リャナンシーの復讐
ガーデニングを楽しむならここイギリスが1番適しているだろう。
雨が滴っている。明日の午後には晴れて、花々が生き生きと咲き誇ることを容易に想像できた。
今はピンクやオレンジの薔薇が旬だ。品種改良された青薔薇は1週間で耐え果てた。
アルフィ・ブルーノは作曲家だった。色々な音を繋げて音楽にしようとする。だが、サビがどこにも無い音階で何度試しても上手く弾けなかった。
四苦八苦している内に、夜になった。
ピアノの上で眠りこけていたのに気付くのに時間がかかった。
軽い布団が掛けられていた。
誰か家に入ったのか?
気配がしない。なぜだかアルフィは布団をかけた主を懐かしく思った。甘い香りが布団に付いている。不思議と心が安らいだ。
辺りを見渡し、誰もいないのを確認した後、シャワーを浴びた。
裕福な生活ではなかったため、できるだけ水道代を節約する。貧弱な体を洗い流すとベッドの中で丸まった。
ミューズとは発想のようなものだ。それが自分にはない。
アルフィの孤独感は計り知れなかった。若い頃、結婚した妻が死んでもう10年は経つ。
妻、リリアンヌは従順で質素で儚い優しい人だった。毎日、アルフィの好きなグラタンを焼いてくれていた。
死因は膵臓癌で1年もしない内に妻はこの世を去った。
アルフィの所に時々、学生時代からの付き合いのコーリーというラグビーの選手が来たが、アルフィの作るクッキー目当てなのがバレバレだった。
それでも良かった。本当に1人になったら、気付いたら、首に縄が通っている気がした。
リリアンヌ死後、密かに料理を楽しむようになっていた。家を拡張して料理教室を開こうかと妄想が膨らむぐらいである。
しかし、食べていくので精一杯なのが現状だった。
次の舞踏会の音楽の楽譜を作り切らないと食費さえ怪しい。
担当編集者が毎日、鬼のように電話して来るのが最早恐怖だった。
そんな中だった。ある日、ピアノに向かって音階を楽譜にメモっている時、彼女を見つけた。
彼女は宙を舞っていた。
視線と視線がぶつかる。
驚いた様子で彼女が言った。
「私が見えるの?」
際どい服を着た、絶世の美女だった。豊満なセクシーな身体付きに、長くサラサラとした銀髪にパッチりとしたピンクの瞳。この世のものではないことが直ぐに分かるぐらい美しかった。
「僕は夢でも見てるのかな?」
アルフィはぼんやり呟く。
美女はピアノを軽く足で弾いて見せる。
「アルフィ・ブルーノ、私はアナタのミューズを任されているのよ」
全音階を一瞬で鳴らして、笑った。
「私の名はシンディー。リャナンシーよ。アナタがミューズを見つけないと逝くべき場所に帰れないわ」
アルフィは眼鏡を押し上げ、恭しくお辞儀した。
「時々、イタズラしてたのは君だったんだね」
シンディーがアルフィの肩を軽く叩く。
「心配してあげてただけよ。布団もかけずピアノの前で寝ちゃったり、ヤカンが沸いてるのに呑気にパンを食べてたり、手間かけるんだから」
「すまんすまん」とアルフィは頬を掻く。
「心配かけたね、シンディー。僕は1人でいいから他の場所に行きなさい」
悲しげな顔をした後、シンディーはアルフィを抱き締めた。豊満な胸が息をするのを許さないかのように迫って来る。
「私が見えるってことはアナタは死ぬかもしれないってことなのよ。今、私が出て行ったらアナタは惨めな死に方をするわ」
服の柔らかいフリフリがアルフィの顔を擽る。
アルフィは優しく言った。
「いいんだよ。僕はもう充分生きた」
シンディーはしばらく黙っていた。時計の音だけが支配していた。
「それが本心なの?」
自分でも気付かない内、アルフィの瞳から涙が滴る。
「死ぬのなら君の役に立って死にたい。妻への裏切りだよな」
シンディーが優しくアルフィの頭を撫でる。
「私は妖精のようなものよ。人間とは次元が違うの。奥様に旦那さんをお借りします、とでも伝えておけば安心なのかしら」
「許してくれるだろうか」
ピンクの瞳が真昼間なのを忘れさせるぐらい輝いている。
