奴隷市場
─カプアの奴隷市場─
奴隷達は、首に金属製の首輪を嵌められていたり、両手と両足に枷を嵌められていたり、背中や肩などに焼印が押されていたりと、形は違えども皆、痛々しい姿を衆目に晒している。エルトリアにおいて奴隷の主人は、奴隷に対して奴隷である証を何らかの形で身体に付ける事が義務付けられていた。
しかし、その内容は主人の一存に任されている部分が大きく、首輪や枷など拘束具、焼印、封印魔法による奴隷刻印、どれを選ぶかは主人次第だった。
全裸の奴隷が台の上に立ち、その奴隷を競り落とそうと数人による競売が行われている。その光景があちこちに見られた。
そんな中、一際大きな声で奴隷商人から直接奴隷を買おうと交渉している若い女性の姿をリウィアは見つける。
「だから、三千セステルティウスでこの奴隷を売りなさいって言ってるのよ!」
そう言うのは、レティシア・バティアトゥスである。彼女は女性ながらに、凄まじい迫力で奴隷商人に迫っている。
彼女の周りを固める護衛役の三人の奴隷も鋭い視線を奴隷商人に送る事で、その迫力を助長させていた。
「だから安過ぎるって言ってるだろ!そんな端金で、この奴隷を売れるはずがねえじゃねえか!こいつはどんなに少なく見積もっても四千セステルティウスの価値があるぞ!」
そう言いながら奴隷商人は、右手で屈強な体格をした二十代半ばくらいのゲルマニア人奴隷を指差す。
カプアから南に下った場所に位置する港町ネアポリスに到着した奴隷船から引き上げてこのカプアまで遠路遥々連れてきた奴隷商人が少しでも高く売りたいと思うのは当然である。もうじきカプア市長主催の闘技会があるのを知る彼は剣闘士として見込みのある者を多めに連れてきたのだ。
「あなたもがめついわね。私は今まであなたの所の奴隷をたくさん買ってあげたでしょう。買い手がいなくて処分に困っていたような奴隷まで買ってあげた恩があるのを忘れたの!?」
「うッ! そ、その事には感謝している! しかしだ! いくらなんでも安過ぎる!」
「……なら、五千払うから、隣のひょろっとしたヒスパニア人奴隷も付けてちょうだい」
「え? 隣って、こいつを付けて五千か?」
奴隷商人が見た先にいたヒスパニア人奴隷も十五歳くらいのまだ幼い外見をしている。それに体格も痩せ型で剣闘士にするには、たっぷり食べさせて少し太らせ、訓練をして鍛える必要がある。
その手間を考えれば、奴隷商人にとっては決して良い取引とは言い難いが、悪い取引とも言い切れない。しかし、奴隷商人は即決でレティシアの申し出を断った。
「そりゃ。ダメだ。このヒスパニア人はただの奴隷じゃない。魔導師だ。それもヒスパニア部族の有力者だった神々の末裔だ」
魔導師の奴隷は、非魔導師の五倍以上の値で取引するというのが奴隷の相場だった。
なぜなら、魔導師が奴隷として奴隷市場に出回る事はとても稀な事だからだ。
魔導師というのは魔法を扱える人間の総称だが、誰もが魔法を使用できるわけではない。魔導師になれる人間は大きく分けて三つパターンが存在する。
一つ目は神々の末裔だ。神の血を受け継ぐ者は生まれながらに魔力を持ち、魔法を扱える。
二つ目は神殿などで修行を積み、神の加護を得る事ができた者。しかし、全ての人間が加護を得られるとは限らず、およそ百人に一人の割合で魔力を得られる程度である。
三つ目は元々は神々の末裔だったが一般人との混血が進んだ結果、魔法が使えなくなったという家系の者が先祖返りを起こして魔法を使えるようになったという場合。
平民階級の者が先祖返りで魔法を使えるようになった場合、エルトリアでは高位身分の騎士階級、その能力次第では貴族階級に上り詰めるケースもある。
しかし、最近の傾向として能力ではなく、家柄を重視する風潮が貴族社会の間で広まりつつあり、こうして昇進した者は異端児として酷い偏見や虐めに会う事がしばしばあった。
「ふーん。魔導師なの。で、どんな魔法が使えるの?」
「そ、それは……。特に魔法は、習得していないらしい」
「は? それじゃあただ魔力を垂れ流すだけの暴れ馬じゃない。そんな奴隷には、いくら神々の末裔でも相応の額は出せないわ。あのゲルマニア人に三千二百セステルティウス、そしてあのヒスパニア人には六千セステルティウスよ」
「合わせて九千二百セステルティウスか。……九千三百で手を打とう」
「良いわ。決まりね」
