第5話 吸血鬼
その日、横山健斗は信じられない者を目にした。多くの患者を診察してきたが、これほど衝撃を受けたことはない。彼の名は、中田健吾。30代の銀行員だ。彼の相談内容に、健斗は衝撃を受けた。何でも1週間前から、身体が人の血液を欲しているというのだ。最初は気のせいかと思っていたが、欲は段々と上がり、歯も徐々に尖ってきたというのだ。健斗は頭を悩ませた。過去には吸血鬼の伝説の由来となったポルフィリン病などの症例も報告されてはいるが、その病気も現在はほぼなくなったと見て良いだろう。大体血を吸いたくなるまでは分かるが、歯が尖るなんてことがあるのだろうか。身体的症状が明確だが、これも精神科の領域なのだろうか。健斗は同じ精神科医であり、長年の付き合いのある優斗に相談を持ち掛けた。
「そんなことがあるか?」、彼もまた、そのような患者の存在に驚いたようであった。
「情報量が少なく、治療方針が全く分からないな。」
「健斗、その患者、例の彼女に頼んだらどうだ?確か田村ゆなとか言ったか。」
「え、彼女に?」
「ああ。彼女も、現代医学では未解明の精神疾患を抱えているんだろう。何か通じることがあるかもしれないじゃないか。」
健斗は少し考えてから、優斗の考えを受け入れた。翌日、健斗は院長にお願いして、中田健吾の担当を外してもらった。患者への事情の説明は、ありがたいことに、院長直々に行ってくれるようだ。本人に了承を得た上で、情報を彼女に引き継ぐ。
健斗はゆなに音声データを渡した。彼女は診察室に入って、それを聞いた。まだ、診察の時間ではないため、医師はある程度自由に行動することができる。無論仕事上の作業に限られるが。
「なるほど、こういう症状ね。」、彼女はゆっくりと呟いた。
1週間後、健吾は、彼女のもとに診察に来た。彼の前歯は、1週間前より更に数cmの伸びたようだ。
「まだ血が飲みたい?」、ゆなは健吾に聞いた。
「はい、以前よりももっと…」
「じゃあ、私の腕から試しに血を飲んでみてくれる?」
「はい?田村先生、何をおっしゃってるんですか。僕の病気は同一の症例がないんですよね?先生の血を吸って先生にもしものことがあったらどうするんですか。」
「良いから。飲んでみれば何かわかることあるかもしれないじゃない。」
彼はしぶしぶ彼女の腕に嚙みついた。尖った歯は、ゆなの細い腕から血を吸い上げた。
ゆなは腕の方を見ないように、目を逸らした。そもそも血を見るのは得意ではないのだ。注射の時ですら怖くて、直接腕を見れなかったくらいなのだから…
「どう?おいしいの?」
健吾は、ゆなの腕から顔を離して、言った。
「先生、すみません。正直、とてもおいしいです。」
「なるほどね。あなた、鉄分を多くとった方が良いわ。魚とか豆とか。食生活を変えれば、2週間くらいもすれば症状は治まる。万が一それでも駄目だったら、またここに来てよ。」
健吾は黙って頷いた。
内心、「そんなことだけで症状が本当に改善するのか?」と思ったが、今は彼女の言葉を信じるよりなかった。そして実際、彼の症状は2週間で劇的な改善を見せたのだ。これにより、精神科医田村ゆなには新たな役割が与えられた。それは、未知の精神疾患や障害者の治療である。慶東病院に新たな専門医が誕生した瞬間だ。