姉妹の絆
闘技場での蜂起以後、カプアの市役所を襲撃したレティシアの一派は、市役所の職員を手当たり次第に殺し、市役所に保管されていた税収を強奪。
今後の活動資金を手に入れてカプアの市外へと脱出した。
そこから彼女達が向かったのは、カプアの町を南東に下った場所に位置するウェスウィウス山である。
この山の麓には、レティシアが事前に買い取っていた邸があり、ここでポンペイやネアポリスに向かった同胞と合流する手筈になっている。
ウェスウィウス山はポンペイとネアポリスにも近く、周りを深い森に囲まれて人通りも少ない。
合流地点として、一時的な潜伏場所として、これほど最適な地はないだろう。
邸は何年も放置された空き家だった事もあり、ほとんど手入れもされておらず、邸の奥にまで枯れ葉などが散乱し、邸のあちこちには山に住む鳥や小動物の巣が作られていた。
そんな邸の中庭にはレティシアと奴隷達のリーダー格が集まっている。
カプアやネアポリス、ポンペイを擁するカンパニア地方全域の地図を机に広げ、陽の光がよく入る中庭にて今後の事を協議しているのだ。
「カプアで私達に合流した奴隷は、剣闘士以外を含めても五千人はいるわ。ネアポリスとポンペイから味方は合流すれば、数は更に数倍になるはずよ」
「カンパニア中の奴隷が集まれば、人数は五万以上にはなるでしょう」
そう言うのは、褐色の肌に腰まで届く銀髪をした女奴隷アーティカだった。
かつてはシリア部族の姫であり、エルトリアに故郷と同胞を滅ぼされた過去を持つ。奴隷にされ、カプアの奴隷市場で売り出された彼女はレティシアに買われ、レティシアの反乱計画に賛同してその同志になったのだ。
「ええ。この戦力を上げて敵を蹴散らせば、各地で虐げられている奴隷達も決起して、数はもっと増える」
「そうですね。ところで、あなたの妹の事ですが、本当に良かったんですか?」
アーティカが妹パルタティアについて問うと、レティシアの表情が一気に険しくなる。
「その事は言わないでって前にも言ったはずよ。確かにあの子の実力を思えば、」
「そういう意味ではありません。妹に嘘をついた件です。パルタティアには、ネアポリスを襲撃して船を奪ってイタリアを脱出するように伝えたのでしょう。自分も後から必ず後を追うと言い聞かせて」
「……」
グラベルへの復讐と故郷への帰還という二つの目的があるとレティシアは、パルタティアに話していた。
今回の反乱もエルトリアを混乱状態に追い落とす事で帰還の隙を作る事が主目的で、反乱そのものを成功させる必要は無い。
レティシアとしては反乱が始まってしまえば、その時点で成功と言っても良かった。
しかし、それはパルタティアを納得させるための表向きの計画。レティシアはこの反乱で命尽きるまで戦う覚悟を決めていた。
「あの子が故郷で平穏に暮らしてくれるなら、後で恨まれても構わないわ。それに彼等をこんな無謀な反乱に巻き込んだ責任は取らないとね」
「あなたがそれで良いのでしたら、もう何も言いません」
「悪いわね。それよりも誰か。喉が渇いたから、お水を持ってきてちょうだい」
カプアで決起して以降はずっと慌ただしくしていたため、乾いた喉を潤す暇もなかったが、ようやく一段落着いたレティシアは急に水が飲みたくなった。
「はい。お姉ちゃん」
誰よりも早く、一人の少女が水の入った木製のコップを差し出す。
「ええ。ありがとう。……ん?」
聞き慣れた声と共に渡されたコップを受け取り、そのまま口へと運ぼうとした。
レティシアにとってあまりにも聞き慣れた声だったがために理解が一瞬遅れたが、その声は今ここで聞く事など決してありえない声のはずだった。
レティシアは目を見開いて声のした方に目を向けると、そこには頬を膨らませて不機嫌そうにしているパルタティアの姿がある。
「ぱ、パルタティア、あなた、どうしてここに? 先にトラキアへ逃げるよう言ったじゃない」
「それが、船が皆燃えちゃって脱出できなかったの」
レティシアは姉妹故なのか、パルタティアの言葉が嘘だという事を瞬時に見抜いた。
そもそもパルタティアが向かったネアポリスは、このカンパニア地方では屈指の港町なのだ。そこには何隻もの船が停泊しているはずで、その全てが焼け落ちるなどありえない。
「……悪いけど皆、ちょっと席を外すわ」
レティシアはパルタティアの手を引いて邸の奥へと入っていき、とある個室に入る。
扉を閉めて、周囲に人の気配が無い事を確認したレティシアは、やや鋭い目つきでパルタティアを見た。
「で、どういう事なのか。話を聞こうかしら」
姉の威圧感に圧倒されて、パルタティアは思わず後退りしてしまう。しかし、深呼吸をして彼女は一度退いた足を今度は前へと出した。
「お姉ちゃん、私に嘘をついてたでしょ。最初から全部分かってたんだからね!」
