王の称号
王都ローマへと帰還したタルキウスは、黄金大宮殿にて元老院議員達の熱烈な歓迎を受けた。
「陛下、よくぞご無事で」
「カプアで反乱が起きたと聞いた時には肝を冷やしましたぞ」
老齢の議員達は、我先にと祖父と孫並みに歳の離れているタルキウスに迫っては媚びへつらう。
しかし、その言葉には感情がまったく籠っていない。タルキウスの身を本心で案じていないのは誰の目にも明らかだった。
「議員方、陛下に対して無礼ですよ。下がって下さい」
そう言って金髪碧眼の少年フェルディアスだが、まるで押し寄せる議員から守る壁となるかのようにタルキウスの前に立つ。
フェルディアスは今、白いトゥニカの上に紫色のマントを纏い、右手には数十本の木の棒に斧を皮の紐で束ねた束桿という物を手にしている。
その首には鎖を少し垂らした分厚い鋼鉄の首輪が嵌められ、両足は鉄枷で繋がれていた。どちらもエルトリア国王保有奴隷の証である。
彼はタルキウスの奴隷であると同時に警士という地位に就いていた。警士とはエルトリアにおいて要人の警護をする者で奴隷か解放奴隷が就任する事が慣例になっていた。
世界最強の戦闘民族スパルタ出身の戦士であるフェルディアスほど頼りになる護衛役もそうはいないだろう。
フェルディアスがタルキウスの前に立った事で、元老院議員達はタルキウスから一歩離れて道を開ける。
まだ幼く優しそうな容姿のフェルディアスだが、戦士としての風格と覇気は奴隷となった今だ健在だった。
フェルディアスが開けた道を通ってタルキウスは宮殿の中へ入っていく。
しかしその間にも、一定の感覚を開けながら元老院議員達がタルキウスの周りを取り囲んでいる。
「陛下、カプアで起きた反乱でグラベル法務官だけでなく、ウァリニウス法務官も殺害しました! 一体どうなされるおつもりですか!?」
カプアにてタルキウスにローマ帰還を促し、反乱奴隷鎮圧の功績を独り占めしようと目論んでいたウァリニウス法務官は、タルキウスがカプアを発った直後に奴隷軍の奇策に敗れて戦死していた。
その知らせを帰還の途上で聞いたタルキウスは終始無関心を貫き、今も議員の言葉に対してタルキウスが反応を示す事は無かった。
一方で、二人の法務官の戦死は、元老院に大きな衝撃をもたらした。
イタリア本土には貴族達の私領があちこちに点在しており、元老院議員の多くは自身の領地が奴隷軍の襲撃を受けてしまうのではないか、そして自分達の領地で働く奴隷が反乱軍に加わるのではないか、という不安と恐怖心も合わさり、事態の収束を強くタルキウスに求めるようになっていたのだ。
「その件は後で発表する。しばらく待て」
そう言ってタルキウスは元老院議員達を半ば強引に振り払い、宮殿の奥へと姿を消した。
周りにリウィアとフェルディアスしかいない事を確認すると、タルキウスは大きく溜息を吐く。
「はぁ~。まったくあいつ等、都合の良い時だけ陛下陛下って持ち上げやがって」
フェルディアスもやや呆れ気味に笑いながら同意する。
「本当にね。いつもは陛下の事を小馬鹿にしたりしているのに」
「フェル、周りにリウィアしかいない時は陛下と呼ばないでくれって言ってるだろ」
「え? あぁ、うん。そうだね。うっかりしてたよ、タルキウス」
フェルディアスに名前で呼ばれたタルキウスはニコッと嬉しそうに笑った。
国王となったタルキウスは、周囲から「陛下」「タルキウス王」と呼ばれており、親しみを込めて自分の名前を呼んでくれる者がいない事を内心で寂しく思っていた。
リウィアはタルキウスに至上の愛情を注いでいるが、それでも聖女という立場を考えてか、呼び方は様付けになっている。
タルキウスは何度か呼び捨てにして敬語も無しで良いと言った事もあったのだが、リウィア本人が元々謙虚な性格という事もあり、この方がしっくり来るからこのままにしてほしい、と返されたために、今の状態のままでいた。
一方、フェルディアスもタルキウスが自分を友人として扱ってくれる事には感謝しているし、その友情には最大限答えたいと思っている。しかし、自分はあくまで奴隷であり、タルキウスは主人。
生真面目な彼はその一線を忘れないように常に心掛けている。奴隷を解放するためには、主人の一存だけではなく、多額の費用と幾つかの条件を満たし、手順を踏む必要がある。
それをこなそうとすると、数年もの時間が掛かるのだが、タルキウスはかつて国王の権限でそれ等を踏み倒してフェルディアスを奴隷から解放すると提案した事があったのだが、フェルディアスは「ズルは良くない」と言ってこれを拒否していた。
