復讐
ティティアヌスによる闘技会の開会宣言が終わり、記念すべき第一回目の試合が始まろうとしていた時だった。
ティティアヌスやグラベルが座る貴賓席が突如、崩落を始めたのだ。石造りの闘技場が崩れた事で生じた地響きが闘技場全体へと響き渡り、動揺が観客達の頭を駆け抜ける。
そして一般観客席でも所々で部分的な崩落が発生すると、観客はパニックを起こして闘技場から避難しようと出口へ走った。しかし、誰もが我先にと決して広くはない出入り口に殺到したために大混乱が発生し、避難はまったく進まない。
そこへレティシアが解放した剣闘士の大軍が現れ、観客達を襲い始める。それがパニックをさらに助長し、より多くの犠牲者を生む事になった。
牢から解放された剣闘士達は本能の赴くままに殺しを楽しみ、残虐な殺戮が闘技場内を包み込む。
しかも、反乱を起こした剣闘士達は観客の逃げ道を封じるように、非常に効率的に展開したために、観客達は逃げようがなく殺される一方となる。
にも関わらず、これを撃退しようとする番兵はほんの数人しかいなかった。
事前にレティシアの手によって始末されていたのだ。ウィテリウス市長の不在で開会宣言が遅れたためにその時間は充分に確保できていたのだ。
そんな中、状況が呑み込めないリウィアは、恐怖のあまりに足が竦んで観客席から立ち上がれず、その場で蹲り、息を潜めているしかできなかった。
「い、一体何が? ……た、タルキウス様、どこにいるんですか?」
◆◇◆◇◆
カプアの闘技場が、剣闘士の血と観客の歓声ではなく、観客の血と悲鳴に包まれる中。バティアトゥス養成所の独房で眠っていたタルキウスは最愛の女性に呼ばれたような気がして目を覚ます。
「り、リウィア?」
辺りを見渡すが、当然リウィアの姿は無い。そして寝惚けた頭が次第に覚醒してくると、タルキウスの表情はそれに伴って険しいものになる。
「こうしちゃいられない! すぐにパルタティアを止めなくちゃ!」
昨夜のパルタティアの言葉通り、牢の鍵は確かに開いていた。しかし、胸に刻まれた刻印はそのままになっている。
「ったく、パルタティアの奴、どうせ解放してくれるなら、こっちも解いておいてくれよな。……しょうがない。これで行くしかないか」
タルキウスは牢から飛び出した。
養成所の出口へ向かう途中、大きめの黒地の布を見つける。
「もうここへは戻らないって言ってたし、貰っても良いよな」
今は腰布一枚しか身に付けていない状態で、流石にこれで町に出るのには抵抗があったのでありがたく拝領した。金具で布を肩で止めてマントのように纏う。
そして少し進むと、剣闘士用の牢に辿り着く。既に全員出払った後のようで、剣闘士の姿は無かったが、一人だけ小太りの老人が鍵の空いた牢の中で気絶していた。
「誰だ、このおっさん? まぁいいか。今はそれどころじゃない」
気に付けている衣服はそれなりに上物だった。という事はこの養成所の剣闘士という事はまずないだろう。そもそもあんな老人が剣闘士なわけがない。老人の正体は分からないけど、こんな場所に老人を一人、固い地面に上に寝かせたままにしておく事に多少の罪悪感を覚えるタルキウスだが、今はそんな事を気にしていられるような状況ではない。
手遅れになる前にパルタティアを止めなければ、という思いからだったが、それ以上にタルキウスは急いで向かわなければならない何かがあるような気がしてならなかったのだ。
◆◇◆◇◆
殺戮が繰り広げられる闘技場。
崩落した貴賓席の瓦礫から一人の男が立ち上がった。
「おのれカプアの田舎者め! この私にこのような屈辱を与えるとは!」