「ッ!」
パルタティアのように後ろへ下がったりはしなかったものの、彼女の言葉を聞いたレティシアは目を見開き、強い衝撃を受けたような表情を浮かべた。
レティシアが先ほどパルタティアの嘘を直感的に見抜いたように、パルタティアもまたレティシアの嘘を既に見抜いていたのだ。レティシアがそう悟った時、彼女は観念して本音を洗いざらい話す事を決める。
「私はここに集まった奴隷軍を率いてローマへ進軍するわ。でも、これは復讐じゃない。私の復讐は、グラベルを殺した時点でもう終わっているから」
「じゃあ私のためだって言うの?」
「そうよ。あなたが逃げる時間を稼ぐためだった。でも、それだけじゃないわ。こんな事に巻き込んだ奴隷達に責任を果たすためでもある」
「じゃあ私も一緒に責任を果たすわ」
「あなたはダメよ。今からでも遅くはない! 港へ行って、すぐにイタリアを離れなさい! あなたは私が生きる最後の理由なの。あなたにもしもの事があったら、私は生きていられないわ!」
レティシアは強めの口調で言う。レティシアにとってパルタティアは最後の家族であり、勝ち目の無い反乱で死なせるのは不本意でしかない。
しかし、パルタティアも確固たる意志を以って姉の命令を退ける。
「嫌よ! 私はお姉ちゃんと一緒なら死んだって構わない。お姉ちゃんと離れ離れになるくらいなら死んだ方がましよ!」
「ぱ、パルタティア。……分かったわ。ここにいて良いわよ」
妹の言葉を嬉しく思ったレティシアはつい涙を流してしまう。妹の悲痛な叫びを退けられるほど彼女は強くなかったのだ。
「本当に!?」
「ええ。でも、これだけは約束して。絶対に死なないって」
「うん! 約束するわッ! お姉ちゃん、ありがとう!」
パルタティアは満面の笑みで礼を言う。
その笑顔を目にし、その言葉を耳にしたレティシアは、頬を赤くして思わず視線をパルタティアから逸らす。そして目のやり場に困った末に、この部屋に設けられている窓の向こうに見えるウェスウィウス山に視線を向けた。
そして数度、深呼吸をした後、視線をパルタティアに戻す。
「さあ。ここに残るって言うのなら、中庭に戻って軍議に参加するのよ!」
「うん! お姉ちゃん!」
レティシアとパルタティアの姉妹は、中庭へと戻って軍議を再開した。
ここでレティシアは、今後の基本方針を発表する。
「私達はイタリアの各都市を襲撃して奴隷を解放し、食糧や武器を調達しながら、王都ローマを目指すわ」
「ろ、ローマを目指すだと?」
「正気かよ、お前」
闘技場で解放した奴隷のリーダー達は、揃って動揺の声を上げた。
それも無理はない。いくらエルトリアに虐げられ、恨みを抱いているとはいえ、世界最強の軍事大国の都を今の兵力だけで攻めるのは明らかに自殺行為というものだ。
それは提案者のレティシア自身も同意見だった。そもそも失敗を前提に決起したようなものなのだから。
しかし、レティシアにはまったく勝算も無いわけでもなかった。
「お前達は知っているか? エルトリアにはある掟がある事を」
「掟だと? 何の話だ?」
「エルトリアは、イタリア本土内で軍団を展開してはならない。だから、私達の故郷を襲ったようなエルトリア軍団は、このイタリアにはいないのよ」
レティシアの言う通り、エルトリア軍には“イタリア本土内で軍団を展開してはならない”という決まりが存在する。
そのため、エルトリアの主要戦力と言えるエルトリア軍団は、イタリアの外に拠点を構える。軍団以下の小集団に分散させて入国する。もしくは武装を解除させるなどの処置をする必要があるのだ。
エルトリアがイタリア本土内で軍団を組織するには、エルトリア国王の勅命を必要とする。
エルトリア軍団は、一個軍団が約五千人前後で編成されるため、イタリア本土で動かせる一部隊の戦力はこれを大きく下回る千人前後となる。今のレティシア達の奴隷軍の戦力で互角以上の勝負ができるだろう。
「黄金王が今すぐに軍団編成の勅命を出したとしても、実戦運用が可能になるまでにはしばらく時間を要するわ。エルトリアが軍団を組織している隙に私達はローマに攻め込むのよ」
「な、なるほど。確かにそれなら行けるかもしれん」
「やれる! やれるぞ! これまでの恨みを晴らせるぞ!」
「やってやる! エルトリアに殺された同胞達の仇だ! 今度は俺達がエルトリア人から全てを奪ってやるぜ!」
闘志を燃やす反乱奴隷達を見て、レティシアは安堵の息を漏らす。
彼女の言った事に嘘偽りはないが、今の状況でローマを攻めたとして勝てるかどうかは五分五分と言ったところだろう。
しかし、元々エルトリアに激しい恨みを抱く者が多い反乱奴隷達にとっては、一筋の希望だけでも行動を起こす理由としては充分だった。