「まったく。うちの奴隷をいつもいつも安く買い漁りやがって」
「売れないより良いでしょ。こっちも明日から始まる市長主催の闘技会に出す剣闘士が一人でも多く必要なのよ」
「それにしてもカプアも財政難だってのに、市長も思い切った事をするもんだ」
「最終日にはあの黄金王も出席するそうだからね」
「あぁ、そうらしいな。いやはや、カプアの財政難の原因を作っておきながら、よく来る気になられたものだ」
奴隷商人がそう言って笑ったその時だった。
その話を少し離れた場所で、店頭に並ぶ奴隷を見ているふりをしながら、さり気なく盗み聞きしていたリウィアが「え!?」と声を上げてしまう。
その声に反応して、レティシアと奴隷商人が共に視線をリウィアに向けた。
「何よ、あなた? 人の話に聞き耳を立てるなんて悪趣味ね」
「あ、す、すみません。盗み聞きをしたつもりはなかったんですが、お二人の話が聞こえてしまって。……そ、それより、先ほど話されていたカプアの財政難の原因が国王にあるというのはどういう事でしょうか?」
「……あなた、市外の人? それじゃあ知らないのも無理ないか。カプアは元々貴族達の別荘地として栄えた町でしょ。でもその貴族達は黄金王の政策の影響で昔ほどの力が無くなったものだから、この町に落ちるお金が激減しちゃったのよ。貴族が別荘を手放してこの町に来なくなっちゃったり、貴族相手の商売を中心にやってた連中の中には経営難に陥って店を畳んだりしてるわ。カプアは貴族相手の商売を主産業にしていたから、そのお客の懐が寒くなると、カプアにまでお金が回らなくなったというわけよ」
「そ、そんな事が起きていたんですか」
リウィアは驚いて目を丸くした。
ローマでは、タルキウスが布いた数々の政策は民衆に大喜びだったため、タルキウスの政策が原因で苦しい思いをしているのは、既得権益を奪われた貴族くらいだと思っていたためだ。まさか町全体の景気を傾けてしまっているとは思いもしなかった。
「それにしてもあなた、本当に奴隷を買いに来たの?わざわざ市外から。それも女一人でお供も付けずに?」
「あ、じ、実は父と一緒にカプアへ農作業ができる奴隷を買いに来たんですけど、この人混みで父とはぐれてしまって、それで私だけ先にここへ来たんです」
大量に奴隷を買い込んで自ら農園を開くというのは、エルトリア貴族では特に珍しくはない。むしろそれなりの土地と財力を持つ貴族であれば、手堅い商売として奨励すらされているほどだ。
しかしその一方で、平民達の中小農家は、貴族達の広大な土地と豊富な財力に対抗できるはずもなく、倒産の道に追い込まれる例も少なくなく、エルトリアの社会問題の1つになりつつあり、国王であるタルキウスも頭も悩ませている所だった。
「あぁ、大規模農地経営って奴ね。ふ~ん。なら残念だけど、諦めなさい。ここにいる奴隷は私達興行師が全部貰う事になるんだから。明日の闘技会に向けてね。奴隷の相場も上がってるから、今日ここで買うのはオススメしないわ」
「その相場を平然と無視するような娘が何を言ってるんだか」
奴隷商人が小声で不平を漏らす。
「何か言ったかしら?」
レティシアの言葉を合図に、彼女の周りを固める奴隷達が殺気の籠った視線を奴隷商人に飛ばす。
「い、いや! 何でもない!」
「あ! そうだ。ここで会ったのも何かの縁。あなたにこれをあげるわ!」
レティシアは二枚の小さな紙をリウィアに手渡した。
「あ、あの、これは?」
「明日から始まる闘技会の特等席のチケットよ。剣闘士を出場させる剣闘士団には何枚かそれが特別に貰えるの。本来は後援者なんかに渡すのが決まりなんだけど、あんな色々と煩い老いぼれ達を呼ぶのも癪に障るし、せっかくだからあなたにあげるわ」
「え? ほ、本当に宜しいんですか?」
「ええ。私の養成所の剣闘士を全員参加させる予定だからきっと見物になると思うわよ。だからお父様と一緒に身にいらっしゃい!」
剣闘士を全員参加させる。その言葉を聞いた時、リウィアの眉がほんの一瞬だけピクッと動いた。タルキウスがもしバティアトゥス養成所に潜んでいるのだとしたら、剣闘士を総動員するというその闘技会にも姿を現す可能性は高い。そう思ったからだ。
「分かりました。必ず明日、闘技場へ行かさせてもらいますね」
「ええ。是非いらっしゃい。……人生最後の試合見物になるだろうからね」
最後の言葉は、誰にも聞こえないような小声で呟く。




