第9話 殺気と将棋盤
誠は、母が道場主を務める剣道場で育った。
竹刀を振る音より先に、相手が踏み込む気配を読むことを母に叩き込まれていた。
だからこそ分かった。
ランの小さな身体から漏れたものは、威嚇ではない。
本当に人を殺せる者だけが、無意識に残してしまう圧だった。
小さなランから放たれる圧倒的な『殺気』。誠はその雰囲気にひるんで、思わずしゃがみこんだ。
母に教えを乞うために訪れた数多くの格闘家のそれとは次元の違うランの放つ『強さ』の雰囲気に誠は力を失った。
確かに見た目は8歳女児に過ぎない。ただ、その目つき、その動きの余裕、そしてきびきびと動く手の動きが示す明らかに戦い慣れたその態度にはこれまで出会った格闘家のそれとは比較にならない圧倒的な迫力を放っていた。
『……この子……口だけじゃない。雰囲気でわかる。圧倒的に『強い』……』
誠は実家は剣道道場である。
誠の実家の剣道場『神前一刀流』は知る人ぞ知る流派らしく道場主でその正統後継者である母の薫を訪ねてきた、名のある『武闘家』にも何人も出会っていた。彼等の持っている『雰囲気』を知っている誠はそう確信した。その誰も今のランと比較できるような『風格』を持った人間は居なかった。
ただ強いだけの人間。それがより強い母に教えを乞いに来る。誠にとってはその日常は当たり前すぎる日常だった。
ただ、ランの放つ殺気と圧倒的な強さの雰囲気はこれまで出会ったどんな『武闘家』のそれと比較するだけでもランに失礼なほどに圧倒的なものだった。
そして誠は彼女の気配に少しおびえている自分を見つけた。クバルカ・ラン中佐が『かっこかわいい幼女』であるのは事実としても、その放つ殺気はただ者のそれでは無かった。
殺気を放った幼女の姿におびえる誠に、彼女は優しい笑顔で手を差し伸べた。
「大丈夫か……アタシの殺気が分かるとはそれなりの素質はあるみてーだな。やっぱりあの人の息子というのは伊達じゃねーらしーや。オメーのこれまで会ってきた常人レベルに収まる戦場においてはただの弾避けにしか使えねー馬鹿にはアタシの殺気は分からねーんだ。だから連中は無謀に勝てもしねー相手に突っ込んでハチの巣になる。そんな奴の上司には二度となりたくねーと思ってたが、オメーはその点では合格だ。こんだけ殺気を出して威嚇してるのにアタシの前に出て来る馬鹿な敵が何でアタシに殺されに出て来るのか理解できねーよ。本当に驚かしてすまねーな。アタシは基本的にはあの戦争と人殺しが大好きな地球人とは違って遼州人だから『平和主義者』なんだ。傷つけることも人が傷つくのも嫌いだ。ただ地球人だけは別だ。地球人は、自分の手を汚さずに他人を殺す理屈だけは一人前だ。目の前の現実より、頭の中の都合のいい世界を信じる。だから嫌いなんだ」
誠は、話の着地点を見失った。
自分の素質を褒められていたはずなのに、いつの間にか地球人批判になっている。
しかも本人は、まったく脱線したつもりがない顔をしていた。
このちっちゃな生き物がこれからの誠の上司であることに誠は正直戸惑っていた。
そんな戸惑う誠をバックミラー越しに見つめて来る誠が会った人物どこまでも優しかった。だが、誠の手は震えていた。この同じ優しさを感じるのはこれまで誠があった人物の中では誠の母の薫以外には無かった。
誠はランの差し伸べた小さな手を握る。暖かくて優しい8歳児の女の子の手だった。
それは決して、『内戦』の行方を左右した『無敵のエース』の手であるとは、誠には思えなかった。
握手が終わると、誠はまだランの顔を見つめていた。
うっとりしていたというより、理解できないものを前にして目を離せなくなっていた。
「とりあえず車に行くぞ。ここにいても邪魔になるだけだ。アタシは遼州人には配慮は出来るんだ。オメーも含めてな」
握手が終わると、自分の姿にうっとりとしている誠に向かってランはそう言った。誠は自分の胸にも届かない身長の『敗戦国の英雄』と呼ばれた幼女を見つめた。
『小さい……でも、あの目……『遼南内戦』は壮絶だったと聞くから……このかわいい子は……相当人を殺してるんだ……それにあの殺気……地球圏を滅ぼせるというのも嘘じゃないかもしれない……と言うか、地球人は人殺しが大好きな殺人狂しかいないって聞いてるから一刻も早く滅ぼしてくれると僕としても安心できるんだけど……』
小さなランの背中を見て我に返った誠は、自分の荷物を持ち直して彼女の後を追った。
ランの言葉は乱暴だが、公正な約束でもあった。誠は自分の心の奥で、母の道場で教わった礼を反芻する。ランの拳銃、幼い姿、だが確かな経験。何かが合致した。彼女はただの奇抜な人物ではない。人を掴み、導く力量があった。
二人は玄関付近に停められた黒光りする車へ向かった。ランは運転席に滑り込み、誠は助手席に促される。そこでも彼女の個性は発揮された。車内の助手席には将棋の月刊誌と何度も読んで隅がすり切れたように見える詰将棋の問題集が数冊几帳面に置いてあった。ランは車を発進させながら鼻歌混じりに聞きなれないゆったりとしたリズムの曲の一節を口ずさむ。誠には何とも言えぬミスマッチに思えたが、彼女には揺るがぬ芯があった。
