軍人然としているが、部下を囲い込む術を知っている。誠は胸中で軽い恐縮を覚えるが、それと同時に暖かさを受け取る。
「そんな……今日はこいつを祝って、吐くまで飲ませるつもりだったのに……」
強気そうな島田がおずおずとアメリアに申し出ると、笑いが場内に弾ける。
「シャラップ!これはうちの新人パイロット教育の一環なの!二人の先輩パイロットと運用艦の艦長のアタシ。新人を仕込むにはいいメンツでしょ?それとも何?島田君は誠ちゃんに向けてうちの隊で男子で彼女が居るのが俺だけだって言うネタだけで深夜まで誠ちゃんに『モテない宇宙人』である遼州人の哀しみを実感させて自分は悦に入ろうって腹?随分と大きな態度だこと……あくまで部長の代理しか務まらない下士官なのに」
アメリアの切り札は説得力がある。島田達は黙り込むしかない。誠は胸の内の不安を押しのけて、ただうなずいた。
「じゃあ、とりあえず機動部隊の詰め所で終業時間まで潰したらカウラちゃんの車で出発ね」
笑っているような顔の作りのアメリアはそう言ってシミュレータ・ルームを去っていった。彼女の去った後の空気には、少しだけ祭りの後の静けさが残る。
アメリアを見送った誠の視線にカウラのエメラルドグリーンの髪が飛び込んできた。恥ずかしさと期待の入り混じった視線だ。彼女のまなざしには冷静さと温度が同居している。
「貴様。なかなか面白い奴だな……これまでの男には無い独特の雰囲気が貴様にはある……これまで冷たく接してきて悪かった」
カウラの言葉は簡潔だが、その意味は重い。誠は目を逸らさずに応える勇気を出す。
「最初に言ったまるでここを出て行けという趣旨の発言は撤回する。これまでの連中とは違って貴様にはここに残って欲しい……これは私の個人的な意見だが」
カウラが去る背中に、誠は胸に浮かぶ小さな希望を確かめる。誰かの『残って欲しい』という言葉ほど、素朴で確かなものはない。誰かに『残って欲しい』という言葉を言われたのは、いつ以来のことだろう……誠は思い出せなかった。
「残って……いいのかな?本当に……こんな僕でも……」
誠は自問する。遼州人の性分が囁く。進歩を望まないという彼の性根は、だがここでの『残る』ことと矛盾しない。居場所が与えられること、それだけで彼には十分なのだ。
シミュレータでの勝利で誠の扱いは司法局実働部隊機動部隊の詰め所では一変していた。場内は早くも打ち上げムード。だが、祝福の輪の外に、薄暗い角がある……誠はその存在を直感的に感じ取る。
「オメエ野球やってたらしいじゃねえか……さっき調べたけど……すげえ戦績だな。あの事件が無ければ間違いなくドラフト候補だ……まあ、そうなったらこうしてオメエと会えなかったわけだからその事件に感謝するしかねえんだけどな」
制服の上から銃を左脇のホルスターに突っ込んだままの上機嫌のかなめがそう言って誠に話しかけてくる。二人の間に流れる空気は陽気で、競争と友情が混じったものだ。
「ええ、まあ。うちは都立の進学実験校だったんで部活はほとんど無くて……。でも一応、夏の大会だけは出ないといけない雰囲気があったんで……確かに何人かスカウトとかの人には会いましたけど……あの事件以降は一人顔を出した程度で他の人はまるで連絡なんか来なかったですよ」
笑顔のかなめの顔が急に曇って敵意と軽蔑に満ちたものに変わった。その変化に気付いた誠は背後の気配を感じ取り振り返る。そこに立っていたのは、角刈りで小柄な男の姿だった。顔には不愉快そのものという怒りの表情が貼り付いている。
『嫉妬』。その感情だけで動いていることは、誠にもすぐに分かった。
誠はその言葉を、胸の内にそっと刻みつけた。男は詰め所の中心へとずかずかと歩み寄る。
「良いご身分だな。管理部には挨拶も無しか?島田のアホに管理部の悪口でも吹き込まれたんだろ……ああ、ベルガー大尉はいいんですよ、俺が用があるのはこいつだけですから。ほら、これが土産だ。受け取れ」
男の声は針のように空気を切り裂く。誠は戸惑いながらも袋を受け取る。中身は制服の予備と、小さな冊子。あからさまな敵意がその渡し方に滲んでいる。
「あのー……後で挨拶には行こうとは思ってたんですけど……島田先輩にあそこは後で良いって言われたんで……」
誠の戸惑いと虚弱な謝辞に、男の苛立ちは増すばかりだった。場の緊張は一瞬にして冷め、誰かが仕切り直すように場を整えようとする。
