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聖女の顔は何度まで  作者: かたつむり3号
第五章 乙女たち
21/25

03

 遠くの空で鴉が鳴いた。

 真っ先に動いたのはエドワードである。彼はそろそろ限界であった。聖女、恐い。壁際に寄って、「私は壁、私は壁」と自身に言い聞かせる。怯える心を守るため、それしか方法を思いつけなかった。

 城にはまだ第一王子がいる。王をわからせている間に制圧してくる、と逃げの一手を打ってはみたものの、そのタイミングで先行したメンバーから完了の報告があった。しかたなく留まっているが、正直に言えば今すぐにでも逃げ出したい。


 玉座の間にはもうずっと、肉を打つ鈍い音だけが響いている。王はもう、謝罪も懇願もやめていた。何を言っても、どう願っても、カエデは手を止めない。殴っては回復し、また殴っては回復する。肉が切れても、歯が折れても、どれだけ血が流れても終わらない。

 カエデはずっと、こんな状態にさらされていたのだと、王はようやく理解した。痛くて辛くて苦しくて。なにより、耐え忍んでもそれらが過ぎ去る前に次が来る。終わりがない。

 第一王子がカエデにしてきた仕打ちのおぞましさを、王は身をもって理解した。

 しかし王は理解できない。

 これほどの痛みを味わって、こんなにもつらい状況にあって、ここまでの苦しみの中で、なぜカエデは差し伸べられた手をとらなかったのだろう。王は愛をもって彼女を救おうとした。与えられる限りの愛を差し出した王を、カエデは拒んだ。その意味を、彼は理解できない。

 理解できないから、カエデの拳は止まらないのだと、王はそれだけは理解していた。


「エレオノール、魔術師協会の制圧が完了した」


 鴉からの報告を伝えると、エレオノールは静かに振り返った。その顔は満足げに綻んでいる。


「素晴らしいですわ」


 窓から見える月はまだ天の高い位置にある。想定よりもずっとスムーズに事は進んでいた。残るは仕上げだけである。


「メープル大聖女様、王はいかがですか?」

「駄目ね。まあ、時間をかけて理解させるわ」


 殴り続けることにも疲れてきた。カエデはひとまず腕を下ろす。


「これは放っておいて、次の段階へ進めましょう」

「そうですね」


 肌が粟立つ感覚に、エドワードの顔が知らず笑みの形へと変わっていく。震えは歓喜によるもので、本能がもたらす悦びであった。

 王城と、魔術師協会。聖女を囲う重要拠点を陥落させたその後は、いよいよ国の滅亡である。土地を踏み潰し、建物を踏み倒し、命をすり潰す作業。それらは魔族に一任されていた。


「さて、旦那様。お待たせしました。破壊と蹂躙の時間です」


 足元の影がざわめき夜の闇を震わせる。待ち侘びた瞬間の訪れに、武者震いが止まらない。それは次第に城内だけでなく、外にいる魔族たちにも伝播していく。


「破壊と、蹂躙」


 ワッ――、と割れるような響きが夜を揺さぶる。

 興奮で返事も忘れたエドワードへ、エレオノールの静かな声が冷や水を浴びせた。


「約束は覚えていますか?」


 旦那様、と。それだけで、高ぶり沸騰した血が静まるのを感じ、エドワードは言葉を思い出した。


「助けるべきは助け、逃がすべきは逃がす。大丈夫だよ、エレオノール。守るべき命はきちんと守る」


 聖女と魔族の約束だ。

 守るべき命が身を隠した場所は破壊しない。助けるべき命は蹂躙しない。特定の建物には、もたらす破壊の程度についても取り決めをしている。


「しかし、やはり不安だろう。今からでも、必要な場所に結界を張ってくれて構わないよ」

「それには及びません。わたくしは旦那様を信じております」

「……嬉しいことを言ってくれるね」


 窮屈な約束を強いることになる。本能に制限をかけるのだから、魔族にとっては完全に満たされる結果にはならない。だからこそ、聖女側はせめて信頼を示す。これは協力者であるすべての元聖女たちとも共有していることだった。

 本能の赴くまま、制御できずに襲い来る魔族が現れたその時は、各避難所に配置された元聖女たちが結界を張る手はずになっている。聖女の身勝手な復讐劇に、罪のない人間を巻き込まないための対策だ。しかし最初から拒むような真似はしない。信じて、任せる。それが聖女側の誠意であった。


「よろしくお願いします」

「ああ、任せておくれ」


 破壊と蹂躙の時間だ。

 

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