02
進んだ先、玉座には、王がいた。玉座に腰を据え、エレオノールたちを待ち構えていた。
ガタガタと体を震わせて、冷や汗でびっしょりになって、青褪めて、憔悴しきった姿で、王は彼女らを待っていた。待たざるを得ない状況だった。
王を玉座に縛りつけ、閉じ込め、捕らえているのは結界である。聖女の張る強固な結界が、王から自由を奪っていた。強制したのは王妃である。すっかり血の気の引いた王の隣に立ち、ニコニコと顔に幸福を彩る彼女の仕業であった。
王妃の姿を認めた途端、エレオノールの表情が溶けた。それはエドワードを前にしているときとは違う、別の感情からくる喜びであった。
「あぁ、メープル大聖女様!」
歓喜の声をあげて駆け寄るエレオノールを、王妃――メープルもまた嬉しそうに抱き止めた。
「エレオノール、待っていましたよ」
「あぁ、やっと……やっとです、メープル大聖女様」
メープル大聖女様、と繰り返すエレオノールの頭を撫でながら、王妃の顔が徐々に赤らむ。
「……やっぱり恥ずかしいわね、その名前」
途端にエレオノールがカラカラと笑った。
「ですから、上手に発音できるように練習します、と何度も申し上げましたのに」
頬を染め、遠慮のない物言いをするエレオノールは、まるで親に甘える子のようであった。普段の凛とした姿からは想像できない。
愛らしい、と頬を緩める一方で、エドワードは首を傾げた。
この場に王がいることはわかる。元大聖女である王妃がいることも、もちろんわかる。彼女の役割は、ここへ王を引きずってきて、逃げられないよう拘束することだった。故に王が結界に閉じ込められていることに疑問はない。
しかしわからない。メープルと呼ばれる彼女の顔はどう見ても、エミリと同じ異世界の人間のそれであった。あちらから招かれた乙女。
「エレオノール、彼女は……?」
パッとエレオノールの笑顔がこちらを向いた。
「まあ、わたくしったら! 邪魔されずにおしゃべりできることがあんまりにも嬉しくて、ついはしゃいでしまいましたわ。恥ずかしい……」
恥ずかしい、と言いつつ、エレオノールはメープルの手のひらに頭を擦りつける行為をやめない。
「紹介します。わたくしたち聖女の先輩であり、今回の反逆の要、メープル大聖女様です。メープル大聖女様、この方がわたくしの旦那様ですわ」
とってもかっこいいでしょう?
紹介ついでに盛大に惚気られた。こんな子だったかしら。メープルは首を傾げた。恋は女を変えるという話は聞いたことがあるけれど、これはもう、ちょっと別人レベルの変化であった。
エドワードもまた、傾げた首の角度をより鋭利なものにせざるを得ない。
「エレオノール、そういうことではなくてだな……」
否定された。文脈を無視して、その事実だけでエレオノールは眦を決した。尖った視線には自然と殺意が滲む。
「旦那様? 旦那様はわたくしの旦那様ですわよね?」
「……うん、それはもちろんそうなんだが」
そうではなくて、そうじゃないんだ。モゴモゴと口の中で言葉を転がすも、正確に伝える表現が思いつかない。そう殺気立たないでくれ、といっそ言ってしまおうか。背筋が凍って思考もままならない。
どう説明したものかと呻っていると、エミリに腕をつつかれた。
「メープル大聖女は私と同じ世界から誘拐されてきた乙女です」
「……そう、か」
やはりそういうことらしい。であればなぜ「メープル」と呼ばれているのだろうか。エドワードの疑問を察してのことだろう。エミリはしっかと頷いて見せた。
「本名はカエデさんです」
「か、……カエ、デ」
発音が難しい。口の中で幾度か転がしてみるとすぐに慣れるものの、聞いてすぐはスルッと音が出てこない。
「やっぱりこの世界の人には発声しにくいんですね。エレオノールさんもそうだったって言ってました」
「もう、エミリったら! 人の恥ずかしい思い出をそうペラペラ語るものではありませんよ!」
「子どもの頃の恥ずかしい話は、漏れなく可愛さ倍増ですよ」
噛みつくエレオノールにもめげず、エミリは思い出話を垂れ流す。
エレオノールがメープルと出会ったのは、まだ彼女が5歳にも満たない頃であった。ただでさえ舌ったらずな子どもには、難しい発音は、やはり難しかったらしい。そしてエレオノールは、尊敬する聖女の名をきちんと発音できないことに、落ち込んだ。
「あんまりしょんぼりしちゃうから、カエデさんが苦肉の策で提案したのが『メープル』です。以来エレオノールさんはそっちの名前で呼んでいる、というお話です」
「なるほど」
愛らしい話だった。可愛さ倍増だ。
「慣れたら元の名で呼ぶよう、何度も伝えたんだけど……」
メープル――カエデの眉が下がる。
慣れるまでのほんの裏技のつもりで提案したことが、まさかここまで続くとは思っていなかった。
「ところで『メープル』とはなんだ?」
「カエデの異国語版です」
「なるほど……」
面白いな、とエドワードは唸った。知らない世界の、知りようもなかった話を聞くのは、たのしいな、と思う。
「わたくしだけの特別な呼び方だと言われて、どうしてやめると思ったのです?」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら甘えるエレオノールという、こんな機会でもなければ見られなかっただろう一面を知れたこともまた、エドワードに大いなる喜びを与えた。……嫉妬しないわけではないが、妻が愛らしいのでまあいいか、と思うことにした。