「ふうん、島田のアホの言うことは聞くんだな、お前も。あと、この冊子がここの電話の子機。使い方は西園寺さんに聞け。パイロットの連中は何時だって管理部門のバックアップの人間への気遣いなんて無いんだ。お前もそんなパイロット候補生の一人なんだろ?俺達が資材を調達してやってるから戦えるのにそんなことは考えたこともないか?整備の連中も部品の発注をやる俺がいなければただの馬鹿の集団でしかないのに」
男はそれだけ言うと去ろうとする。だが、去り際の憎しみに満ちた視線は誠の背中を焼く。
かなめは冷ややかに、その男をからかうように返す。
「こいつをうちに引っ張るのにオメエも協力したじゃん。『こいつはロリコン犯罪者に仕立てましょうよ』って言いだしたのはテメエだったよな?菰田……ああ、変態はオメエの専売特許だったな!アタシやアメリアの胸がGカップ越えって知ってパートのおばちゃん達に『胸にしか栄養が行かなかった馬鹿女』って喋ってるのはアタシも知ってんだよ!」
男は一瞬言葉を失い、鼻を鳴らして怒りを募らせる。かなめが菰田と呼んだ男の視線が誠に突き刺さってくる。誠の心には、初日から厄介な敵を作ったという実感が冷たく刺さる。
「ああ、西園寺は面倒なことは嫌がる質だからな。今日からは私の部下になるんだ。私が直接教えよう」
カウラが静かに立ち上がり、誠に近づく。菰田は慌てて彼女に取り入ろうとするが、その様子はどこか滑稽で、破綻を含んでいる。
「いやいやいや!ベルガー大尉ほどの方のお手を煩わせるようなことはしませんよ。それにしてもベルガー大尉はいつものことながらお美しい……じゃあ、西園寺さん……あなたも戦闘以外の仕事をしてもいいはずですよね?」
言葉の端々に取り繕いが感じられ、菰田の挙動は不自然さを増す。誠はそれを冷静に観察する。かなめは嘲笑混じりに彼をあしらう。
「カウラが教えてえって言ってんだからそうすりゃいいじゃん。『ヒンヌー教徒』の教祖様はこれだから付き合いきれねえ」
かなめの皮肉に、菰田は顔を赤らめて詰め所を出て行った。叫び声が残る。
「いいか!貴様を認めんからな!俺は!」
誠は一方的に向けられる敵意にどうすることもできずに、カウラに尋ねる。誠は、先ほどまでの祝福の温度が、菰田の一言で少し濁ったように感じていた。
「なんです?あの人」
「菰田邦弘主計曹長。管理部の部長代行だ。総務とか経理の仕事を担当している……まあ島田のから聞いてるだろうけど部下の全員がパートタイマーの女性だけだがな……それと……これは私の口からは言いたくない。生理的に無理だ」
カウラは言葉を詰め、少し顔を伏せる。言いにくそうに続ける。
「それと……何かあるんですか?」
カウラは黙り込んだまま、小さな動揺を胸に隠している。
「ああそうだな。カウラにゃあ言えねえよな。あの菰田の陰湿変態野郎はペッたん胸愛好者の集まりのカウラファンクラブの会長だ。『ヒンヌー教団』ってアタシ等は呼んでる。名前を聞いただけで菰田がいかに変態かということが分かるだろ?」
かなめの口調は悪意を含むが、どこかおどけている。誠は初めて聞く俗称に首を傾げる。場の空気が一瞬和む。
「あの変態主計曹長殿とゆかいな仲間達はツルペタおっぱいが好きなんだと。だからうちで一番胸が無いカウラを神とあがめていやがる……まあ、あのめんどくさい角刈り頭がアタシの豊満な胸に興味を示さないでいてくれるのは結構な話ではあるんだがな。あのケチで陰湿でメタボ腹で……女に好かれる要素ゼロの菰田に執着されてるカウラには同情するばかりだ」
かなめはそう言ってうつむいたままのカウラを興味深そうに眺めた。自分の『居場所』と決めたこの『特殊な部隊』にも菰田のような人物が日常のどこかに棲んでいることを、彼はまだ甘く見ていたのかもしれない。
「ああ、私にとってはただ迷惑な話だ……そうだ、仕事だ」
カウラは仕事に戻るように声を張る。彼女の手付きは慣れていて、箱から電話子機を取り出して淡々と差し込んでいく。誠はその仕草を見て、安堵と責務を同時に感じた。
「さっき西園寺さんが酷いことを言ってましたけど……菰田先輩って見た感じなんだか怖そうな人ですね」
明らかに誠に敵意を持っているような菰田の態度に誠はそう言って頭を掻いた。だが、ここに残るという選択は、すでに彼の中で芽生えていた。明らかに目の前の女子だけでなく誠自身も嫌悪感しか感じない菰田の影は濃いが、それは乗り越えるべき最初の壁にすぎない。
「オメエが今日帰る寮の副寮長でもあるからな。年中顔を合わせることになるぞ……まあ、あいつは色々と面倒な奴だからうまくやれよ」
かなめはあっさり笑い飛ばす。誠は軽くうなずき、心の中で明日の朝の顔合わせをぼんやりと想像する。詰め所のざわめきがゆっくり収まると、誠は新しい一日の始まりを思った。静かな確信と、わずかな不安を胸に抱えて。




