03
大人しくなったエドワードを見遣り、エレオノールは嘆息した。
容易い。拍子抜けもいいところだ。大した男ではないということは知っていたが、こうも簡単に攻略できてしまうと、つまらない。
殴る練習をしていた自分がバカみたいだ。平手であったが、一発きついのを頬に叩き込んだことで、エレオノールは満足した。というより、興味を失った。もういい。これ以上は、面倒だ。
さっさと終わらせよう。
「いらっしゃい」
外で待たせていたエミリを招き入れる。
嫌がる彼女を強引に待機させた。エドワードは仮にも王族だ。侵入者に対する秘策を隠している可能性は無視できない。制圧が完了するまでは、不用意に近づけさせたくなかった。エミリの体にかすり傷1つでも負わせれば、エレオノールは自分を許せない。
我儘は結果、ただの杞憂に終わって安堵の息を吐く。
静々と歩み寄るエミリの目は、すっかり覚め切っていた。
「だっさ……」
ぼそり、と呟かれた言葉の意味をエレオノールは解さないけれど、明確に軽蔑する気配があった。
エドワードが顔を上げる。
「え、エミリ……!」
絶望一色だった表情が晴れた。まるで救いの手でも差し伸べられたような反応にエミリは、はて、と首を傾げる。なぜ彼は、自分の名をそんなにも嬉しそうに呼ぶのか。
「助けて、……助けてくれ!」
「は?」
「エレオノールが裏切った! こいつが化け物を招き入れたんだ!」
見ればわかる。というか見なくてもわかる。
裏切りは計画して行われたものであるし、魔族を招き入れたのは聖女の総意である。
「君は大聖女だろう? 君ならこの化け物を殺せるだろう?」
この化け物。エドワードが指さしたのは、牡鹿の彼であった。途端、エレオノールの纏う空気が一変した。エミリも顔に怒りを彩る。
抑圧された日々の中、エレオノールがようやく見つけた安息地。聖女たちのお姉さんでなく、歴代随一の聖女でなく、1人の乙女として気を抜ける相手。彼は、エミリが尊敬してやまないエレオノールを、世界で一番の幸せ者にしてくれる男なのだ。
それを言うに事欠いて『化け物』呼ばわりするとは。
「この、男は……どこまで――!」
「エミリ!」
冷え込む空気を意識の外に追い出して、エドワードは言葉を吐き出し続ける。
騒いだら、今度は、あいつに、叩かれる。
這い寄る恐怖を振り払うつもりで、喉が裂けるような大声を吐く。助けて。早く、早く助けて。
「魔を祓うのが君の仕事だろう! 役目を果たせ!」
早く。助けて。――早く、助けろよ。
「お前の侍女が国を裏切ったんだぞ! 一緒に処刑されたくなければ、さっさとそこの化け物を殺せ!」
息を継ぐ。
次の言葉を思いつくまでのわずかな隙間に、エミリが動いた。これで助かる。
エドワードは先程までに吐き出した言葉の半分も覚えていない。そもそも意識して選んだ言葉ではなかった。エミリが動いた。認識したらもう、何を言ったのかなど興味もない。
助かった。
エミリは異世界から召喚された聖女である。エレオノールだろうと魔族だろうと、彼女には勝てない。勝てっこないのだ。それほどまでに、異世界の聖女は強大な力を備えている。自分は救われる。エドワードは確信した。
だって彼女は婚約者である。
エレオノールと違って、彼女はエドワードの前では常にニコニコと笑っていた。エドワードの言葉には素直に頷き、絶対に否定しない。揚げ足をとって小言をぶつけてくることもなければ、彼の誘いを断ることもなかった。
さすがです。知りませんでした、もっと教えてくださいますか。すごいですね。
常にエドワードを優先してくれて、いつだってエドワードを尊重してくれる。
今ばかりは笑みでなく憤怒を浮かべているが、エドワードを害したのが己の侍女だと知ったのだから無理もない。
やはり彼女は自分を愛しているのだ。冷たいばかりで優しい言葉の1つもかけてくれなかったエレオノールとは違う。
理不尽な暴力にさらされ泣いているエドワードを、エミリが見捨てるはずないのだ。
「エミリ……!」
どうしてか感動しているらしい婚約者の正面に立って、エミリはその顔をしっかりと睨みつけた。
ずっと、ずっと嫌いだった。自分勝手にエレオノールを捨てた男。エミリの自由のすべてを奪っていった男。
護衛と称してエミリの周囲に影をつき纏わせた。一挙手一投足を監視され、一言一句に聞き耳を立てられ、エミリは一瞬だって気を抜けなくなった。作り笑いを貼りつけて、血反吐を吐くように言葉を垂れ流す。欠片の本心もさらせずに、都合のいい人形を演じる生活が一体どれほどストレスだったか。眠るときですらそばに人の気配が張りついて、悪夢を見ない日はない。
唯一、結果へ魔力を流す祈りの時間だけが癒しだった。祈りの間には聖女以外は立ち入れない。大司教でさえ踏み込めないあの場所だけが、エミリの心を支えた。
たくさん泣いた。たくさん怒った。寄り添い、背を撫で、抱きしめて。そうして慰めてくれる聖女たちの謝罪を聞くたびに、腹の底に黒い感情が沈んでいく。彼女たちは何も悪くない。彼女たちだって奪われた側なのだ。
たくさん話をした。
両親から無理やり引き離された子もいる。引き留めようとした恋人を殴られて、止めるために聖女になると叫んだ子もいる。泣き叫ぶ幼い弟妹を置いて、引きずってこられた子もいる。望んで聖女になった子は、今の教会にはいなかった。
『この国には、奴隷制度があるのでしょうか?』
いつだったかそう問うたエミリに、エドワードは瞠目した。
まさか。
否定する言葉は強い声音で、彼は慌て、そして悲しそうに言った。
『奴隷なんて……まさか、リリアージュ聖王国において絶対にありえないよ。建国以来そんな制度が存在したことすらない。奴隷なんて考えは、蛮族の持つものだよ』
『そう、なのですね……』
エミリは驚いた。この国には、奴隷制度はないという。であれば聖女は、国に奴隷のような扱いを受ける彼女たちは一体、なんだというのだろう。
みんな何かを奪われて、それでも踏ん張ってここにいる。それを当然だと詫びもしない周囲がおかしいのだ。
歴代の聖女たちが残した大量の記録はどれも、染みができて読みにくかった。幾度も読み返した歴史ばかりが理由ではない。
涙のあと。
どうか、この悲劇が私で最後になりますように。これ以上、誰も何も奪われませんように。
優しい聖女の優しい願い。もう終わりにしてほしい。そう祈りながら、それでも次へ繋ごうと記録を残す。書き手が言葉を刻む最中に流した涙の染みと、読み手が流した涙の染みで、どの記録もボロボロだった。
そんなことも知らないで。知ろうともしないで。
目の奥が熱くなる。悔しくて、腹が立って。
苦しいばかりのこんな国、聖女に優しくしてくれないこんな国、なくなってしまえ。
「お前が死ね、バーカっっ!」
「へ……?」
希望が霧散する。
呆然と口を半開きにしたエドワードめがけ、無防備に突っ立っている彼の下半身、男の急所だというその場所を、エミリは渾身の力を込めて蹴り上げた。




