空腹の少年王
グウウウギュルルルル~
獣の唸り声のような音が国王執務室に響き渡る。
その正体は、タルキウスの腹の虫だが。
執務室では、タルキウスが空腹と格闘をしながら仕事に励んでいた。
そんなタルキウスを見ていられないリウィアは、せめて水だけでも胃に入れて空腹を紛らわせようと試みたが、やはり水だけでは満腹感など得られるはずもない。
タルキウスは徐々に、激しい空腹から来る疲労の色が隠せなくなりつつあった。
何とかタルキウスに食事を取らせる事はできないか。
食堂で料理をしながら、そうリウィアが考えていた時だった。
「こんにちは、リウィア! タルキウスはいつもの場所にいる!?」
突如、リウィアの背後から声がした。
その声にビックリしつつも振り返ると、そこには桃色の長い髪に、全身をベルトで拘束された少女の姿があった。
「ぱ、パンドラちゃん、来ていたんですか?」
「ええ。何だか良い匂いがしたから来てみたんだけど」
「パンを焼いていたんです。パンドラちゃんも食べますか?」
「やった! 久しぶりにタルキウスとお昼が食べられるわ!」
時々こうして、ローマに遊びに来ているパンドラは、普段はアルバヌス山の山頂ユピテル・ラティアリス神殿に住んでいる。
食事は神殿で食べている事が多いが、たまには友達のタルキウスと一緒に食べたいと思っていた。
「あぁ、ごめんなさい。タルキウス様は今、その、お食事を取らなくて」
「え!? あの食いしん坊のタルキウスが!? 嘘でしょ!」
タルキウスの大食漢ぶりをよく知っているパンドラは、リウィアの言葉が信じられなかった。
しかし、事情を聞くと「なるほどねえ」と納得した様子である。
「本当にタルキウスは妙なところで生真面目ね。王様が断食なんて聞いた事ないわ」
「私、一体どうしたら良いのか」
「ふ~ん。良い手が無いでも無いわよ」
「ほ、本当ですか!?」
神話によると、知恵の女神ミネルヴァが授かったと伝えられる叡智は侮れない。
一体どんな策を考えているのか、リウィアはパンドラの言葉に耳を傾ける。
◆◇◆◇◆
それから少ししてだった。
パンドラはタルキウスのいる国王執務室に殴り込みを掛けた。
「タルキウス! 私と勝負よ!」
「え? ぱ、パンドラ? 何だよいきなり現れて……」
「久しぶりにあなたと勝負したくなったのよ!」
無邪気な少女の声で、自らの要求を訴えるパンドラ。
その迫力には思わずタルキウスも圧倒されそうになった。
「え、えぇと、悪いんだけど、俺ももう一度パンドラと戦ってみたいんとは思うんだが、ローマが木っ端微塵になっちゃうからまた別の機会にしてくれねえか?」
「違うわ! 勝負は勝負でも、今日は頭の勝負! つまりチェスよ!」
「え? ちぇ、チェス? パンドラ、チェスのルール知ってるのか?」
「勿論よ! この私を誰だと思ってるの?」
そう得意気に語るパンドラだが、実を言うとつい最近になって、アルバヌス山にて彼女の世話係をしているルナティアに教えてもらったのだ。
タルキウスの趣味の一つがチェスだと聞き、密かに練習して打ち負かしてやろうという野望を内に秘めて。
「でも、ただチェスをするだけじゃあ面白くないから、負けた方は勝った方の言う事を一つ聞くってルールはどう?」
「え? ふ~ん。良いのかな? 俺、チェスにはだいぶ自信があるんだぞ」
タルキウスの反応を見たパンドラは、しめしめと内心でほくそ笑む。
負けず嫌いのタルキウスであれば、特技であるチェスで挑まれた勝負を拒んだりはできないだろうという読みは見事に的中した。
「良いわよ! 私だってチェスの腕には自信あるわ!」
覚え立てでその自信は一体どこから来るのか。そう思わずにはいられないタルキウス。だが、挑まれた勝負を拒む気はタルキウスには毛頭なかった。
「じゃあ早速始めようぜ!」
こうしてタルキウスとパンドラのチェス対決が始まった。
パンドラは拘束衣で両手が使えないので、リウィアがパンドラの指示に従って駒を動かす。
チェスにはその指し方で性格が表れるという。
タルキウスの指し方は、猪突猛進気味に見えて全てが計算されている。実に緻密なものだった。少なくともパンドラにはそう思えた。
