紫髪の姉妹
地下闘技場で大儲けしたレティシアは、馬車に乗って郊外のバティアトゥス養成所に帰ってきた。
養成所の門を潜ると、パルタティアを初めとするバティアトゥス養成所の剣闘士約三十名ほどが集まり「お帰りなさいませ」と言って一礼する。
レティシアが馬車から降りると、それに続いてタルキウスも馬車から降りた。意識が無いのか二人の奴隷に抱えられてだが。
そんなタルキウスを心配そうに見つめるパルタティアは思わず一歩前へ出た。
「あ、あの、ご主人様、あの子は大丈夫なのですか?」
「ええ。まだ生きてるわ。あの子は大したもんよ。あの状態で十戦以上も戦って傷一つ負わなかったんだからね。グラベル法務官の条件も果たしたし、目を覚ましたら欲しがるだけ食事と水をあげてちょうだい」
レティシアの話を聞いたパルタティアは胸を撫で下ろし「良かったぁ」と呟く。
その様子を見て、レティシアはクスリと笑った。
「な、何か?」
「ふふ。あなた、あの子が気になるのね」
「え!? ち、違うわ、おね、ご主人様。違います。私はただあの時の決着を着けないまま死なれたら気分が悪いと思っただけです!」
頬を赤く染め、いつになく感情的な口調で言うパルタティア。
「なら、あの子はあなたが介抱してあげなさい。あの子には私もたっぷり儲けさせてもらったわ。そしてこれからも儲けさせてくれそうだから丁重に扱いなさい」
「は、はい! 分かりました!」
妙に嬉しそうなパルタティア。
◆◇◆◇◆
しばらく時が流れた夜遅く。
小熊の毛皮を脱がされ、意識を失っていたタルキウスは目を覚ます。そのきっかけになったのは、豪快に鳴ったお腹の虫。つまり空腹だった。
「んんん~。……は、腹、減った~」
瞼を開き、その奥から漆黒の瞳を露わにした後の第一声がこれである。
目を覚ましたタルキウスが最初に見たのは、独房の天井だった。今のタルキウスは、鎖で強引に立たされているのではなく、独房の床に寝そべっていた。冷たい地べたの上にそのまま横になっている状態なので決して寝心地は良くないが、鎖に繋がれて立たされるよりは全然良い。
タルキウスはゆっくりと上半身を起こし、空腹を訴えるお腹を両手で抑える。
「これを飲んで」
タルキウスのすぐ傍にいたパルタティアが水の入ったコップを差し出す。
そのコップを目にしたタルキウスは思わず息を飲み、一目散にそれを手に取って一気に中の水を飲み干した。
「ぷはッ~うめええ」
宮殿で出るような魔法で綺麗に浄化された水ではなく、川で汲んできただけのようなあまり綺麗ではない奴隷用の水。貴族などが飲めば間違いなくマズいと思うその水も、今のタルキウスにとってはどんな飲み物よりも美味しく感じられた。
「ま、まだあるけど飲む?」
「ああ! 頼む!」
そう言ってタルキウスはコップを差し出す。
パルタティアは受け取ったコップに水を注ぎ、その次に大麦の入った皿をタルキウスの前に出す。エルトリアにおいて大麦は家畜の食料というのが一般的な考え方だが、剣闘士のみ大麦を主食として食べる事が多かった。それは剣闘士を卑しい者達を蔑むからではなく、大麦は滋養がある物だからという栄養的な観点から食されるようになった。
大麦を目にしたタルキウスは空腹を堪え切れず、右手に持つコップを口に運ぶ一方で、左手を使って大麦を掴んで口へと運んだ。
その食欲は凄まじく、軽く十人分は入っていただろう壺の中身をあっという間に空にしてしまうほどだった。
胃袋を満たして幸せそうにするタルキウスはパルタティアに対して「ありがとうな。おかげで生き返ったよ」と満面の笑みでお礼を言った。
「う、うん」
タルキウスの食べっぷりにやや唖然とするパルタティア。
「そういえば君、名前は何て言うの?」
名前を聞かれてタルキウスはあからさまに動揺する。本名を名乗るわけにはいかないからだ。
「え? な、名前か!? ……え、えぇと、た、タルだ!」
