自治都市ヴェネツィア
黄金王タルキウス・レクス・エルトリウスは圧倒的な力を背景に、エルトリア王国に君臨している。
しかし、そんなタルキウス王でも王国の全てを掌握しているわけではない。
その一例が自治都市である。
国王と元老院の双方の承認によって与えられる権利であり、これを得た都市は多額の税を納める事を条件に独立国家にも等しい自治権が付与される。
イタリア半島北東部に位置するヴェネツィアもこの自治都市の一つである。
アドリア海の最深部にあるヴェネツィア湾にできた潟の上に築かれた都市であり、街中には大運河が流れている“水の都”だ。
街中の道は狭く、馬車の通行も困難。しかし街の至るところに流れる水路を通って船による移動が発達している。
街中を流れる水路は独特の景観を生んでおり、ヴェネツィアが“水の都”と呼ばれる所以にもなっていた。
そんな水の都を統べるのは、黄金王より“大総督”の地位を与えられたラグナという女性だった。
彼女は今、ヴェネツィアの大総督邸兼政庁である“真珠宮殿”の大広間にてパーティを楽しんでいた。
あちこちに海神の聖獣であるイルカの石像が建てられた大広間では、煌びやかなヴェネツィア貴族達が銀製のグラスを片手に注がれたワインを飲み、談笑に耽っている。
今日はヴェネツィアが崇める海神サラキアを祝す海の女王祭が行われている日なのだ。
エルトリアにおいて主神はあくまでエルトリウス王家の祖神ユピテルだが、水の都であるヴェネツィアでは海神ネプトゥヌスの妻にして海の女王と称されるサラキアが事実上の主神として崇められていた。
大広間の最奥には、まるで玉座のような豪華な装飾が施された椅子に大総督の姿はあった。
「先日の嵐で貿易船一隻が沈没とは、祝いの席に似つかわしくない知らせね」
ほどよく冷えたワインを飲み干した大総督は、不愉快な報告に機嫌を損ねる。
まだ二十歳と若く美しく、そして可愛らしい顔立ちをした彼女は、色白の肌に扇情的な露出の多い白いドレスを身に纏ってた。
頭には神々しい金色の輝きを放つ王冠を付け、左手には身の丈ほどもある先端に巨大な真珠を付けた杖を握っている。
しかし、それ等の装身具よりも美しいのは、首元まで伸びた綺麗な金髪のショートヘアだった。
ラグナ・ユリウス・ヴェネウス。それが彼女の名である。
と言ってもラグナというのは、ヴェネウス家の女当主が代々受け継ぐ名で、歴代の女当主達と区別する場合には“ラグナ六世”と呼称される。
「あの嵐。ローマの黄金王の差し金ではない。おそらくはアルバヌス山の老いぼれ共の企てに相違ない」
ラグナの言葉を聞いて、彼女の脇に控えている大柄の男性が前に出た。
「大総督、よもやカルタゴとの密貿易がバレたのでしょうか?」
そう言う二十代半ばくらいのこの青年の名は、オルソス・イパルトス。
海神ネプトゥヌスを祀るネプトゥヌス神殿を守る守護神官にしてヴェネツィア最強の魔導師である。
濃い灰色のトゥニカを着て、その上から黒のトーガを身に纏った赤髪の青年は、右手には身の丈ほどの大きさをした銀製の杖を握っている。
杖の先は三又に分かれており、神話でネプトゥヌスが所持していたと伝わる【海神の三叉戟】を象った造形になっていた。
「さてな。だが何れにせよ。アルバヌス山の老いぼれ共とはいつか事を構える日が来ていたであろう。ワシの予想より些か早くはあったが、何の問題も無い。このワシを敵に回せばどうなるか。じっくりと思い知らせてやるぞ」
若く美しい見た目とは裏腹に、ラグナは老人のような口調で話し、そして悪魔のような笑みを浮かべる。
ヴェネツィアは、数多くの貿易船を保有し、“世界の農場”と評されるエジプトの穀物を人口百万を誇る大都市ローマに供給する生命線を牛耳る事で莫大な富を形成してきた。
更には絹や香辛料など東方世界の産物を西方世界へと持ち込んだり、穀物以外にも果物やワイン、毛皮に木材、宝石類、さらには奴隷貿易と手広く商売を行い、東地中海の海上貿易を支配していると言って良い。
そんなヴェネツィアにとって“海の王者”たる大国カルタゴは脅威そのものであり、対応には細心の注意を払ってきた。
時には海を荒らし回る海賊に、他国の船を攻撃・拿捕する事を認める私掠免許状を与えて、相手方の貿易船を海賊に襲わせるという間接的な方法で互いに相手を牽制したり、攻撃したりする険悪な時期もあった。
しかし、自治都市が大国と渡り合うにも限界がある。
そこでラグナ六世は、そのカルタゴとの外交方針を転換する事にした。
エルトリアが開発した魔法道具や武具と言った国外への輸出を厳しく規制しているものを密かにカルタゴに売る事を条件に、カルタゴと対等な取引を実現したのだ。
これにより両者は相手方の貿易船に一切干渉しないという協定が結ばれ、敵対勢力のいなくなったヴェネツィアは空前絶後の繁栄を謳歌していた。
そんなヴェネツィアにとって、先日の嵐は実に悩ましい出来事だった。
ヴェネツィアを繁栄させる貿易が止められてしまうのだから。
「カルタゴの差し金、という事は無いでしょうか?」
オルソスは私見を披露する。
彼は政治家ではなく、一介の守護神官でしかない。しかし、ラグナの護衛役として政治の場にも度々顔を出す事があり、その見識は並の政治家にも劣らないものだった。
エルトリアとカルタゴは今は友好関係にあるが、それはあくまで表向きの話であり、裏では相手の力を削ごう、蹴落とそうと策謀を巡らし合っている。
それを考えると、イタリア半島とその周辺を襲った今回の嵐はカルタゴの策略なのではないか、とオルソスは予想した。
「その可能性は否定せんが、タイミング的には考え辛いな。それにワシ等としては最も望ましくない。エルトリアとカルタゴの戦争となれば、この海は大きく荒れよう。そうなっては今のような貿易が困難になってしまう」
ヴェネツィアはあくまで自治都市でしかない。
そのため、海軍力と言えるものはほとんど無かった。
いざエルトリアとカルタゴの戦争が始まれば、地中海全体の海上交通は乱れて貿易船は安全な船旅が難しくなってしまう。
そうなると、ラグナとしてエルトリア海軍に貿易船の海上護衛要請を出さざるを得ず、これまでのような密貿易が困難になる。
「まあカルタゴについては改めて探りを入れておこう。まずは目下の敵との戦いに集中するのだ」




