魔女の災厄
丸一日、ゆっくりと休んだタルキウスはしっかり元気になり、次の日にはいつも通りの暮らしに戻っていた。
前日の反省など微塵も見せず、全て元通りである。
「こら! タルキウス様、オスティアからの支出報告書に目を通されたら休憩を取るというお約束でしたでしょう!」
眉毛を吊り上げたリウィアの怒声が、国王執務室の中に響き渡る。
「あ、いや、その、あれ? お、おかしいなぁ。……支出報告書を、見て、見てるつもりだったんだけどな」
デスクに腰掛けているタルキウスは、ビクビク怯えながら、よく分からない言い訳を繰り出す。
怒った時のリウィアは、タルキウスがこの世の何よりも怖いものだったのだ。
「はいはい。分かりましたから。今すぐ休憩に入って下さい」
タルキウスの言い訳を軽く聞き流したリウィアは、タルキウスが目を通していた書類とデスクに広げていた書類を全て問答無用で没収した。
仕事道具を全て奪われたタルキウスは、諦めて休憩に入る事を決めた。
椅子の背凭れに体重を預けて、両腕を上にグ~と伸ばす。
その時、国王執務室の窓がガタガタガタッと音を立てる。窓の外はものすごい大雨と強風で、窓に突風が打ち付けたのだ。
「外はすごい雨だね」
「そうですね。私が朝起きた時には、もうドシャ降りになっていました。ユピテル・プルウィウス神殿からの発表でもこの一週間は晴れという神託だったのですが」
ユピテル・プルウィウス神殿。
それはエルトリアの政治・経済の中心地であるフォルム・ロマヌムの一角に立つ神殿の一つである。
ここはエルトリウス王家の祖神にして、天候を司る天空神ユピテルの神託によって今後の天気を予言する神殿。
かつては雨乞いを行うために建てられた神殿であったが、今では週に一度、ユピテルの神託を受けた神官が今後一週間のローマの天気を発表する“天気神託”を実施しており、ローマ市民の生活には欠かせない存在となっている。
「まあ。神の神託なんて当てにならないって事だねぇ」
「ふふ。タルキウス様ったら。御先祖様に向かってそんな罰当たりな」
タルキウスは神々の王ユピテルの末裔という神々の末裔の中でも最高峰の血筋にあるにも関わらず、神々の恩恵にはほぼ無関心で、信仰心などは一切持っていなかった。
「それにしても……」
おもむろに椅子から立ち上がり、タルキウスは窓の前に立って外を見る。
「どうかされましたか?」
「いや。何だか妙な気配を感じたから。ちょっと気になっちゃって」
この時はタルキウスも事態をさほど重く見てはいなかった。
しかし、この時点ではまだ気付いていなかったのだ。タルキウスの知らないところで大きな力がローマに、そしてイタリア中に降りかかりつつあった事に。
◆◇◆◇◆
二日後。
大雨と強風を伴う嵐の日が続いて三日目を迎えても、その勢いは衰える事が無かった。
これほどの嵐が続けば、各地で問題が発生するのは必然。
タルキウスの下には、各地からこの嵐による被害報告が届く。
集まった報告書は、リウィアが簡潔な文章に纏めてタルキウスに報告する。
「ティベリス川が氾濫し、ローマ市内に浸水被害が出ております。ティベリウス島に続く橋も崩落して、島には多くの住民が取り残されているとの事です」
「オスティアの港が水に浸かって貿易船が津波に流される被害が発生しています」
「カプアの町では土砂崩れが発生。確認できただけでも市民の住宅が百三十が呑み込まれました」
「ポンペイの町は洪水で街道が使用不能になり、外部との行き来ができなくなり孤立状態となりました」
「シチリアの穀倉地帯では嵐で穀物が流されるなどして、既に農作物に壊滅的な被害が出ています」
一通りの報告を聞き終えたタルキウスは、分かりやすく頭を抱える。
