反乱勃発
─カプアの円形闘技場─
カプアはローマに次いで剣闘試合が盛んな地であり、それだけに立派な闘技場が築かれていた。
長径一三九メートル、短径一一〇メートルの楕円形をしたこの闘技場は、広大なエルトリアに数ある円形闘技場の中でも五本の指に入る規模を誇る。
四十四段の大理石製で築かれた観客席には、二万五千人のカプア市民がびっしりと埋まっていた。しかし、観衆が上げているのは歓声ではなく、罵声だった。
なぜなら、開会式の時刻が既に一時間も過ぎているのに、一向に試合も開会式も始まらないからだ。
「一体いつになったら始めるんだ!?」
「帰っちまうぞ!」
「舐めてるのか!!」
なぜこのような事態になっても開会式を始めないのかというと、今回の主催者であるカプア市長ウィテリウスが今だに姿を見せないためだ。それもそのはずである。ウィテリウスは昨夜、レティシアによって捕えられたのだから。
罵詈雑言の嵐が吹き荒れる観客席の中で、ただ一人だけ一言も発さずに、何かを探すかのように周囲に目をやる女性の姿がある。レティシアから招待状を貰って入場したリウィアだ。
「タルキウス様、一体どこにいらっしゃるんですか?」
タルキウスの身を案じるリウィアの声は、観客の凄まじい音量の罵声によって掻き消され、隣に座る観客にすら聞こえていない。
「一体どうなっているのだね? ウィテリウス市長はどこにいるのだ?」
観衆のように声を荒げてはいないものの、観衆と同じ苛立ちを感じている法務官ダイタス・クラウディウス・グラベルが言い放つ。彼はカプア副市長ティティアヌスの招待客として招かれ、今はティティアヌス等と共に貴賓席に座っている。
法務官の機嫌が悪くなっている事に、貴賓席にいるカプアの有力者達は次第に焦りを覚える。ティティアヌス副市長の計画を知らない彼等は、この闘技会の目的を黄金王のご機嫌を取ってカプアの財政再建の支援を取り付ける事と捉えている。黄金王を迎える前に法務官の機嫌を損ねてしまっては支援を得るのが難しくなってしまうと考えたのだ。
「申し訳御座いません、法務官」
美しい絹の衣を纏った貴婦人が席を立ち、グラベルに頭を下げて謝罪する。彼女はウィテリウス市長の妻だった。夫が昨晩から行方不明になっている事はこの貴賓席の中では、妻自身とティティアヌスの二人しか知らない。市長が行方不明などという醜態をエルトリアの法務官に晒す事を良しとしなかったのだ。
ウィテリウスの妻の謝罪を受けたグラベルは、遂に忍耐の限界を迎える。
「ティティアヌス、君が市長の代理として開会式を仕切りたまえ」
「え? わ、私が、でありますか?」
「そうだ。これ以上遅らせるわけにもいかないだろう」
「……わ、分かりました」
ティティアヌスが席から立ち上がり、観衆の前に姿を現した。
彼の姿に気付いた観衆は、ようやくか、という思いで安堵したかのように静まり返る。
「愛する我等がカプアの民よ! 長らくお待たせしました! 今日よりカプアは栄光の三日間を迎えます!」
ティティアヌスが開会宣言を始めて、ようやく闘技場には歓声の声が上がり始めた。
◆◇◆◇◆
ティティアヌスがウィテリウスに代わって開会宣言をしている頃。
闘技場の地下に設けられている剣闘士や奴隷、罪人が試合以外の時間を過ごす収容所には、レティシア・バティアトゥスとパルタティア、そして彼女に従う剣闘士の姿があった。
彼女達は収容所を守る番兵を皆殺しにして、収容所の中へと入っていく。
剣闘士達は鉄格子の中に入れられており、監獄にしか見えないここで、レティシアは不敵な笑みを浮かべる。そしてパルタティア達に、無言のまま右手を振って合図を送る。
それを見たパルタティア達は散り散りになって鉄格子の鍵を次々と開けていく。
まだ出番ではないというのに牢を開けられた。しかも開けているのは番兵ではなく剣闘士。この突然の時代に牢の中にいる剣闘士達は状況を呑み込めず、しばらく様子を窺い、収容所の中を奇妙な静けさが包み込む。
そんな中、よく鍛え上げられ屈強で大柄な体格に、夕日の如く赤い長髪をした男が牢から出て、レティシアの前に立つ。
「俺はゲルマニア人のガンニクスだ。一体何の真似か説明してもらおうか」
「私達と共に来なさい。そうすれば自由を約束するわ。一緒にエルトリアと戦うのよ」
「エルトリアと戦うだと? 俺達を反乱奴隷に仕立てるつもりか?」
「このままエルトリア人の見世物として殺されるのがお望みというのなら止めはしないわ。どうせ死ぬなら、エルトリアに一泡ふかせてからの方が良いと思うけどね」
「あはははは! とんだイカれ女だぜ! だが気に入った! いいぜ。あんたに付き合ってやる! エルトリアにもたっぷりと借りを返してやりたいしな! お前等もそうだろ!」
「「おお!!」」
