最高命令権
─元老院議事堂─
タルキウスの国王権限によって元老院が緊急招集された。
元老院を蔑ろにしているタルキウスが、国王権限の一つである元老院への召集命令権を行使する事は稀であり、仮に行使されても元老院議員の多くはせめてもの腹いせに欠席・遅刻をする者が大勢いた。
しかし、今日は違う。
元老院議員六百名全員が議事堂に集結している。
これも奴隷反乱を彼等が如何に重く見ているかの現れである。
クイントス・ボルキウス・カトー。元老院にて最初に発言をする権利を持つ元老院主席の彼が、年老いた身体を杖で支えながら、議員達の前に立つ。
「これより元老院を開会する。今日の議題は、以前にキケロ議員より提案のあった、《レクス》の称号に関する提案への再審議である。では、キケロ議員、説明を」
カトーに促され、議員席に座っているキケロが立ち上がる。
議員一同の視線は、キケロへと向けられた。
「皆様ご承知の通り、カプアで起きた奴隷反乱により、栄えあるエルトリアの法務官が二名も殺害されるという前代未聞の時代が起きております。この事態に我々は早急に対処する必要があります。現在、このエルトリアの国王であるタルキウス陛下は、《レクス》の称号を有しておらず、正式な国王ではありません。それ故にイタリア本土における軍団の編成命令権が行使できず難儀しております。今、我々が行うべきは速やかにタルキウス陛下を正式な王として承認し、《レクス》の称号を贈る事です。よって私はここに再度、タルキウス陛下に《レクス》の称号を元老院の名において贈る事をここに提案致します」
弁舌を終えたキケロは着席を以って、発言の終わりを示した。
「何を馬鹿な。これまで散々好き放題やっておいて、今更、王として認めよなどと」
「まったくです。いつもながら我儘な子供よ」
「そもそも軍団などなくとも、反乱奴隷如きたとえ何千何万いようと、小さい王一人で簡単に始末できるだろうに。人の足元を見おって」
議員達は、キケロの提案に不満の声を上げた。
これはキケロが予想した通りの反応だったが、ある議員の発言が元老院の空気を一変させる。
「もし、この提案を拒否したら、反乱鎮圧はどうするのだ!?」
気弱そうな議員が、不安そうな声で問う。
彼の問いにキケロが答える。
「奴隷軍に対抗できる軍団の用意ができない以上、陛下はローマの守りに徹するとの仰せです」
「何と! 他の地は奴隷軍に蹂躙されるのを良しとするのか!?」
「私もその点を陛下に問いましたが、軍団を組織しての討伐できない以上、下手に動いてローマをがら空きにするわけにはいかないと」
「で、では、カンパニアにある私の農園はどうなる!?」
「儂の領地もだ! 大金を掛けて実りある土地にしてきたのに、それを奴隷軍に明け渡すと言うのか!」
いよいよ自分の持つ領地の安全が危うくなったと感じた議員達は、席を立ち上がってキケロを攻め立てる。
それに対してキケロは物怖じせずに自らも席を立つ。
「であれば! 我等が取るべき道は一つでしょう!」
「「……」」
キケロの一喝に、議員達は黙り込む。
その様子を見た元老院主席カトーは、杖で床を三度突いた。
それに気付いた議員達は着席して、議場は静けさが包み込む。
「では採決を取る。タルキウス陛下に《レクス》の称号を贈る事に賛成の者の起立を求める」
カトーの言葉を受けて、真っ先に立ち上がったのはキケロだった。彼の姿を見て、彼の支持者である議員も立ち上がる。
次第に自分の領地を奴隷軍に蹂躙される事を恐れた議員達も自らの財産を守るためには致し方ないと覚悟を決めて席を立った。
しかし、それでも人数は六百名中二百三十名と、未だ過半数には届かない。
このまま今回も否決で終わるかと思われたその時、新たに一人の議員が席を立った。
その議員の起立を見て、他の議員達は驚きのあまり目を見開く。
彼の名は、プブリウス・クラウディウス・インレギレンシス。
キケロやカトーのように老齢の議員で、エルトリアの名門中の名門貴族クラウディウス氏族の当主だ。
数多くの政治家と将軍を輩出してきたクラウディウス氏族の当主である彼のエルトリアのおける影響力は強く議員達も一目置く存在だった。
元老院議員にもクラウディウス氏族の者は十人以上存在し、政界に張り巡らされたクラウディウス氏族の力が窺える。
彼はタルキウスの事を露骨に毛嫌いしている様子もなかったが、決して好意的というわけではなかった。
そんな彼がタルキウスを支持する姿勢を見せた事が議員達には意外に思えてならなかった。
「この反乱で殺害されたグラベル法務官は、我がクラウディウス氏族の一門だ。あやつは分家の者だった故、私とそれほど面識があるわけではないが、それでも奴隷如きに我がクラウディウス氏族の者が討たれた事を黙って見過ごすわけにはいかん。奴隷どもに己の犯した愚かな罪を償わせられるのなら、私はこの提案を是としよう」
インレギレンシスがそう言うと、彼と同じクラウディウス氏族の者達も彼に従って席を立ち上がった。
そしてインレギレンシスの庇護を受けている議員達も次々と立ち上がり、やがてこれまで意地を張って頑なに着席したままでいた議員達もこの流れに乗って起立し始める。