しばらく廊下を歩いていると、前から法務官ルキウス・クイニス・マエケナスと元老院議員マルクス・トルリウス・キケロの二人が姿を現した。
「お帰りなさいませ、陛下。ご無事なご尊顔を拝見でき安堵致しました」
小柄で細見の老人キケロがそう言って頭を下げる。彼の言葉には、先ほどの議員達と違って感情が籠っていた。
一方、マエケナスはこの非常事態をまるで楽しんでいるかのように妙な笑みを浮かべている。
「陛下、ご帰還して早々ではありますが、一つご提案致したい事が御座います。きっと陛下のお気に召すものと思うのですが」
「これマエケナス。陛下はローマへ戻られたばかりなのだぞ。少しお休みになられた後でも良かろう。……陛下、ひとまずは休息をお取り下さいませ」
反乱勃発から今までずっと慌ただしくしており、気の休まる時がなかった。相当の疲労が溜まっているはずだが、タルキウスはそんな様子は微塵も見せない。
「構わん。マエケナス、話せ」
「御意。まず反乱奴隷鎮圧の件ですが、一つ大きな問題が御座いますのはお分かりでしょうか?」
まるでタルキウスを試すような物言いをするマエケナス。
他の者であれば、タルキウスの圧倒的な力に恐れおののいて決してこんな言動はできないだろう。
タルキウスは、マエケナスの行政官としての能力だけでなく、この物怖じしない度胸を高く評価しているのだ。
「軍団を招集するのに時間が掛かるという話だろう。だが、その心配は無用だ。奴隷軍が数万規模にまで膨れ上がったと言っても、しょせんは寄せ集め。そんな連中、余が一撃で屠ってくれる」
「いいえ。そうではありません。それに陛下はローマに腰を据えて方々に睨みを利かせて頂きたく思います。カルタゴやパルティアの動向も気になります故」
「ではお前の言う問題とは何だ?」
「イタリアで軍団を組織するには、国王陛下の勅命を要します」
「ああ。それで?」
「しかし元老院曰く、今このエルトリアには正式な国王がいないという事になりますな」
エルトリアの慣例として、国王には元老院から《レクス》の称号が贈られる事になっている。しかし、タルキウスを正式な王として認めていない元老院は、彼にこの称号を贈ろうとはしなかった。
エルトリアの民も諸外国も皆がタルキウスをエルトリア国王として事実上承認しているが、厳密に言えばタルキウスはエルトリア国王ではない。その屁理屈のような考え方が元老院の主張であり、彼等が半ば公然と国王批判を行う原動力になってもいた。
マエケナスの話を聞いて、リウィアとフェルディアスは彼の言いたい事が理解できずに首を傾げる。だが、タルキウスは彼の意図を察したのか、クスリと笑った。
「国王がいなければ軍団を組織できず、満を持して奴隷軍を迎え撃つ事ができない。そういう事だな?」
「仰せの通りです。ここは早急に、陛下を正式な王として元老院に承認させねば」
マエケナスの話を聞き、彼の隣にいたキケロの表情には動揺が走る。
「この反乱を利用して、元老院を揺するつもりか? 馬鹿な! 私はそんな事をするために陛下に《レクス》の称号を贈るよう元老院に働きかけたのではないぞ!」
キケロはタルキウスと元老院のパイプ役として尽力し、タルキウスの支配体制を強化するのに大きく貢献してきた。
そんな彼は、タルキウスと元老院の冷え切った関係を修復すべく尽力してもいた。その一つが《レクス》の称号である。
結局、元老院はこの称号を贈ろうとはせず、タルキウス本人も特に興味を示さなかったためにこの話はうやむやになってしまったが。
マエケナスは、そのキケロの提案を実現へと漕ぎ着ける方策を示した。
しかしそれは、キケロが望んだタルキウスと元老院への融和には繋がらないだろう。
相手の弱みに付け込んで称号をもぎ取った、と元老院はタルキウスを揶揄にするに違いない。
「いや。面白い。マエケナスの策に乗ろう」
タルキウスが悪戯っ子のような笑みを浮かべてそう宣言した。
しかし、彼は《レクス》の称号が欲しいのではなく、単に元老院を弄んで嘲笑ってやりたいという何とも子供染みた意地の悪さを見せただけだった。
「陛下! どうか、お戯れはお止し下さい。この非常事態に」
「まあそう言うな、キケロ。考えてもみろ。元老院はこの反乱の早期鎮圧を望んでいる。そのためには《レクス》の称号が余には必要になる。双方に実りある話だと思わんか?」
「……では、すぐにも元老院を招集してこの議を審議しましょう」