「ああ、助手席のこれが気になるか?うちでは仕事中に将棋をしてようが、酒と食い物のことを考えていようが、全然問題ねえ。要は結果と、部下を守る気概だ。アタシ等司法局実働部隊は警察と軍の中間みたいな部隊なんだが……負けた軍隊に何の価値がある?戦争は勝ってなんぼだ。負けた軍隊には過去を語る資格もねー。アタシも遼南共和国と言う負けた軍隊の兵隊だ。だからアタシも過去を語る資格はねーってわけだ」
ランは鷹揚に笑って運転を続ける。彼女の言葉は乱暴で皮肉に満ちているが、その眼は誠の行く末を真剣に追っていた。誠は窓の外に流れる街並みを見つめながら、自分がこれから何を為すべきかをゆっくりと考え始める。
「分かりました……やってみます」
誠は小さく答えた。ランは微かな満足そうな笑みを浮かべると、ぽつりと言った。
「よし。オメーに試すことがある。最初の試練は『気配に敏いかどうか』だ。組織ってのは連続の気配だ。たとえば、今この車の後ろに停まってるヤツの靴に泥がついてるか、それとも真新しいか。そういう細かいことに気づけるかで、お前の命が変わる」
誠は驚きながらも、徐々に注意を車外の細部へ向ける。ランの言葉は日常の中の緊張を鋭くさせる。彼女の訓練は肉体技術だけでなく、感覚を磨くことをも要求するのだ。
「分からないです……」
誠は正直に背後の車を見ながらそう言った。
「だろーな。オメーにはエースになる素質はねーな。ただ、アタシの指示でアタシの……いや、隊長の満足できる結果を出す素質はある。東和宇宙軍の教導隊の教官の言ったことが気になる?アタシは現役の東和陸軍のシュツルム・パンツァー教導隊の教導隊長も兼務している。そのアタシが言うんだ。東和宇宙軍の兵器の性能だけを当てにしている人間とそれを操縦する人間を信頼しているアタシとどっちを信頼するんだ?」
車はやがて東和の首都の官公庁を抜け東都の東に続く安いマンションが続く住宅街を進む。誠は助手席でランの横顔を見つめる。小柄な身体に潜む大きな影。彼女の目は遠くを見据え、口元にはいつもの皮肉が浮かんでいる。だが誠の中で、確かなものが育ち始めていた。
やがて、車は首都高の入り口に入りそのまま東に向かう千要道へ向かう進路を取った。
「帰りたいか?今、アタシに言えば東和宇宙軍はクビになるだろうが第二新卒としてそれなりの会社に入れる。今がその機会……そう考えたんじゃねーのか?」
不意にランはそんなことを口にした。
「いえ、僕の顔……そんな風に見えます?」
バックミラー越しにランの幼い顔が真面目で鋭い視線のまま誠を見つめていた。
「いや、今は良い……そーアタシなりに気を使っただけだ」
ランは何かをごまかすようにそう言うとそのまま車を千要道への合流部へと進めた。
「そう言えば……その車のコンソール……ナビじゃないんですか?さっきから電源落ちてますけど」
しばらくの真っすぐと続く千要道の大型トレーラーの群れが作り出す渋滞地獄に飽きた誠は消えたままのランの黒い高級乗用車のそれにふさわしいコンソールにある大型モニターを指さした。
「ああ、いいタイミングだな。今は……時間は10時か……ちょっと待ってろ」
そう言うとランはコンソールの隣のスイッチを押した。
すぐに電源が入り、そこには将棋盤が映し出された。
「これってテレビですか?運転中にテレビなんて……許されるんですか?さっき中佐が言った話では司法局実働部隊って警察みたいな組織らしいじゃないですか。警察官が運転中にテレビなんて……懲戒免職ものですよ……それに将棋中継って……要するに遊んでるだけってことですよね?」
いつまでもやられっぱなしと言うのも何なので誠は運転しながらちらちらと画面での対局を眺めているランに向けてそう言った。
「面白いこというじゃねーか。懲戒免職だ?そんなもんアタシを前に言える度胸のある奴は遼州同盟に一人も居ねーんだ!将棋盤の上にも、殺気と気配がある。そういうもんを読む訓練だと思え!そんなことも分からねーからオメーはあの訓練成績なんだ!身の程を知れ!」
激しい口調でそう言うランだが、その視線はコンソールの画面に映された将棋盤に集中していた。誠はこの人は要するに将棋が好きなだけな幼女なのだと誠は思い込むことにした。
「だが、それがオメーの『才能』なのかもしれねーな……そんな『才能』のある人間はうちには居ねー……オメーは本当にうち向きだな」
ランはちらちらと正面の危険物を満載したタンクローリーの後ろをぴたりと付けながら精神を画面の斎藤王位と東出八段によるTHK杯三回戦の終盤戦の攻防を見ながらそんなことを口にした。
「『才能』?なんですそれ」
誠は東和宇宙軍に入ってからと言うもの、世辞以外の誉め言葉に出会ったことが無かったので何気なくランが放った誠を褒める言葉に食いついていた。
「ああ、うちじゃあ貴重な『才能』だ……それで……うちの手詰まりとなった状況をオメーは救ってくれるかもしれねーな。……ああ、そこは桂馬で受けるか、玉が角道を頼りに後ろに逃げるか……残りの駒は……」
誠の頭の中では、司法局、戦争、将棋、殺気、才能という単語が渋滞を起こしていた。
どれか一つでも処理したかったが、ランは次の話題へ勝手に進んでいく。
「そうだよな、そこは桂馬で受ける。角道を塞がれたら終わりだ。……今度は攻めだぞ。王将の前に銀がある意味をどう読むか……アタシなら……」
ランの関心は、もはや半分以上が将棋盤に移っていた。
それでも車は、危険物を満載したタンクローリーの後ろをぴたりと追いながら、何事もないように千要県へ入っていった。




