パンドラの吐息に当てられる
黄金王タルキウスの訪問を受けた日の夜。
ユピテル・ラティアリス神殿の広間には十二人の長老貴族が集まっている。
広間で円を描くように建てられた十三の柱の内、十二本の柱の上に座る白い衣を纏った老人達。
彼等の視線は、柱が描く円の中心部に当たる床へと集中している。
そこには今は、複雑な紋様の魔法陣が描かれており、青白い光を発していた。
十二人の長老貴族達が口を揃えて何かの呪文を詠唱する。
その度に床の魔法陣が発する光はより眩しくなり、灯り一つ無い広間を充分に照らした。
やがてそれは、広間の全てを包み込むほどの強烈な光となる。
光が治まった時。
魔法陣の上にはそれまでそこには無かったはずの何かがあった。
全身を白い拘束衣で縛られた少女が横たわっているのだ。
真っ白な首元から足首までを覆う真っ白な服。その上から幾つもの黒いベルトで全身を縛られて身体の自由を奪われている。
両手は胸の下辺りで交差し、袖は背中の方に回されていた。
両足はピタッと閉じた状態で三本のベルトでしっかりと縛られ、足首には鋼鉄の枷が嵌められている。
俯せに倒れているため、容姿はよく分からないが、背丈からして年頃は十歳前後とタルキウスと同じくらいであろう。
髪はピンク色で足元まで真っ直ぐ伸びていた。
その少女を見て、十二人の長老貴族達は歓喜の声を上げる。
「おお。召喚魔法、成功じゃ」
「ついに呼び出す事ができたぞ、最古の魔女を」
「これでようやくあの小さい王を懲らしめてやる事ができるわ」
老人達が悪意に満ちた笑みを浮かべて、不気味な笑い声を上げる。
そんな中、拘束衣の少女は目を覚ます。
少女が上半身を起こそうとすると、縛られている両手に代わってピンク色の綺麗な髪が二つに枝分かれしてまるで腕のように上半身を起こす。
少女は寝起きの眠たそうな目で周囲を見渡し、自身を見下ろす十二人の長老貴族達に目をやった。
それに対して長老貴族の一人が口を開く。
「神々が作りし最古の女性。人類最古の魔女パンドラ様。何卒その御力でお恵みを」
自身に首を垂れながら懇願する彼等を見て、パンドラと呼ばれた少女は薄っすらと笑みを浮かべる。
「良いわ。災厄を贈ってあげる」
◆◇◆◇◆
「へっぷし!」
タルキウスが可愛らしいくしゃみをした。
顔を赤くして辛そうな表情をしている彼は今、風邪を引いて国王寝室のベッドで横になっている。
「もう。大丈夫ですか?」
そう言いながら、リウィアはハンカチをタルキウスの鼻に当てて鼻水を吹く。
「んん。リウィア、腹減った~」
気怠そうにするタルキウスは、まるで呻き声のような声で言う。
「もう、こんな時でもお腹だけは元気なんですね。食欲があるのは良い事ですが、胃に優しいものだけですよ。野菜スープを用意しますから」
「えー。俺、もう元気になったよ」
「へえ。そうなんですか。ではちょっと失礼します」
そう言ってリウィアはタルキウスに顔を近付け、自分の額とタルキウスの額をピタリとくっ付ける。
「……」
大好きなリウィアの顔が近付き、お互いの肌が触れ合う。その感覚を感じると、そしてお互いの息が相手の頬に掛かるのを感じると、タルキウスは顔をより真っ赤にして体温が一気に上がった。
「んん。やっぱり治っていませんね。今日は一日、ゆっくり寝ていて下さいね」
「で、でも、それじゃあ仕事が、」
国王の仕事は、タルキウスの体調に関係なく増えていく。いくら風邪を引いたと言っても、休むわけにはいかない。
責任感の強いタルキウスはそう考えるが、それを見越してリウィアは既に手を打っている。
「お仕事はもうマエケナスさんに代行を頼んでありますよ。ちゃんと、陛下は急用でローマを離れる事になったからと伝えてあるので、風邪で寝込んでいる事も悟られません」
「いいや。マエケナスだったら、俺が宮殿を出入りした形跡が無いとか言って、すぐに嘘だって気付くと思うぞ」
「とにかく!今日は絶対に安静にして下さいね!!」
強めの口調で言うリウィア。
その迫力には思わずタルキウスも圧倒されてしまう。
「う、うん。分かったよ。……それにしても、俺ってこんなに身体弱かったんだなぁ」
急に気弱な事を言い出すタルキウス。
しかしその発言に、リウィアは失礼とは思いつつもクスリと笑ってしまう。
「大雪の中でもほぼ素っ裸で激しい修練を積んでいるタルキウス様が言っても、まったく説得力がありませんよ。今回のタルキウス様の風邪の原因はシンプルです。働き過ぎによる過労です」
「は、働き過ぎって、そんな事ないと思うけど」
「そんな事あります!」
「うぅ」
