04
影を伝うように駆け出していったエドワードの背を見送って、エミリは肩をすくめた。
「はしゃいじゃって……子どもみたい」
「愛らしいでしょう?」
「……ソーデスネ」
エミリは口を噤んだ。師として仰ぎ、姉として慕うエレオノールの愛らしい姿はいつまでも見ていたい。しかしエドワードに対して発揮される場合は、受け入れがたい。乙女心の複雑さに辟易する。
「エレオノール、あなたの旦那様にだけ仕事をさせるわけにはいかないわ。私たちも行きましょう」
ムッとしたエミリに気づいたカエデが、口早にフォローを差し込んだ。
「あなたにも大仕事が残っているでしょう、エレオノール。準備はいい?」
魔族の侵攻は順序立てて行われなければならない。リリアージュ聖王国は今夜、魔族に土地を破壊され、命を蹂躙されたことで滅ぶのだ。その始まりは当然、魔が巣食う森と、聖女の結界が触れ合う場所でなければならない。
「はい、メープル大聖女様。お任せください」
自信にあふれた返事に頷いて、カエデはエミリへ目配せする。表情を立て直した彼女もまた、その顔に自信を彩っていた。
移動する前に、ぐったりとへたり込んだ王を玉座へ放り投げ、逃げられないよう結界で囲む。
「それじゃ、行きましょう」
王城を出て教会まで戻る。
乗り込んだ際に感じた静寂はより一層その濃度を増しており、影が音を吸収していると錯覚するほどである。第一王子の制圧に向かったメンバーは先に撤退したのだろう。道中、誰にも会うことなく、エレオノールたちは教会へと帰還した。
「遅くなってごめんなさい」
礼拝堂の裏手へ回ると、既に全員が集まっていた。
「みんな、怪我はない?」
魔法陣のそばへ残したメンバーの顔には若干の疲労が滲んでいるものの、他のメンバーには怪我もなく、全員が無事に集まっていた。魔族にも怪我人はおらず、所定の配置への移動も既に完了しているという。
「みんな、よく頑張りましたね。少し休んで。メープル大聖女様はみんなのそばにいてあげてください。エミリは魔法陣の準備をお願いね」
エレオノールの言葉が終わるや否や、聖女たちが一斉にカエデのそばに駆け寄る。カエデが大聖女を務めていた頃から教会に詰めていたメンバーも、そうでないメンバーも、みな彼女を母のように慕っていた。
王妃として公務に時間を奪われながらも、常に教会に残る聖女を気にかけ、教会を出た聖女を憂い、彼女は心を割いてきた。
形骸化してしまった聖女の権能の中で1つだけ、カエデが王妃の権限で復活させたものがある。
聖女間で交わされる連絡の保護。
聖女間で交わされる手紙や荷物、あらゆるやりとりは全て王妃の名のもとに保護され、何者も害することは許されない。たとえ夫であっても、実の親であっても、聖女から聖女へ届けられた品に手をつけることはできない決まりだ。
それはまだ魔の侵食に人々が怯えていた時代。教会の聖女へ、引退し各地へ嫁いでいった聖女たちが異変を知らせる連絡を迅速に、そして確実に届けるために定められたものであった。時には王家の紋章が入った書簡よりも優先して運ばれたという。カエデはそれを復活させた。
カエデを愛し、なんでも望みを叶えると宣言した王に、彼女が願ったたった1つ。国ではなく、聖女自身の危機を、嘆きを取りこぼさないために。できることは少ないけれど、できうる限り守りたかった。
今回の反逆の要。
聖女から聖女へ、反逆の意思を伝え、魔族との邂逅を報せ、摘み取る命を選別した。誰にも邪魔させず、誰にも悟られず、彼女たちは準備を整えた。
「エレオノール、頑張ってね」
「はい、メープル大聖女様」
「エレオノールさん、私はいつでも準備できてますよ」
「ありがとう、エミリ」
滅亡への狼煙を上げる。それがエレオノールに残された大仕事である。
聖女は国を覆う結界を維持するための装置に過ぎない。引退すれば子を産み育てる機械となり、国に仕え生涯を賭して国のために命を使い尽くす。
奴隷のいないこの国で、奴隷のように扱ってもいい生き物。それが聖女であった。
今夜、リリアージュ聖王国は思い出す。国の命運を握っているのが誰なのか。
助けないと切り捨てた命。逃がさないと決めた命。今この国で何も知らずにいる人間はすべて、聖女がもう守ってあげないと見捨てた連中だ。
彼らは今夜、長く見下してきた聖女に、足元から崩され地の果てまで落ちていくことになる。
エレオノールの大仕事は破壊と蹂躙の始まりを告げる合図であり、国内に恐怖を植えつけ、国外に異変を知らせる意味もある。
「それじゃあ、楽しみましょう」
お願い、と声をかけると、エミリは花も綻ぶような笑顔で頷いた。
遂にこの瞬間がやってきた、と聖女たちの纏う空気も華やぐ。抑圧された日々の終わり。解放の時だ。
魔力供給が止まり沈黙している魔法陣の上に立つ。いよいよだ。エミリの練った魔力が魔法陣に注がれ、エレオノールは目的の場所へと移動した。
結界の最も厚い場所、瘴気が満ちる国境へ。