最終的には五四七名の議員が起立。タルキウスに《レクス》の称号を贈る事が、賛成多数で可決された。
これによりタルキウスは、以後の名を「タルキウス・レクス・エルトリウス」と名乗る事となった。
◆◇◆◇◆
─黄金大宮殿・国王執務室─
ローマに戻って早々、書類の山に囲まれていつも通りの激務をこなしていたタルキウスは、その最中に元老院での一件を耳にする。
「おめでとうございます、タルキウス様!」
リウィアは屈託のない笑みで祝いの言葉を述べる。
「ありがとう、リウィア」
彼女に祝ってもらえたこと自体は嬉しく思うタルキウスだが、正直なところ彼は《レクス》の称号に大した興味は無かった。
その気になれば、元老院が自分を正式な王と認めなくても国王権限を行使するつもりでいたからだ。現にこれまでもそうしてきた。
「それで、これからどうなさるおつもりですか?」
「まずは軍団を組織するよ。イタリアの各地に分散配置している第一軍団を招集してね」
エルトリア軍の軍団は、基本的に約五百人で構成される歩兵大隊十個で構成される。
イタリア本土に常駐している第一軍団は、この歩兵大隊毎に分かれて、イタリア各地に分散配置されていた。
タルキウスがローマに軍団を招集するのなら、この第一軍団がもっと迅速に集まる事ができるだろう。
「後は指揮官を誰にするかだよな」
「タルキウス様が指揮を執られるのではないのですか?」
「俺もそうしたいんだけど、今はローマを離れるわけにはいかないしね。指揮官を誰にしようかな?」
タルキウス自身、レティシアやパルタティアにせめて自分の手で引導を渡したいという気持ちはあった。
しかし今、ローマを空けるわけにもいかず、軍団の指揮は誰か別の者に取らせる必要がある。
イタリア本土で軍団を組織できるのは、国王のみ。
そしてイタリア本土で軍団を指揮できるのは国王本人もしくは国王より最高命令権を授与された将軍のみという法律だ。
最高命令権を授与された将軍は、俗に最高司令官と呼ばれ、国王が複数の軍団を率いる指揮権、派遣された属州における軍事指揮権、他にも外交交渉や戦後処理などの諸権限も掌握しており、文字通り国王の全権代理人と言っても過言ではない。
それだけにその授与にはタルキウスも慎重を期す必要がある。
「指揮官として頼りになりそうなのは全員、国境線沿いに出払ってるからなぁ」
「そういえば、既に最高司令官であられるポンペイウス将軍が、間もなく東方遠征から帰還なさるとか。あの方にお任せになってはどうですか?」
リウィアははっきり言って政治や軍事には明るくない。
その事は自身も充分に弁えており、その手の事には極力口出しをしないように心掛けてきた。
その点はタルキウスも理解しているが、会話を交わす事で考えが整理されてより良い方策が見つかるという事もあるだろう。
そのため、タルキウスは時に良き助言者ではなく、単に話し相手としてリウィアに政治や軍事の相談を持ち掛ける事もあった。
「ん~。ポンペイウスか。いや。それはダメだね。あいつが戻って来るまでの日数を考えると流石に遅過ぎる。それに、あいつは将軍としてはずば抜けて優秀だけど、性格が悪いからなぁ。あまりイタリアで活躍されて元老院との関係を深められたら後々面倒になりそうだ」
タルキウスの話を聞いたリウィアはクスッと笑う。
「ん? どうしたの?」
「いえ。あらゆる所までお考えを伸ばされておられるタルキウス様は、やはりすごいなと思いまして」
「べ、別にこのくらい大した事ないよ!」
そうは言うが、その表情は心底嬉しそうであった。
それからしばらくして、タルキウスの下に一通の書簡が届けられた。それはエルトリア最大の資産家クラッススより送られたものだった。
その内容を一読したタルキウスは静かに一笑する。
「あのクラッススが、ローマ市民全員に食事を振舞うそうだ。この反乱が治まるまで」
「し、市民全員をですか?」
リウィアは驚かずにはいられない。ローマは人口百万人を誇る世界都市。その百万人をたった一人で養うとなれば、どれだけの資産が必要になるのか想像もつかない。
「ああ。恐怖に怯える市民の少しでも支えになればってさ。ただ、最後に、自分も破産したくはないから、反乱鎮圧には最も能力のある人物を当ててほしい。必要とあらば自分が組織した兵団も動員するってよ」
「そ、それは、もしかして、」
「たぶん。クラッススは自分に最高命令権を与えろと言いたいんだろうね。百万人の食費を保障して彼等の支持を集める事で、彼等を後ろ盾にする。エルトリア最大の資産家だからできる荒業だな」
「ですが、いくら何でもそこまでしてやる事でしょうか?」
「クラッススはそう思ったのさ。この戦いは元老院も大きく注目してるからな。最高司令官として反乱を鎮圧したら凱旋式を敢行して地位と名声を一気に手に入れる算段なんだろう」
「なるほど。では、どうなさいますか?」
「……ちょっと癪だけど、ここまでされたら仕方がない。クラッススに最高命令権を与えてやるか」
こうして、クラッススに最高命令権が授与され、彼が奴隷軍鎮圧の最高司令官になる事が決まった。




