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聖女の顔は何度まで  作者: かたつむり3号
第三章 蠢く闇
13/25

04


 エドワードの体がくの字に折れる。声にならない悲鳴が食いしばった歯の隙間を縫って漏れ出した。

 無防備に差し出された頭を見下ろし、エミリはきつく拳を握った。一閃。頬を狙い打ち、腕を振り抜いた。拳に結界を纏わせて殴ると手を傷めない。エレオノールが教えてくれたことだった。

 防御もできず、エドワードは床へ強かに体を打ちつけた。痛みの頂点が次々と移動し、もうどこが痛いのかわからない。


「~~~~やっっと、すぅっっっっきりした~~ぁ!」


 感動を噛みしめるエミリの元へ、エレオノールが駆け寄ってきた。


「エミリ!」

「エレオノールさん!」


 解放感でテンションが上がり、勢いのまま抱き着いた。エミリの行動は予想外であったのか、牡鹿の彼は口をぽかんと開けたまま放心している。


「エミリ、よく頑張りましたね」

「ずっと頭の中で練習してたんです。絶対に、絶対に殴ってやろうって決めてたから」


 ぎゅう、と抱き返してくれることが嬉しくて、エミリはますます強く抱き着いた。

 暴力も武術も経験のないエミリでは、真正面から王子を殴っても防がれてしまうかもしれない。先んじて護衛を始末するとはいえ、一国の王子であるのだから自衛の術くらい身に付けているだろう。結果として王子はただ愚鈍で、警戒するだけ無駄であったが、警戒して重ねたイメージトレーニングはきちんと実を結んだ。

 影による監視が邪魔で実戦練習をすることは叶わなかったが、エミリは満足した。


 エレオノールが、「殿下はわたくしが殴りに行きます」と言った時、同行を願い出て正解だった。優しい彼女は結局、エドワードを殴ることなくエミリを招き入れた。けれどそれでは気が済まない。


「エミリ、わたくしのために怒ってくれてありがとう」

「お礼を言うのは私のほうです」


 ありがとうございます。

 ようやく1つ、お返しができたようで嬉しい。


「あー……、すまないが」


 抱き合う2人へ、牡鹿の彼がおずおずと声をかける。


「はい、旦那様。なんでしょう?」


 すぐさま華やいだエレオノールの表情に、エミリはちょっとだけムッとした。


「これは、どうする?」


 これ、と彼が指さした先を見遣り、そういえばまだいたのだった、とぴったりくっつけた体をわずかに離して見合う。

 どうしましょう。エレオノールは嘆息した。思いのほか思い切りよく殴り倒される姿を見て、溜飲が下がり切ってしまったのである。さりとて恨みのすべてがなくなったわけではない。

 どうしてくれよう。性根は腐りきっているので、叩き直すにしても途方もない時間がかかると思われた。頭の出来は悪くなかったはずだが、とにかく思い込みが激しい。


「……どうしましょう?」


 使い道が思いつかない。

 唯一の取り柄であった端正な顔も、エミリの拳によりとんだ面構えに様変わりだ。頭も体も心も駄目で、顔も悪くなったのでは観賞用にすることもできない。

 ほとほと困り果てたエレオノールを察してか、エミリがスッと挙手した。


「私、考えました」


 指先がピッと天を向く。


「私たち今はすっきりしてますけど、長持ちしないと思うんです。だってこいつはずっと被害者面しかしてません」


 助けてくれ。エドワードの言葉を思い出す。求めた救済が即座に執行されないと気づくや否や、彼はエレオノールを罪人と責め、その責でお前も処刑すると脅迫した。そのくせエミリが動くと自分は救われると安堵の息を吐く。

 どこまでも独り善がり。果てしなく傲慢。


「そんなに被害者でいたいなら、被害者にしてやればいいんですよ」


 監視され、聞き耳を立てられ、支配され、抑圧され、強制され、自由を奪われ、世界を奪われ、家族を奪われ、恋人を奪われ、傷つけられた。そういう被害者を、経験させてやろうではないか。

 エミリの提案に、エレオノールはホッと熱い吐息をこぼし、頬を薔薇色に染めた。


「あなたは本当に賢いわ。その案を採用しましょう」


 優しい手が、丁寧に頭を撫でてくれる。エミリは胸を張った。

 仲睦まじい空気を散らすようにコホン、と咳払いして、牡鹿の彼が口を開く。


「では、ひとまず事が済むまでは監視をつけてここに置いていこう。まずは国の支配を完了させなければ始まらない」

「そうですわね、旦那様」


 牡鹿の彼の足元で影が蠢く。それは次第に形を成し、巨大な蛇の姿になって這い出してきた。エドワードの体に巻きつき、とぐろを巻く。

 頬が腫れ、鼻血を垂らし、涙でぐちゃぐちゃになったその顔は、もう一国の王子のそれではない。牡鹿の彼はエドワードの正面に立ち、消沈しているのか気絶しているのか判然としない頭を軽くはたいた。身じろぐ。


「起きろ」


 低い声で告げられる命令に、閉ざされた瞼が持ち上がった。泳ぐ眼球が彼を捉え、瞠目する。ひゅ、と呑み込まれた息はしかし、悲鳴になることはなかった。潰えた希望がエレオノールの脅迫を思い出させたのだろう。


「エドワードと言ったかな? その名は私の妻が忌むものとなった」


 妻。牡鹿の魔族が示す手のひらの先を追って、エドワードはハッとする。自分が化け物と呼んだ男は今、エレオノールを妻と呼んだ。血の気の引いた顔が、青を通り越して白くなる。ガチガチと鳴る歯の音がうるさくて、血が出るほど唇を噛みしめた。

 恐怖に抗うエドワードの姿に、牡鹿の彼は気を良くした。そうだ、抗え。へし折る楽しみが増す。

 にぃ、とわざと凶悪に見えるように口角を吊り上げた。


「幸いなことに、私は自分の名を持たない。お前の名をもらってやろう」


 負った傷も、抱いた恨みもすべて、上書きする。エドワード。その名を聞くたびに、涙を思い出さずに済むように。


「お前という存在はこの世から消えるが、喜べ。お前の名だけは残してやろう」


 涙に濡れる双眸をまっすぐ射抜いて逸らさない。逸らすことは許さない。


「まずは名を奪う。さて次は、何がいい?」


 ぐるん、とエドワードの眼球が引っくり返った。支えを失った首が、がくりと前に倒れ込む。


「気絶した……」

「だっさ」

「情けない……」


 三者が三通りの言葉で、同じ思いを込めて言う。溜め息は深く、重なった。

 

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