海神の逆鱗
大雨と強風が吹き荒ぶ嵐の日々が続いて一週間。
タルキウスは土魔法を得意とする魔導師を集めて、突貫工事で堤防を作り上げるといったその場しのぎの策でローマを水害から守っていた。
しかし、これだけ嵐が続くと、それも通用しなくなる。
大都市ローマを支える大地そのものが大量の雨水で液状化し、都市を泥で呑み込んでしまう恐れすら出ていた。
イタリア中の誰もがこの嵐に危機感と恐怖感を募らせていたが、唯一この事態を喜んでいる者達がいた。
アルバヌス山の山頂に住む長老貴族だ。
「ふふふ。小さい王も今回ばかりはお手上げのようじゃのう」
「流石は人類最古の魔女じゃ。予想以上の力よ。一体どんな手を使ったのやら」
「直に小さい王は我等に泣きついてくる事じゃろう」
「そうじゃな。小さい王はよく知っている。なぜ我等一族が数百年に渡って今の地位を維持してこられたのかを」
「かの王の秘宝。それを使えばこんな天災は一瞬で片付く」
「その通り。小さい王が根負けするのが先か。イタリアが水没するのが先か。じっくりと見届けるとしようぞ」
十二人の老人達は、悪意に満ちた笑みを浮かべ合った。
◆◇◆◇◆
長く続いた大雨のために、ローマの町は三割以上が水没・浸水の被害を受けて、都市機能は麻痺しつつあった。
「イタリア中の神殿に晴れ乞いの祈祷を行うよう命令を発しました」
マエケナスの報告を受けたタルキウスは溜息を吐く。
「はぁ~。とうとう万策尽きて神頼みか」
「……私としても不本意ではありますが、事が天災ですから止むを得ますまい」
マエケナスもタルキウスと同じで信仰心とは無縁の人間だった。
しかし、タルキウスと違うのは神々への信仰が民衆に与える影響力は政治上でも利用できる、という点だ。
神頼みを全面的に嫌うタルキウスに対して、マエケナスは民心を安定させる手段の一つとして神頼みを評価している。
「分かった。祈祷の手配は全てマエケナス法務官に委ねる」
この事はマエケナスに委ねた方が良さそうだと判断したタルキウスは、その一切をマエケナスに丸投げした。
「承知しました。では私はこれにて失礼します」
これは後の話になるが、この時に各神殿に祈祷のために納めた奉納品は全て国庫から賄われたわけだが、そのために捻出された費用の内、ほんの数パーセントをマエケナスが自身の懐に仕舞い込んでいた事は誰にも知られる事はなかった。
◆◇◆◇◆
マエケナスが退出してから、しばらく時間が経過した頃。
タルキウスの下を突然の客人が来訪した。ローマの天気神託を発表するユピテル・プルウィウス神殿の神官長テスペンタスである。
この異常気象に関して何か分かったのかと期待を胸にタルキウスは彼を琥珀の間へと通す。
ここは数ある謁見の間の中でも、私的な用途で用いられる事が多い部屋。装飾のほとんどに琥珀がふんだんに用いられている独創性に富んだ趣向の広間である。
一見、蜂蜜のような色合いにも見える琥珀が大量に使用されたこの広間は、つい甘い香りが鼻を撫でるような感覚を感じさせた。
タルキウスなどは食欲をそそられる部屋で、彼の密かなお気に入りの部屋でもあった。
琥珀の間に備え付けられた玉座に座るタルキウス。そしてその横には警士のフェルディアスが控えている。
「黄金王、突然の訪問にも関わらず、謁見のお許しを頂き感謝に堪えません」
「前置きは良い。今は非常事態だ。用件のみを申せ」
タルキウスの前で跪く白髪の老人は、彼の苛立ちを含んだ声に恐れおののく。
彼にとってタルキウスは単なる国王ではない。自身が祀る天空神ユピテルの末裔であり、信仰対象の化身と言っても良い存在だったのだ。
「は、はい。……この度の異常気象ですが、その原因に関する事で、陛下の祖神にして我等が崇め奉る天空神ユピテルよりの神託が下りました」
「ほお。では、聞かせてもらおうか」
ユピテル・プルウィウス神殿の天気神託というのは、文字通りの神託というわけではない。
勿論、神託を得るための儀式も執り行うが、それ以外にも大気の状況や雲の流れなどを観測して、それ等の情報から導き出した予測も交えて今後の天気を調べているのだ。
そのため信仰心など皆無のタルキウスでもユピテル・プルウィウス神殿の天気神託はそれなり信頼していた。
「御意。此度の異常気象は、海神ネプトゥヌスの逆鱗に触れたためと思われます」
「海神ネプトゥヌスだと?」
タルキウスとフェルディアスはお互いに顔を見合って、必死に笑いを堪え合う。
それは天空神ユピテルの実兄であり、この世界の海を司る神だ。
乱暴で怒りっぽい性格の神として知られ、逆鱗に触れると大嵐や大地震を起こして、海だけでなく大陸まで蹂躙してしまうと言われる。
「陛下、カプリ島の人魚族との盟約をご存知ですか?」
「当然だ。エルトリアは島に手を出さない代わりに、人魚族は島にある神殿の管理を請け負うというアレだろう。で、まさか人魚族がその盟約に背いて、神殿の管理を怠ったとでも?」
タルキウスはさも当たり前のように話すが、元々エルトリアの出身ではないフェルディアスは「へぇ」と小さく声を漏らす。
カプリ島は形式的にはエルトリアの支配下にあるが、盟約の存在もあって交流はほとんど無い。そのためエルトリア人でもないフェルディアスが知らないのも当然である。
「具体的な原因は不明ですが、少なくともカプリ島に何かがあったと我々は考えております」
「……カプリ島と連絡を取る事は可能か?」
テスペンタスの言葉を信じているわけではないが、何もしないでいるよりは良いだろうとタルキウスは考えた。
「いえ。カプリ島には伝書鳩を扱う設備はありませんので。それに海は大荒れで船は出せません」
「それもそうだな。……カプリ島の事はひとまず考えておく。お前達は引き続き調査を進めよ」
「承知しました、陛下」
テスペンタスは一礼すると広間を退出した。
「フェル、どう思う?」
琥珀の間に二人っきりとなり、タルキウスは不意にフェルディアスに問いを投げてみた。
「え? ぼ、僕に聞かないでよ。僕はタルキウスみたいに物知りでも頭が良いわけでも無いんだからね」
それは謙遜でも嫌味でもない。
スパルタでは常に戦闘訓練のみの日々を過ごし、それからは奴隷として生きてきたフェルディアスは知識や学問とは無縁の存在なのだ。
戦う以外の事を求められても困る。それがフェルディアスの本音だった。
しかし、少しでも友人の力になりたいと思うフェルディアスは、頭をフル回転させて言葉を絞り出す。
「や、やっぱり、見てみないと分からない事もあるし。一度、そのカプリ島に行ってみた方が良いんじゃないかな」
自信無さげな発言ではあったが、それはタルキウスの溢れんばかりの行動力を後押しする大きな一歩となった。
「やっぱりフェルもそう思うよな! ありがとう! おかげで決心が着いたよ!」
「え? う、うん。少しでも役に立てたなら嬉しいよ」
僕はとんでもない事を口走ってしまったのではないか。そんな不安がフェルディアスの脳裏を過るが、今更後悔しても遅い。
一度決断したタルキウスを止める事はリウィアにも至難の業。それをフェルディアスがどうこうできるはずもない。




