02
城内は混乱を極めていた。
恐怖に染まった悲鳴ばかりが轟いて、しかし状況を知らせる声は1つも届かない。何が起こっているのか。誰も知らず、不安は恐怖ばかりを研ぎ澄ます。
第三王子のエドワードもまた、伝播する恐怖に身を震わせていた。
王城の奥、寝室にいる彼のそばには誰もいない。普段であれば扉の外で警護に当たっている騎士も、城内に響く悲鳴を聞き様子を見てくると離れたきり戻ってこない。
何が起こっている。誰かいないのか。
時折、堪らず声をあげてみるけれど返事はない。
自ら様子を見に部屋を出る勇気は浮いてこないまま、エドワードはベッドの上で縮こまる。
……どれだけそうしていただろう。
ふと顔を上げる。響いていた悲鳴が聞こえない。代わりに、こちらへ向かってくる複数の足音がする。
規則正しいリズムで響く音は、聞き慣れた騎士のそれではない。しかし敵意を感じるほどの荒々しさもない。
誰だ。
また不安が呼ばれ、ついでに恐怖も連れてくる。
逃げるべきか。脳裏を過ぎった警告を呑み込むより先に、寝室の扉が開け放たれた。ノックもなかった。つまり来訪者は味方ではないということだ。エドワードの顔から血の気が引く。
「あら、驚いた」
聞こえたのは、姿を見せたのは、女だった。
室内に踏み込んできたのは、聖女である。かつて己の婚約者であり、大聖女の席に座っていた女。エレオノールであった。
驚いた。その言葉のまま目を丸くして、じっとエドワードを見つめている。
「え、エレオノール……?」
「まさかベッドから出てすらいないなんて。危機察知能力が赤子以下だわ」
「エレオノール!」
声に滲む侮蔑の念を、エドワードは過たず感じ取った。尖った声が口から勝手に飛び出す。
しかしエレオノールは気にした様子もなく、普通に歩を進めてきた。灯りのない室内の陰になっていた扉のそばから、窓から差し込む月光が照らすベッドのそばへ、普通に歩いて、迫ってきた。
鼻先をかすめた拒絶感の名前を呼びたくなくて、声を張る。
「貴様ここをどこだと思っている!」
しかしやはり、エレオノールは普通に返事をした。
「あなたの寝室以外のどこだと思うのです?」
「っ……!」
当たり前のように反抗され、言葉に詰まった。その隙にも、エレオノールは言葉を重ねる。
「はぁ……。ちょっと言い返されただけで二の句を継げないなんて、甘やかされ過ぎではなくて?」
「き、貴様……誰に向かって――」
「よくもまあ、そこまで自尊心ばかり立派に育ったものだわ……」
エレオノールは歩みを止めない。エドワードはようやく、自分がまだベッドの上にいることを思い出した。慌てて足を外へ出し、しかし爪先が床に触れる前にエレオノールの腕が伸びた。
「なっ――!?」
胸倉を掴み上げられる。座ったままのエドワードを、高い位置から見下ろして。柘榴のような熟れた双眸が、エドワードの口を縫いつけた。燃えるような眼光に、身が竦んだ。
なんだ。なぜこの女がここにいる。何をしに来た。
いまさら……今になって、疑問が胸を満たす。
先程まで響き渡っていた悲鳴が止んで。そうしたらエレオノールが現れて。複数あった足音の1つが彼女で。であれば、残りは誰だ……?
背筋を冷たいものが伝う。ガチガチと鳴っているのが己の歯だと、エドワードはしばらく気づけなかった。
「おまぬけさん」
視界がブレる。床へ投げ捨てられたのだと、体を打ちつけた痛みを感じてようやく理解した。
その愚鈍さに、エレオノールが舌打ちを漏らしたことにも彼は気づけない。
「理解なさい。あなたには知る義務がある。この国で今、何が起こっているのか。わたくしたちがこれから、何をするのか。すべて理解しなさい」
立て。
エレオノールは命令した。
その声に熱はなく、冷たさに慄いた体が勝手に起き上がる。
「な、なんだ、お前……何を――」
何をしようというのか。
問うために開いた口は、最後まで言葉を紡げなかった。開け放たれたままの扉から、新たな来訪者が姿を見せる。
それは闇。仄暗い夜を纏った、人間に似た、けれど人間ではありえない男であった。
「ぁ、……は?」
初めて見る存在に、エドワードの思考は塗り潰された。
「呆けていないで、挨拶なさい。彼は魔族。これからあなたたちを、この国を支配する種族の名よ」
魔族。この国を支配する。――俺を、支配する。
足元から恐怖が這い上がる。背筋を駆け抜け、脳天を突き抜け、エドワードは悲鳴をあげた。尻もちをつきながらも、エレオノールからも魔族だという男からも遠ざかろうと床を這う。しかし扉を塞がれている彼に逃げ場はなく、寄った壁際に背をつけへたり込めば、もうどこにもいけなかった。
エドワードは理解する。
これだった。城内を駆け巡っていた悲鳴の、恐怖の正体はこれだったのだ。
魔族。聖女が魔族を招き入れた。結界の向こう、聖王国を脅かす魔よりもずっと、もっと恐ろしい、おぞましい何かを彼女たちが連れてきた。
反逆である。聖女が国家へ反旗を翻した。
許し難い。許されるべきではない。神罰が下って死んでしまえ。
すさまじい速度で脳内を巡ることを何1つ舌にのせられず、エドワードはただ震える。喉が焼けるような悲鳴が止まらない。
恐ろしい。ただ、恐ろしい。恐ろしくて堪らない。
「うるさい」
エドワードが這った距離を一息で詰めて、エレオノールの腕が再び胸倉を掴み上げる。
ぱあんっ――。
頬を張られ、痛みと衝撃で吐き出していた悲鳴が止まった。痛い。涙が滲んだ。
「また騒いだら、今度は彼に叩いてもらいます」
わかった?
エドワードは首が外れるほど頷いた。声を発するのも恐ろしくて、返事はできなかった。エレオノールの言う『騒いだら』がどの範囲かわからない。
「立ちなさい」
従う。
涙の膜が決壊し、頬を伝った。恐ろしくて堪らない。同じくらい、悔しくて堪らないけれど恐怖を超える熱量には至らず、唇を食んだ。こぼれた嗚咽すら騒いだうちに含まれてしまったら、今度はあいつに叩かれる。己よりずっと体格のいい魔族の男の力がどれほどかわからない。頬を叩かれ、そのまま首がもげたらどうしよう。
一度浮かんだ不安は際限なく次の恐怖を呼び、エドワードは身じろぐことにも怯えてしまう。
支配する。エレオノールの言葉は、早くも現実味を帯び始めていた。




