01
静かな夜だった。
夜空で輝く星々は鮮やかで、満ちた月は堂々としている。草木さえ居眠りしているような静寂。今宵はあまりに、静か過ぎた。
蟻の子1匹でも動こうものなら音を拾えてしまいそうな静けさは、警備の兵から緊張感を奪っていた。彼らは退屈すら感じている。不真面目なわけでなく、与えられた職務に忠実な彼らであるが、月明りで視界の晴れた夜に、不届き者が湧くとは思えなかった。
それが愚かな慢心であると、気づいたときにはもう遅い。
手遅れだった。は? と疑問の声をあげたときにはすべてが終わっていた。
夜の闇が蠢いて、意識するより先に視界が暗くなる。ハッと身構えた頃には、意識を奪われている。
次々に昏倒していく兵士たちを尻目に、進軍するのは魔の軍勢。率いているのは先代の大聖女。同行するのは今代の大聖女と以下数名。
対敵した兵士たちは初め、それが魔であると理解できなかった。
魔とは蠢く闇。魔力を帯び、瘴気を吐き出しながら破壊と蹂躙の限りを尽くす、醜悪な異物である。リリアージュ聖王国において、魔とはそういうものであった。しかし今、彼らの目の前に立ちはだかるそれらはなんだ。
人に近い姿を持ち、しかし人ではありえない姿をしている。ある者は牡鹿に似た角を持ち、ある者は狼の頭を持ち、ある者は体に茨を纏っている。見たこともない何かが群れを成している。人間ではない。けれどそれが何であるのか、説明する言葉を彼らは持たない。
未知への恐怖。得体の知れない何かが、襲い来る。原始的な恐怖は侵食が早い。
悲鳴があがった。1つあがれば、あとは際限ない。恐怖は伝播し、悲鳴が反響し、静寂はあっという間に崩壊した。
「自ら居場所を知らせてくれるとは、この国の兵は親切だな」
牡鹿の魔族は仲間と共に駆け出した。
「……あれ、本気で言ってます?」
その背を見送って、エミリは首を傾げた。
「旦那様は純真なの」
うっとりと、エレオノールは惚気た。
「エレオノールさん、あの人のどこを好きになったんですか?」
「会話できるところ」
「……ちょろ過ぎません?」
長く、会話の成立しない連中を相手に奮闘してきたせいだろうか。同じ人間で成り立たない会話が、異なる魔族では成り立った。それは恋に落ちるほどの衝撃だったのだろうか。エミリは愕然とした。同時に、そんな条件であるのなら自分でもいいではないか、と不満が浮かぶ。
やっぱり男でないと駄目なのかしら。
ぶつぶつと漏らすエミリへ、エレオノールは微笑んだ。
「魔の本能を遮る大敵である聖女を前にして、攻撃ではなく対話を試みようとする平和的なところ。わたくしの話をきちんと聞いてくれるところ。互いの意見をすり合わせて、双方が納得できる結論が出るまで辛抱強く考えてくれるところ。語気が柔らかいところ。優しいところ。負けず嫌いなところ。わたくしを大事にしてくれるところ。種族も出自も性質もまるで異なる魔と人を隔てずに、迷いなくわたくしを愛していると言ってくれるところ」
列挙された内容に、エミリは頬を膨らませる。
いっぱいあった。
口出しできない。積み重ねた時間の中で、確かに深めた仲だった。
「私だって、エレオノールさんのことが大好きですよ」
異なる世界を生きた。エレオノールと過ごした時間は彼とそう違わない。その中で対話を重ね、共に涙を流し、一緒に笑い合ってきた。
大聖女の立場を追われ、婚約者を奪われて。エミリがすべてを横取りした。欲しくて望んだものではないけれど、結果だけを見ればそういうことだ。エレオノールはどちらも要らないものだと言うけれど、そこに嘘はないと知っているけれど、気持ちは晴れない。
侍女としてエミリに仕えることを強いられ、行動のほとんどを制限される。教会に縛られて、聖女として引退することも許されない。国はエレオノールを使い潰す気でいる。そうなった原因は、エミリだ。
それでも、あなたのせいじゃない、とエミリを抱きしめてくれる。
優しくて、作ってくれる料理はどれも美味しくて、エミリを甘やかすのが上手で、いつだって大事にしてくれて、常にエミリを守ってくれる。返せるものは少ないけれど、返せる限りを尽くしたい。
エレオノールを好きに思う気持ちなら、エミリだって負けないくらい抱えている。
「わたくしも、あなたのことが大好きよ」
それでも大好きなエレオノールが屈託なく笑ってくれるから、これでいいや、とエミリは満足することにした。