この報告は伝書鳩が運んできたものがほとんどなのだが、これほどの嵐の中ではローマまで辿り着けなかった伝書鳩も幾羽かはいるだろう。
となると、今リウィアが告げた報告は氷山の一角と捉えた方が良い。
そう考えたタルキウスはエルトリアが被る損害、そして何より巻き込まれて命を落とした民の事が案じられてならなかった。
「ひとまず今は、各市の対応は各市の市長に任せるしかない。俺達はローマの対応に専念しよう」
タルキウスとしてはそう言うしかなかった。
現場の大雑把な状況しか分からないタルキウスが、イタリア中の各都市の災害対応の指揮が取れるはずもない。
そもそも連絡手段すら万全な状態ではないというのに。
タルキウスにできるのは嵐が落ち着いてからも復興支援くらいだろう。
しかし、黄金王のお膝元ローマであれば多少事情は異なってくる。
被害状況の報告はほぼリアルタイムで入るローマならば、タルキウスにも手の打ちようが少しはあった。
「リウィア、これからちょっと出かけてくる。ウォレヌスに親衛隊を引き連れてティベリス川へ来るよう伝えておいて」
「え? タルキウス様自ら動かれるのですか?」
「その方が手っ取り早いでしょ。フェルも一緒に連れて行くから危険は無いよ」
そう言うとタルキウスは早々と国王執務室を後にする。
そんなタルキウスの背中を見送ったリウィアは小さく溜息を吐いた。
「まったく。本当に落ち着きが無いんですから」
◆◇◆◇◆
同じ頃。
イタリア南部のティレニア海に浮かぶカプリ島。
港湾都市ネアポリスから南に三十メートルほど南に下った海に位置するこの島は、“人魚族”が住み、海神ネプトゥヌスを祀る神殿がある聖域だった。
人魚族は海神ネプトゥヌスの血を引く神々の末裔の家系で、下半身を魚の尾に変化させて魚のように海を泳ぐ事ができる一族固有の変身魔法を扱える。
この島にある神殿に異変があった時、海神ネプトゥヌスは激怒して大嵐をもたらすという伝説があった。
そこでエルトリアは、人魚族と盟約を結んだ。
人魚族にカプリ島の自治権を認め、エルトリアはカプリ島及びその周辺海域に干渉しない代わりに人魚族は神殿を常に守り続けるという内容の盟約を。
しかし、イタリア各地の都市と同じく暴風雨に襲われるこの島のあちこちには傷付いて血を流し、意識を失っている人魚族の戦士達が倒れている。
そして崖となっている海岸に座り込み、暴風雨に身体を晒しているピンク色の髪をした少女の姿があった。
幾つものベルトで身体の自由を封じる拘束衣に身を包む彼女は、真っ赤な瞳で分厚い雨雲を見上げながら、楽しそうな笑みを浮かべて口を開く。
「ふふふ。海の神のおじさんは相変わらず怒りっぽいのね~。こんなちんけな島にある古びた神殿を弄られただけでここまでするなんて」
「こ、この小娘。何という恐れ多い事をッ!」
傷だらけの身体を引きずりながら人魚族の老人が現れた。
首を後ろへ向けてその老人の姿を、その宝石のような真っ赤な瞳で捉えた少女は少し驚いた表情を浮かべる。
「あら。まだ動けたの? 殺さないように手心を加えてあげたとは言っても、ちょっと意外だわ」
「お前は、一体何者だ? 何が目的だ?」
老人の問いに、少女はまず不気味な笑みを返すのみだった。
そして少女の身体はふわりと風船のように宙に浮かんだ。
次の瞬間、少女が座っていた地に純白の魔法陣が出現し、そこから毒々しい模様をした赤い大蛇が姿を現す。
大蛇は自身の身体をくねらせて、まるで椅子のような形を作り出し、少女はそこに座った。
「ふふふ。あなたの健闘を称えて答えてあげる。私の名はパンドラ。人類に災厄をもたらすためにこの世界に帰ってきたのよ」




