焦る少年王
翌朝。ヴェネツィアの街中で細やかな事件が起きた。
その現場となったのは、ヴェネツィアの政治・経済の中心地である公共広場。
真珠宮殿のすぐ隣に建設されたる公共広場には、ヴェネツィアの主だった貨幣や物の物価を操作する中央市場があり、ヴェネツィア経済の根幹を担っていると言って良い。
そんな中央市場が開かれる夜明けと同時に、事件の主役は現れた。レオナルス・ダヴィニスだ。
「私、レオナルス・ダヴィニスは、海の女王神サラキアの名の下に、リウィア・グラキエヌス嬢に結婚を申し込みます!!」
ダヴィニスが甲高い声で、公衆の面前にてリウィアへの愛を宣言した。
これはヴェネツィアの一般市民が愛の告白をする際によくする習慣のようなもので、ダヴィニスはリウィアからの返事を落ち着いて待てなかったばっかりにこのような行為に出たのだ。
ヴェネツィアで深く信仰されている海の女王神サラキアの名の下に、そして不特定多数の人々の前で愛の告白をする事は、これだけの思いの強さと覚悟を示す意味合いがあった。
中央市場にて、早朝の取引準備に勤しむ商人達はその手を止めてその宣言に耳を傾ける。
ほとんどの者はダヴィニスに、興味と愉悦に満ちた視線を向けて面白半分に声援を送った。
◆◇◆◇◆
それから少しして、タルキウスの下へリウィアへの婚約を求めるダヴィニスの書状が届いた。
「婚約の持参金に銀一千タラントか。これはすごい額だね」
金銭感覚に疎いフェルディアスですら驚くほどの金額。
この金でダヴィニスはリウィアとの婚約をタルキウスに迫ったのだ。
エルトリアでは通常、男女が結婚をする場合、女性側の家族は持参金と呼ばれるお金を用意するのが習慣となっていた。
しかし、聖女が婚姻の相手となると話が変わってくる。
そのため聖女と言えば国王の所有物であるという認識が強く、聖女と結婚したい場合、男性側の方が多額の持参金を用意する必要があった。
そのため、これは持参金というよりは身請金という性格の方が強いかもしれない。
「一千タラントでリウィアを妻にしたいなんてふざけた事を言いやがって!!」
ダヴィニスからの書状を見てからというもの、タルキウスはずっと機嫌を悪くしていた。
いつもなら、ここでリウィアがご機嫌取りをするところなのだが、生憎いまここにリウィアの姿は無かった。
「た、タルキウス、落ち着いて」
リウィアがいない以上、タルキウスのブレーキ役を務めなければならないフェルディアスは必死にタルキウスを宥めようとする。
「だいたいリウィアはどこに行ったのさ!!」
「どこってダヴィニスさんと出掛けたんだよ。知ってるだろ」
「知ってるよ! ちょっと聞いてみただけだ!」
「やれやれ。そんな事だと、本当にリウィアさんに愛想を尽かされちゃうよ」
フェルディアスの言葉を聞いたタルキウスは身体をビクッと反応させる。
「そ、そ、そんな事、あるわけないだろ!!」
腕を組んで断言するタルキウスだが、その言葉は震えており、動揺している事は明らかだった。
「だいたいリウィアさんとはまだ仲直りできてないんだろ」
先日、リウィアがタルキウスに仕掛けた悪戯でへそを曲げたタルキウスは、そのまま意地を張って仲直りできずにいた。
「だ、だって、フェルだって見てただろ! あれはどう考えてもリウィアが悪い!」
「だからリウィアさんもすっごく謝ってたじゃないか」
「うぅ。そ、それはそうだけど」
「リウィアさんが戻ったら、ちゃんと謝って仲直りしなよ」
「……」
「タルキウス!!」
フェルディアスはいつになく激しい剣幕で、お互いの吐息が相手の頬に掛かるほどにタルキウスに迫る。
「わ、分かったよ。分かったから離れろって」
タルキウスは力ずくでフェルディアスを引き離す。
「……リウィアさんはいつもタルキウスの事を第一に考えてる。タルキウスだって知ってるだろ」
「そりゃ勿論!」
「だったらタルキウスもいつまでも意地を張ってないでちゃんと謝りなよ」