「許してくれない鬼嫁ではなかった、と記録されてるわ」
シンディーはふざけた調子で楽譜を読むフリをしていた。
リリアンヌとは違う魅力的な女性だとアルフィは深々と感心してしまう。
当たり続ける豊かな胸の感触に頬が赤らむのは不可抗力だった。
次の日、シンディーに手作りのデニッシュロールパンに庭先で採れたイチゴを使ったジャムを塗った物を食べさせた。
シンディーは工程をまじまじと見つめ、仕上がった物を不思議そうに口にする。
「美味しい!凄く美味しいわ、アルフィ!!」
ものの3分もしない内にシンディーはパン2個分食べ尽くした。
アルフィは頬が緩んで仕方無かった。
「君みたいな美女に褒められたら、また作る気になるよ」
朝食に更に目玉焼きを作る。スコーンとバターとソーセージも追加した。バターとソーセージは流石に市販の物だ。それ以外、手作りだった。
シンディーは笑顔を振り撒いて、人間の食べ物を咀嚼する。ソーセージを食べる時、淫靡な笑みを浮かべるが、アルフィは顔を背けた。
「君って本当は嫌なヤツだ」
シンディーがふふふといわくありげに笑った。
「そうよ。本当は嫌なヤツなの」
シンディーが見えるようになって、3週間経った。
その間にアルフィはシンディーにプロポーズしようと考えていた。
シンディーには内緒で、指輪とシンディーに似合う際どくない服を探しに下町に降りて行く。
最後の貯金を全て使い果たすことになるが、躊躇わなかった。
自分は近々、死ぬのだと思い込んでいたのだ。宙を舞うリャナンシーが見えた時点で天使に免れている。あるいは死神に誘われているのだ。
町外れの自宅に帰って、ギョッとした。
シンディーが血塗れの服を着て、出迎えて来る。
アルフィは呻くように言った。
「誰にやられた」
シンディーのピンクの目が怖いぐらい据わっていた。
「やられた?違うわ。殺ったのよ」
急いで家の中に入る。
台所では包丁を手にしたコーリーが腸をはみ出して倒れていた。
息をしていない。
プロポーズの指輪が手から滑り落ち、コーリーの血に塗れる。
アルフィは叫んだ。
「お前はリャナンシーではない!悪魔だ!!!」
背後のシンディーの髪の毛を引っ掴み、家から引き摺り出す。自分にこんなに力があったことを冷静に意外がる自分がいた。
「離して!アイツ、包丁を持って、私を襲おうとしたのよ。自己防衛なの!!」
「どんな言い訳をしてももう遅い。僕の目の前から出て行ってくれ。頼むから」
シンディーは咽び泣き出した。
アルフィは涙を堪える。悪魔を追い払って、自首しなくては。コーリーが殺されたことは直ぐにバレるだろう。最後にアルフィの家に行ったと知られたらお終いだ。そして、それらは村人達の中で直ぐ噂されることとなる。
シンディーを摘み出すと玄関を背中にヘナヘナと崩れ落ちるのを感じた。心臓がバクバクと破裂しそうに動いている。異常な喉の乾きに水道水に口を付けた。
次の日、アルフィは町の交番で自首した。
良い弁護士に有り付けず、死刑となった。3ヶ月後のことだ。
公開処刑となった。
広場に人々が集まる。斬首刑として、縛られ、アルフィの肉体は立て掛けられていた。
時計の針が12時を告げる。
やつれたアルフィの頭が首から離れ、ごとりと落ちた。
血飛沫を死刑執行人達が浴びる。
人々は面白いものを見たというように歓喜の声を上げた。
シンディーは蒼い炎を身に包み、観客達を1人ずつ燃やして殺していく。
最初は地味な悲鳴だったが、段々拡大していき、パニックに至るまでそう時間はかからなかった。
「皆殺しよ。逃げ惑いなさい」
シンディーの高笑いが広場で響き渡る。
小さな子供が転んだ。それを大人達が踏み潰し、「グエッ」と蛙のような声を上げ絶命する。
シンディーは男を燃やした。女を燃やした。子供を燃やした。
炎は炎同士間接的に繋がり、大きな渦となって広場全体を包んだ。焦げた死体の山が出来上がる。
リャナンシーは高笑いしながら、泣いていた。
その指には血塗れの婚約指輪が嵌められていた。