03
人間、長くそこに存在するものというのは、当たり前のものとして忘れてしまう生き物である。
いつからだろう。国中から神聖な魔力を帯びた娘をかき集め、聖女として教育し、国を防衛する礎として世俗から隔離する。いつからそんな非道が罷り通るようになったのだろう。
聖女というのはあくまでも、適性を持った人間が国を憂いて『自らの意思で』その身を捧げる、神聖で崇高なものだったはずである。一体いつから、この国の人間は適性のある娘は例外なく強制的に教会へ収容できるなどと驕るようになったのか。
いつからだろう。些細なことで幾度となく召喚の儀を重ね、異世界から遠慮なく人を拉致してくる。帰還の術など持ち合わせていないのに。招かれ担ぎ上げられた彼女たちにだって、あちらでの幸福があったはずなのに。
国の危機を救った英雄、異世界から招いた大聖女。召喚という手段はあくまで、最後の最後、切り札のはずだった。一体いつから、この国の倫理観はねじ曲がってしまったのだろう。
国のため、などと主語を大きくするから見失うのだ。どんな大義名分がそこにあろうと、己以外を犠牲に差し出すことに、正義などありはしないのに。聖女と呼ばれる彼女たちにだって心があり、感情があり、同じ赤い血が流れているのだ。決して、消耗品のような扱いを許していいはずがない。
『大聖女エレオノール、貴様との婚約を破棄する』
忘れもしない。エミリの成人まであと半月という頃。王家主催の夜会へ、婚約者という立場をいいことに強引に呼び出されたエレオノールに、第三王子のエドワードは告げた。
教会へ権力が集中しないように、そして王家との確固たる関係を維持するために。いつからか、大聖女の地位にいる聖女は王位継承権を持つ人間へ嫁ぐことが義務になっていた。当然エレオノールにも適用され、第三王子のエドワードの婚約者に決まったと事後報告されたのは随分と前になる。
一方的な婚約の、一方的な破棄。理由に心当たりがあるだけに、エレオノールの怒りはすさまじいものだった。
『聖女が召喚されたにもかかわらず、大聖女の地位をいつまでも占領するような女を聖女として認めるわけにはいかぬ。早々に退くのだ』
果たして、エドワードは想像を裏切ることなく言い切った。
王位継承権を有する3人の王子の内、上の2人はそれぞれ侯爵家と隣国の王女との婚姻が既に成立している。新たな大聖女となるエミリと婚約するには、王子の数が足りない。故に、エレオノールとの婚約を解消し、王子の枠を空けたい。あるのはそればかりだ。誰の目から見ても明確な話である。しかし、問題もある。いかに王家といえども、既に決まっている婚約を理由もなく切り捨てては外聞が悪い。
故に、エレオノール有責で婚約を破棄したいのだ。
なんたる屈辱。
その場では眉一つ動かさず、エレオノールは内心で静かに、しかしきっちりブチギレた。堪忍袋の緒がブチィ、と千切れる音をはっきり聞いた。
毎晩のように故郷を想って泣くエミリの気持ちが貴様らにわかるか。強引に日常を壊され帰る術もなく、彼女は歯を食いしばってでもここにいるしか生きる術がないのだ。その気持ちを少しも想像せず、聖女という肩書きを押しつけて酷使するこの国の、なんと醜いことか。
消耗品として使い捨てられ続けた聖女たちは今や、自分たちを取り巻く全てを敵と認識していた。
彼女たちを権力や悪意から守るはずの教会でさえ、最近では魔術師協会に媚びへつらう傀儡と化して機能していない。国の防衛線ということで、聖女に与えられる王家にも脅かされぬ特別な権能さえ形骸化し、己の身は己で守るしかなくなった。
『傲慢な女よ、今この瞬間から貴様は聖女でもなんでもない。以降は新たな大聖女、そして私の妻となるエミリに仕え、愚かさの代償を払うのだ』
エレオノールの魔力は他の聖女と一線を画す。1人で、在籍している全ての聖女の魔力を補って余りある。多少、瘴気が膨れ上がろうが魔が攻めてこようが、ぶっちゃけ溜め息1つで消し飛ばせるのである。祈らずとも自在に魔力を流し、結界を保てる聖女。
彼女が教会へ収容されてからというもの、休暇もなく疲労困憊だった聖女たちは交代で休暇をとれるようになったし、7日程度であれば全員で一斉にサボったってへっちゃらであった。そんな聖女を、この国の王子は大聖女の席だけでなく聖女としても廃すという。そのくせ教会から追い出すことはしない。
鼻で笑い飛ばさなかった自分を、エレオノールは今でもたまに褒めてあげる。
制止の声1つあげない大司教にも、ニヤつくばかりの魔術師協会会長にも、我関せずと黙って聞いている国王にも、エレオノールは見切りをつけた。
良い覚悟だ、では遠慮なく。
返事をするのも面倒で、エレオノールは適当にカーテシーをとってすぐさま退散した。もちろんすれ違いざまに躓いたふりをして、ヒールで王子の爪先を踏み潰すのも忘れない。
ごめんあそばせ、と口先だけの謝罪を口にしつつ、姿勢を正す際には指先を癖のある金髪に引っかけて思い切り引き抜いてやった。ざまあみろ。痛みのあまり声も出せない王子を尻目に、意気揚々と立ち去った。
18歳を迎えたエミリは国の予定通り大聖女へと担ぎ上げられ、エドワードの婚約者に縛りつけられた。聖女の引退は20歳だ。淑女として行き遅れないギリギリまで聖女として純潔を守り、引退と同時に今度は政治の道具として適当な権力者にあてがわれ子を産まされる。聖女の力を自国で独占したい、そのためだけに。
まさに消耗品、まさしく道具。
既に引退した者を含め、聖女と名のつく女は全てがエレオノールたちの味方だった。
国を憂いたわけでもない。己の力を役立てたいと願ったわけでもない。自己犠牲などくそくらえ。
新たな聖女を迎えるたび、歴代の聖女たちは国の在り方を正せず犠牲を増やしてしまったことを嘆き、涙を流すのだ。
愛する家族から引き離された少女たち。想い合う恋人と引き裂かれた乙女たち。重たいばかりの責にも、辛いばかりの修行にも、冷たいばかりの待遇にも、もう黙っていられない。
生殺与奪の権を、国の存亡を、誰が握っているのか忘れた愚か者共。
もう許さない。堪忍袋の緒も限界だ。