「分かったって! もう! 何度も言わなくて良いよ!」
フェルディアスの奮闘もあってようやく落ち着きを取り戻したタルキウスは、考えを別方面に伸ばし出した。
「それにしてもいくら成功している商人とはいえ、銀一千タラントなんて本当に用意できるのかな?」
“タラント”というのは通貨の単位ではあるが、厳密に言うと貨幣の量の単位である。
一タラントはデナリウス銀貨六千枚を指し、一千タラントはデナリウス銀貨六百万枚に当たる。
一介の市民であれば、一生を遊んで暮らせるほどの額にもなろう。
持参金としては、かなり高額な資金を提示していると言えた。
それだけダヴィニスが本気である事を示す形にもなっているわけだが、そもそもダヴィニスにそこまでの資金力があるのかどうかがタルキウスには疑問だった。
「何か高く売れるものをたくさん持ってるとか?」
「高く売れるもの? ……ダヴィニスは東方世界とヴェネツィアを往復する船商人だ。となると香辛料か、それともエジプトの金か。……いや。待てよ。あるじゃないか。高値で売れる物が」
「高値で売れる物?」
「穀物だよ。確かダヴィニスはパンノニアに広い農場を持っていたって資料で読んだ。そしてパンノニアの特産品は材木と穀物」
パンノニアは森が多く、農地にできる土地は少ないものの、豊かな自然と水に恵まれている事から穀物の生産も行われていた。
「あいつがそこで生産した穀物を溜め込んでいて、それを一気にローマへ出荷したとしたら……」
「一千タラントに一気に届いちゃうかもね。……で、でもさ。タルキウス、持参金が用意できたからってリウィアさんがダヴィニスさんと結婚するとは限らないと思うよ。何せリウィアさんはタルキウスの事を何よりも大切に思ってるから!」
「それはどうかしらね!」
部屋の窓の方から突如、女の子の声がタルキウスとフェルディアスの耳に届く。
二人が窓に目をやるとそこには拘束衣に身を包んだ、桃色の髪をした少女パンドラの姿があった。
「ぱ、パンドラ、どうしてここに!?」
「ローマに遊びに行ったら、タルキウスがいなかったから追いかけてきたのよ! もう酷いじゃない! 私を置いて旅行に行くなんて!」
「お、置いていったなんて人聞きの悪い事を言うなって。これは旅行じゃなくて、れっきとした仕事だよ!」
「ふ~ん。まあ、タルキウスがそう言うのなら、そう言うことにしておいてあげるわ!」
「それより、さっきの言葉はどういう意味だよ?」
「さっきの? 私、何か言ったかしら?」
素知らぬ風に言うが、パンドラはニタニタと笑っている。
「それはどうかしらねって言ってた奴の事だよ!」
「あぁ、その事ね。だって考えてもみなさいよ。リウィアにとってタルキウスは手の掛かる子供。朝はいつも中々起きないし、食事はたくさん用意しないといけないし、言い付けは全然守らない。こんな手の掛かる子供。ちょっと良い男が目の前に現れたら、女なら誰だってそっちに吸い寄せられても不思議は無いわ」
「り、リウィアはそんな事ないよ!!」
自分に言い聞かせるように声を荒げるタルキウス。
「分からないわよ。女の心は移ろいやすいからねえ」
「うぅ。パンドラが言うと妙に説得力があるな」
原初の女性であるパンドラの言葉は、異様な説得力を以ってタルキウスの胸に突き刺さる。
「それにタルキウスってリウィアに何か贈り物とかしてあげたりしてる?」
「し、してないけど」
「馬鹿ね! 女の子は贈り物が大好きなのよ!」
「だ、だってリウィアは、そういうお気遣いは大丈夫です、って言うんだもん!」
「まったく。それだからタルキウスはダメなのよ! 女の子は口ではそう言いつつ、贈り物を貰いたいと内心では思ってるものなの!」
「それはパンドラが欲しいだけじゃないのか?」
「そんな事ないわ! そんな事よりうかうかしていると、本当にリウィアを他所に取られちゃうわよ!」
「そ、そんなの嫌だ!!」
タルキウスの悲鳴が離宮内に響き渡った。