パンドラの見るタルキウスは、いつも無邪気で明るく元気な男の子。とても大国を支配する国王には見えない。
だが、その力量が充分に備わっている事はこのチェスからもパンドラには窺い知れた。
一方、パンドラの指し方はタルキウスから見て、どこか手慣れていない雰囲気を感じた。
戦略そのものはとても計算高く、タルキウスも油断していると一瞬で陣形を突き崩されかねないほどだった。
しかし、稀に些細なミスをしてはタルキウスに攻め立てられて、逆に敗北一直線に陥りかねない危うい局面も幾度か見られた。
それでもチェスの腕に自信のあるタルキウスを相手に、互角の勝負を繰り広げられるのは、知恵の女神ミネルヴァの叡智の賜物だろう。
子供同士の対決とは誰も思わないであろう名勝負が盤上で繰り広げられるが、それも次第に終局を迎える。
「へへへ。これでチェックだぜ」
タルキウスがパンドラのキングを後一歩のところまで追い詰めた。
その瞬間、先ほどまで楽しいムードで進んでいた対局が一転する事態が起きる。
パンドラが泣き出したのだ。
「も~! タルキウスの意地悪! ちょっとは手加減してよねッ!!」
「え、え?」
いきなり涙を流してそんな事を言い出すので、流石のタルキウスも動揺を隠せない。
「ぱ、パンドラちゃん、まだ負けたわけじゃありませんから。頑張りましょ! ……もう。ダメじゃないですか、タルキウス様。パンドラちゃんはまだチェスに慣れていないんですから手加減をしてあげないと」
そう言うリウィアの声は微かに震えて緊張のようなもの、動揺のような感情が含まれている様だった。
それもそのはず。これは事前に示し合わせた演技なのだから。
パンドラはチェスの腕前に自信が無かったわけではないが、保険として負けそうになった時は嘘泣きという手段に出る事をリウィアに告げて、自然な感じでタルキウスに手加減をするよう促すように、という作戦を立てていた。
大切な親友が泣き出し、最愛の女性から注意を受ければ、タルキウスでも簡単に騙せるという計算だ。
それは見事に的中し、タルキウスは「わ、分かったよ」と、まるで悪い事をしてしょんぼりとする子供のようになる。
その顔を見ると、リウィアはタルキウスを騙す事に罪悪感を感じて胸を痛めてしまう。
しかし、これもタルキウスのためなのだと心を鬼にして、リウィアは最後まで演じ切った。
タルキウスは、チェックをかけた駒を元の位置に戻して別の駒を動かす。
するとパンドラは、さっきまでの泣き顔から一転して満面の笑みを浮かべる。
「ありがとう、タルキウス! やっぱりタルキウスは優しいよね!」
笑顔で礼を言われて、悪い気はしないタルキウス。
しかし、空腹で集中力が散漫になりつつある彼には、パンドラの演技を見抜く事はできなかった。
そして対局は再開され、パンドラはチェックをかけられる度に泣き出し、リウィアが注意をするという行為を繰り返した。
こうなってくると流石にタルキウスも違和感を覚えるが、その違和感が確信へと変わる前に、
「ふふふ。チェックメイトよ!」
パンドラが勝利した。
「やったー! 私の勝ちね!!」
「くっそ~。負けちまったか~」
悔しそうにはするが、親友と楽しく勝負ができてタルキウスも満更でもない様子。
「それじゃあタルキウス、私との約束はちゃんと覚えてるわね?」
「ああ。負けた方は勝った方の言う事を一つ聞く、だろ。で、俺は何をすれば良いんだ?」
「一緒にお昼を食べましょ!」
「え?」
パンドラの宣言に、タルキウスは固まった。そして、咄嗟に視線をリウィアへと移し、彼女のよそよそしい表情を見て全てを察する。
これはリウィアとパンドラの共謀だったのだと。
「どうしたの? まさか、タルキウスが親友の約束を違えたりしないよね?」
一点の曇りも無い満面の笑み。
その裏には巧妙な策略が潜んでいるのだとタルキウスは自覚するも、今更後には引けなかった。
そして何より。
グウウウギュルルルル~
タルキウスのお腹も限界を訴えていたのだ。
「わ、分かったよ、パンドラ」
「やったー!」
こうしてタルキウスの断食生活は終わりを迎えた。
この後、タルキウスが一食で三日分を食するのだった。