咄嗟に顔の半分を毛布の中へと引っ込める。その姿はまるで猛獣に怯える小動物のようである。もはや黄金王の威厳は微塵も感じられない。
しかし、このままでは退けないと思ったのか、タルキウスは毛布から顔を出す。
「お、俺は、パンドラの吐息に当てられちゃったんだよ!」
“パンドラの吐息に当てられる”
それは、神々が傲慢になった人類を懲らしめようと、様々な災厄をもたらすために生み出した人類初の女性パンドラの神話に肖って生まれた諺である。
元々は数百年前にエルトリアで疫病が大流行した際に、当時のローマの学者が作った事で、時代が下るとともに風邪を引いた際に使う俗語として用いられる言葉だった。
「そんなお言葉。よく知っていますね。久しぶりに聞きました」
数十年前に仮病の口実として、この言葉が悪用されるようになった時期があり、その頃を境にこの言葉は一気に廃れて現代ではほぼ死語となりつつあった。
リウィアも幼い頃に風邪を引いた際に両親から「パンドラの吐息に当てられちゃったのね」と言われたのを最後に今日まで聞いた記憶が無かったほどだ。
そんな使い古された言い訳を言うタルキウスに呆れる一方、リウィアの脳裏には物知りなタルキウスを褒めてあげたい気がしてしまう。
しかし、ここで甘やかしてはタルキウスのためにならないとその気持ちをグッと堪えた。
「それはそれとして。お腹が空いたんでしたね。では、何か持ってきますから、少し待っていて下さい」
「あ! 待ってリウィア!」
タルキウスの傍から離れようとしたリウィアを、タルキウスは咄嗟に毛布の中から腕を伸ばして彼女の腕を掴む。
「ど、どうされたんですか?」
「その、やっぱり、傍にいてほしいな」
甘えん坊なのはいつもの事だが、風邪のためかいつもと違って弱々しく、心細そうであった。
リウィアはそんなタルキウスを安心させようとするかのように明るい笑みを浮かべる。
「ふふ。はい、分かりました。その代わり、今日は一日安静にして下さいよ」
「うん!」
タルキウスは嬉しそうに返事をする。
そんな彼の顔を見るとリウィアも嬉しそうに、タルキウスの手を優しく握り、ベッドの横の椅子に座る。
「タルキウス様、これからはもっと健康に気を付けた生活を心掛けて下さいね」
「ん~。別に平気だと思ったんだけどな~」
「タルキウス様の見立ては甘過ぎるんです。タルキウス様は確かにお強いですが、だからと言って限界が無いというわけではないんですからね。これからは私がもっとしっかりして、タルキウス様の健康管理を万全にしていきますから」
「え? だ、大丈夫だよ! 自分の面倒くらい自分でみれるって!」
「朝一人で起きる事もできないお人が何を言ってるんですか。これまではタルキウス様のご意思を尊重してきましたが、こうなった以上はもう仕方ありません。これからは、お仕事も修練も時間を削って、休息の時間を増やさせてもらいますので」
「そ、それは困るよ!」
「問答無用です!良いですね!」
「うぅ、はいぃ」
渋々承諾するタルキウス。
彼はリウィアに強く出られると、頭が一切上がらなくなるのだ。
リウィア自身は国王としての重責をこなすタルキウスの身を心から案じている。だからこそ、日々頑張る彼の望みは極力敵えて叶えてあげたいし、彼の意思は極力尊重したいと思っていた。
それ故にもしタルキウスが更に異議を唱えれば、リウィアは自分の主張を曲げてしまうかもしれない。
しかし、この状況でタルキウスがリウィアに抗議をする事はほとんどない。
タルキウスもタルキウスで、普段は温厚なリウィアが自分の身を心配して心を鬼して言ってくれているという事をよく理解している。タルキウスはそんな彼女の思いと行為が嬉しくて仕方がないのだ。
二人のこの微妙な力関係は、お互いがお互いを思っているからこそ成立しているものだった。
「さあ、タルキウス様、そろそろお休みになって下さい」
「う、うん。でもリウィア、朝からずっと寝てたんだから、もう流石に眠くないよ」
「眠くなくても寝て下さい。たまにはたっぷり休息を取る事も大事なんです」
「んん~。でも、眠くないんだよなぁ」
そう言いつつも、瞼を閉じて寝る準備をしっかりと整えるタルキウス。
タルキウスが目を閉じて静かになってから、数分も経たない内に規則正しい寝息を立て出した。
そんな彼を見て、リウィアは思わず笑ってしまう。
「タルキウス様ったら、さっきまでは眠くないって仰ってたのに。やっぱり疲れが溜まってるんですね。今日はゆっくりお休み下さい」
右手は今もタルキウスの手を握り、リウィアは空いている左手でタルキウスの頭を優しい手つきで撫でる。