グラベル法務官だ。神々の末裔である彼は、魔導師としての修練をしっかりと積んでいないとはいえ、基礎的な魔法は扱える。神々の末裔の力の証でとある魔法はエルトリアの貴族にとって最低限の嗜みでもあった。崩落の瞬間、グラベルは自らの身体に強化魔法を掛けて、落下の衝撃と降り注ぐ瓦礫に耐えたのだ。
「流石にあの程度じゃ死なないわよね」
「ん? 何者だ?」
背後から女性の声がしたのでグラベルは振り返る。
「レティシア・バティアトゥスよ。数日ぶりですね」
「何だお前か。まったくなんという有り様だ。これでは我々の計画が台無しだ!」
黄金王に反旗を翻す計画。闘技場に出席した黄金王を暗殺するという計画だったが、こうなってしまえば黄金王のカプア行幸も白紙になるだろう。計画は振り出しに戻るという事だ。
「心配ないわ。全て計画通りよ」
そう言い終わると同時に、レティシアの身体が赤紫色の魔力に包み込まれる。パルタティアと同じ“ディオニソスの秘技”だ。そして目にも止まらぬ速さでグラベルに迫り、懐に隠していた短剣でグラベルの胸を貫いた。
「ぐはッ! な、何を!」
状況が呑み込めないまま、グラベルは後ろへ倒れ込む。
そして瓦礫の上で横たわる彼の上にレティシアが跨がり、短剣をグラベルの首元に突き付ける。
「ふふふ。ずっとこの日を待っていたわ。あなたに復讐する時を」
狂喜の笑みを浮かべながらレティシアは言い放つ。
「ま、待て。一体何の真似だ!?」
「ちゃんと説明したでしょ。復讐だって」
「ふ、復讐だと?」
「ええ。あなたが滅ぼしたトラキア部族の。あなたが殺した私の両親の。あなたが奴隷にした私と私の妹の。そして、私から純潔を奪った事の」
「……ッ! お、お前、まさかあの時の娘か!?」
グラベルは自分の記憶を辿り、二人の少女を思い出した。
かつて先王の御世に彼が行なったトラキア遠征。その際に襲撃したトラキア人の村で捕らえて奴隷にした二人の紫髪の少女を。
「やっと思い出してくれたのね。私の初めての人は」
「ま、待て。落ち着け」
「私は充分に落ち着いてるわ。あなたを殺す理由だってお釣りが来るくらい充分あるわよ! この瞬間のためだけに私は生き続けてきた! 色んな人に嘘をついて、騙して、陥れて! 本当は私が守ってあげなきゃいけないあの子にもずっと危ない事はばかりさせてきて」
レティシアはこれまで胸の内に押し留めてきた感情が一気に噴き出したように声を上げて、目からは目からは涙を流している。
異民族の、まして奴隷身分にまで落ちたレティシアが、グラベルを直接手に掛けるのは容易な事ではない。
この日のために、彼女はかつての主人だったバティアトゥスを手玉にとって後継者に勝ち取り、以後は興行師としてカプア市長に取り入って勢力を拡大させていったのだ。そのためなら、レティシアは自身の心も身体も迷わず道具にしてきた。
そんな中で舞い込んだのがティティアヌスの反乱計画だった。レティシアはこれに協力するふりをして、ついにグラベルと直接顔を合わせられる所まで辿り着いた。
「これで全て終わりよ」
「よ、止すんだ! 私は法務官だぞ! 私を殺せばエルトリアが、世界最強の軍団が、お前等を殺しに行く事になるのだぞ!」
「ご心配なく。そのために奴隷反乱を起こさせたんだからね」
レティシアは短剣でグラベルの首を切り裂いた。
傷口からは大量の血が噴き出してレティシアの身体を赤く染める。
そしてグラベルはそのまま力なく息絶えた。
ちょうどその時。パルタティアが姿を現す。
「お姉ちゃん。終わったんだね」
「ええ。これで終わったわ。でも、全てが為ったわけじゃないわよ」
「うん!」
「私はこのまま市役所を襲撃しにいくわ。あなたもここは収容所にいた剣闘士達に回せて、次の作戦に移りなさい。ネアポリスに行って先発させた仲間と合流して逃走用の船を確保するのよ」
「了解よ!」
「気を付けてね。無理だけはしないでよ」
「ふふ。お姉ちゃんもね」




