ローマ飢饉
人口百万を誇る大都市ローマは今、大都市だからこその災厄に見舞われていた。
「穀物庫を開放しろ!」
「もう三日も飯を食ってないんだ!」
「お願いします! せめて子供達の分だけでもお恵みを!」
ローマの政治・経済の中心地であるフォルム・ロマヌムには、飢えた民衆が詰めかけて暴動に発生しかねない有り様となっていた。
ローマは穀物の供給が滞るようになり、民衆は飢饉に苦しんでいる。
民衆の怒りと悲痛の声は、フォルム・ロマヌムの東側に建つ黄金大宮殿にまで轟いていた。
この宮殿でも人の声ではなく、腹の虫が激しい悲鳴を上げている。
グウウウギュルルルル~
腹の虫は、タルキウスの胃袋から鳴ったものである。
国王執務室で政務に勤しむ傍らタルキウスのお腹は唐突に空腹を訴えた。
その顔は空腹故かやや痩せこけており、疲労の色が見て取れる。
そんなタルキウスに侍女のリウィアは心配そうな声で「お願いですから。お食事を取って下さい」と言う。
いくら飢饉に陥ったと言っても、国王まで飢える事はそうそうない。本来ならば最優先で穀物が供給されるはずなのだから。
しかし、タルキウスは「民が飢えているのに、王だけ食べるわけにはいかないでしょ」と言って自分の分の穀物を全て民衆用の穀物庫に収めていた。
「俺は大丈夫だよ」
リウィアに心配を掛けまいとタルキウスは空腹のお腹を隠そうとするかのように両手で抑え付けながら、満面の笑みを浮かべて言う。
普段は食い意地の張った食いしん坊だが、国王としての責任感の方が勝った今のタルキウスの意思は固かった。
「で、ですが、そう言ってもう五日も水しか口にしていないじゃありませんか。このままでは本当に身体を壊してしまいますよ」
「だから大丈夫だって。それよりリウィアはちゃんと食べてるんだろうね!?」
釘を刺すかのように、強めの口調で言う。
タルキウスは自分は食事を取らない一方で、リウィアには食事を取るよう厳命していた。
「は、はい。タルキウス様の言い付け通りに。ですが、もしこれ以上タルキウス様がお食事を取って頂けないのでしたら私も断食します!」
「ダメだよ! 絶対にダメだからね!!……うぅ」
席を立ち、椅子の上に乗ったタルキウスは、上から目線で、そして強めの口調で言い放つ。
しかし、空腹の状態で出した大声が、腹に響いた瞬間、タルキウスは身体の力が一気に抜けるのを感じた。
その弱々しいタルキウスの姿を見て、リウィアはつい根負けしてしまう。
「わ、分かりました。分かりましたから、どうか落ち着いて下さいッ!」
一触即発の雰囲気を感じて、執務室の扉近くに控えていたフェルディアスも止めに入る。
「タルキウス、声を荒げると、余計にお腹が空いちゃうよ」
「……あ、ああ。フェルも俺に付き合って断食なんてしなくても良いだぞ」
「そうはいかないよ。僕はタルキウスの奴隷なんだから。主人が断食をしているのに、その奴隷が食事するなんておかしいでしょ」
フェルディアスはタルキウスが断食するならばと自分も自主的に断食していた。
彼の故郷スパルタでは、数日間断食したまま戦い続けるという戦闘訓練もある。その時の経験が活かされているのか、タルキウスほどやつれた様子は無い。
「……」
タルキウスは、フェルディアスが一緒に断食してくれる事への嬉しさと申し訳なさが入り混じって複雑な心境となっていた。
「それじゃあ水でも持ってくるよ。お腹には貯まらないけど、何か入れておくのとおかないのとでは違うからね」
「あ。待って下さい、フェル君。私が用意しますから、フェル君はここで待っていて下さい」
そう言ってリウィアは一度退出した。
それから少しして、法務官ルキウス・クイニス・マエケナスがタルキウスに謁見を求めた。
今年で二十四歳と若手政務官だが、行政処理能力の高さをタルキウスに評価されてエルトリアの司法を司る要職の法務官に抜擢された秀才である。
法務官の権限は司法とそれに関連した事に限られるのだが、エルトリアの長い歴史の中でその内容は徐々に変質していき、エルトリアの行政・財政などにも幅広く顔が効く地位となっていた。
今日、マエケナスがタルキウスの下を訪れたのも、今ローマを悩ませている飢饉に関する事でだった。
「ヴェネツィアからの知らせによりますと、穀物を積んだ貿易船はほとんどが海賊に襲われてしまったようです」
大都市ローマは世界でも有数の大消費地だった。
しかし、ローマの食料自給率はあまり高くなく、大半の穀物は“世界の農場”として知られるエジプトからの輸入に頼っていた。
ナイル川に面した肥沃な大地から生産される穀物とその交易を安定させる事は、市民の支持を勢力基盤とするタルキウスにとっては命綱とも言えるものだった。
そしてそんな穀物を供給する貿易を一手に担っているのは、東方貿易を牛耳るヴェネツィア商人。
東地中海の海を知り尽くし、どこの船商人よりも速く安全に物を運搬する彼等は今、その東地中海で暴れるキリキア海賊の脅威に晒されて船が次々と襲われているという。
「で、その事についてヴェネツィアの女狐は何と言っているのだ?」
「エルトリア海軍に海賊退治を要請しております」
「……それだけか?」
「はい」
「ふん! あの女狐め! 詫びの一言も無いのか!」
空腹の影響もあるのか、タルキウスは妙に怒りっぽかった。
しかし一度冷静になると、タルキウスの脳裏にはある疑問が浮かぶ。
「ヴェネツィアだって馬鹿じゃない。海賊対策に武装だってしているはずだし、航路も幾つも用意しているはず。それなのに、その全てが襲われたというのは妙だな。まるで貿易船の情報が漏れているようじゃないか」
「確かにそうですな。東地中海はヴェネツィアの縄張り。海賊に付け入る隙も与えず交易網を安定させてくれていたからこそ王国政府もエジプトとの交易の全権をヴェネツィアに委ねてきた。ここへ来てこの失態は、確かに不自然ですな。密偵を送ってヴェネツィアの内情を探らせましょうか?」
「そうだな。至急に手配せよ」
「御意のままに」