牢の中にいる剣闘士達が一斉に、まるで獣のような雄叫びを上げる。
彼等の多くは、エルトリアの侵略を受けて捕らえられた戦争捕虜。戦いの技術に長けており、更にエルトリアへの敵対心も人一倍強い。反乱を企てるレティシアにとっては都合の良い連中だったのだ。
「ふふふ。ガンニクスと言ったわね。あなたは中々見込みがありそうだわ。これをあなたに託しましょう。これからの同胞の証よ」
そう言ってレティシアは配下の剣闘士が両手で大事そうに抱えている木箱を開けて、その中から一振りの剣を手に取りガンニクスに渡す。
剣を受け取ったガンニクスは早速、鞘から剣を抜いた。
鞘から姿を現した剣は、とても剣とは思えないほど神々しい輝きを放っている。その剣身は黄色一色でまるで花を見ているかのような美しさだ。それを助長するかのように、ほんのりと花の香りがガンニクスの鼻をくすぐる。
「良い剣だが、普通の剣じゃなさそうだな」
「ええ。それは【水仙の剣】と言って神々の宝物。それも冥府の神プルートが持っていたと伝わるものよ」
【水仙の剣】。それは昨夜、ウィテリウス市長の邸で手に入れた宝物である。レティシアがウィテリウス市長を誘拐した理由は、今地上で起きている開会宣言の遅れを作り出し、収容所の剣闘士を解放する時間を稼ぐためなのだが、それだけではない。レティシアにとってはむしろこの剣を盗み出す事の方が本命だったのだ。神々の宝物は、まだ神々がこの地上にいた神代の時代に作られたと伝わる物で、俗に“神器”と呼ばれる。一つ一つが人間の作った魔法道具を凌駕する強力な性能を備えている。そのため、世界中の金持ちが大金を叩いて収集に躍起になる。場合によっては国を挙げて収集に乗り出す事もあるほどだ。そのような宝物があれば、反乱勢力の大きな戦力向上が成せる。
以前から市長の邸を出入りしていたレティシアは、この剣の存在を知っており、この計画に利用しようと考えたのだ。
「ほお。それは面白そうな剣だな、冥府の剣とは。切れ味が良さそうだ」
しかし、次々と牢から出てくる剣闘士達の中で一人だけレティシアの提案に異議を唱える者がいた。それは綺麗な銀髪をした筋肉質の体格をした青年だった。
「俺はクリクスス。ガリア人だ。本気で言ってるのか? あのエルトリアに、黄金王に勝てると? ……ははッ! 馬鹿馬鹿しい! 皆、捕らえられて磔にされるだけだ」
そう言ってクリクススと名乗った男は小馬鹿にするように笑う。
彼はついこの前、ローマのコロッセオにて剣闘試合に参加し、黄金王タルキウスと対決した事のある人物だ。それだけに黄金王の実力をこの中の誰よりも理解しており、反乱を起こしても一捻りにされるだけだと考えた。
「ふん! 聞けば黄金王は十一歳の子供だそうじゃないか。ビビる必要がどこにある?」
「数千の軍勢をたった一人で倒したなんて話もあるが、どうせエルトリアのクソどもが撒いた作り話に決まってるぜ!」
クリクススの言葉に耳を貸そうとする剣闘士は誰一人としていない。
そしてレティシアがこれに追い打ちを掛ける。
「クリクススとやら。お話中悪いんだけど、そろそろ時間よ」
その時だった。落石が起きたかのような大きな音に、地震のような震動が収容所内を包み込む。
「な、何だ!?」
「落ち着きなさい。私の手の者が、闘技場の土台になっている石を一部壊したのよ。この闘技場の構造は調べ尽くしてある。どこの石を潰せば闘技場が崩れ出すかもね。今ので観客席の一部が崩落。上の観客は大パニックでしょうね。今日はカプアの有力者がほぼ全員集まっているから、彼等を殺し尽くせば、カプアの町は私達の物よ」
「おお! そりゃ良いぜ! これまでの借りを返してやる!」
「エルトリア人を片っ端に殺してやるぞ!」
剣闘士達は試合用の武器を手に取って地上へ向かう。彼等を先導するのはバティアトゥス養成所の剣闘士達だ。レティシアの反乱計画を熟知している彼等は、猛獣の如き収容所の剣闘士達を効率的に展開させ、闘技場のあちこちで逃げ惑う観客達の一方的な虐殺を始める。
しかし、クリクススだけは収容所に残っていた。そして、同じくまだ収容所にいるレティシアに強い警戒心を秘めた視線を送る。
二人きりの空間で、クリクススはレティシアを問い詰める。
「お前の狙いは何だ? 一体何を望む?」
「さて。何でしょうね。そんな事よりもあなたのお仲間はもう行っちゃったけど、あなたはどうするのかしら?」
「……俺の命は彼等と共にある。あいつ等が戦うというのなら、俺もそうするさ。お前の口車に乗せられたようで癪ではあるがな」
「ふふ。物分かりが良くて助かるわ」
クリクススも一本の剣を手に取ると、先に行った仲間達の後を追って収容所を後にした。
「ふふふ。それで良いのよ。暴れて暴れて暴れ尽くしなさい。その間に私は私用を済まさせてもらうわ」