「タル、ね。私はパルタティアよ」
「おう、宜しくな!」
そう言ってタルキウスはニコッと満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見たパルタティアは、ほんの僅かに表情が強張り、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
「た、タルはあの時、市役所で何をしていたの?」
これまた正直に答えられない質問である。
「え? ……な、何か食える物か金目の物が無いかと思ってな」
あの時、ティティアヌスとレティシアはタルキウスの事を貧困層の子供が食べ物を探しに忍び込んだと予想していたのを思い出したタルキウスは、その予想をそのまま活用する事にした。
しかし、パルタティアはそれを素直に信じずに疑いの眼差しを向ける。
「本当にそう? ……あれだけ戦えるんだから、たぶんどこかでちゃんとした訓練を受けてるのよね? そんな子が本当に?」
「ほ、本当だって! ここで嘘をついたってしょうがないだろ! そ、それより俺、パルタティアの話も聞きたいな!」
何とか話題を逸らそうと、タルキウスはパルタティアの事を聞こうと試みる。
「私は十年前、五歳の頃まではトラキアの村で暮らしていたらしいの。私はよく覚えていないんだけど。でも、エルトリアの軍団が突然押し寄せてきて私は奴隷として売られてこのカプアまで来たの」
十年前という事はエルトリアは、先代国王にしてタルキウスの実父トリウス王の御世。
周辺諸国に次々と戦争を仕掛けて国土を広げていた時代なので、トラキアに侵攻の時にパルタティアは奴隷にされたのだろうとタルキウスは理解する。
「そうか。そんな小さな頃から。大変な思いをしてたんだな。たった一人で」
「一人じゃないよ。お姉ちゃんがいたから」
「へえ、姉ちゃんがいたのか」
「うん。もう今は、いないんだけど」
「え? あ、ご、ごめん」
マズい事を聞いてしまった。そう思ったタルキウスはすぐに頭を下げて謝る。
奴隷の命は家畜程度の価値しかない。そう考える人は多い。まして神々の末裔至上主義を掲げて身分制度に厳格だった先代の治世であれば尚更だ。
「あ、ううん。違うの。お姉ちゃんは今も生きているわ。ただ、遠くに行っちゃっただけで」
「あぁ、なるほど。そういう事か。でも姉妹なのに離れ離れなのは辛いよな。また会えると良いな」
「う、うん。そうね」
なぜかパルタティアはタルキウスから目を逸らす。
◆◇◆◇◆
タルキウスの世話を一通り終えたパルタティアは、タルキウスの独房を後にする。
そして養成所の廊下を歩いていると、前からレティシアが姿を見せた。
「パルタティア、ちょうど良かったわ。あなたに用があったの。ちょっと来てちょうだい」
「は、はい、ご主人様」
二人は養成所に隣接するバティアトゥス邸の一室へと移動した。
そこでレティシアは二つのグラスに水を注ぎ、片方をパルタティアに差し出す。
「あなたも飲みなさいよ」
「ありがとうございます」
パルタティアはそのグラスを両手で受け取ると、レティシアが水を飲んだのを見た後に自身も水を飲む。
「パルタティア、私と二人きりの時にそんな態度は止めなさい。いつも言っているでしょう」
レティシアはパルタティアに不満そうな眼差しを送る。しかしそれは奴隷を蔑むような目ではない。もっと親しく近しい間柄の者に向ける目だった。
「あ。すみま、ごめん、お姉ちゃん」
「ふふ。それはそうと、いよいよ時が来たわ。兵力も武器も整った。それにお金もね。ティティアヌスからできる限り搾り取ってようやくここまで来たわ。あなたを奴隷から解放するために必要な経費もずっと貯蓄に回してきて、あなたには辛い思いをさせてきたけど、それももうじき終わるわ」
「私の事は気にしなくて良いよ。私はお姉ちゃんと一緒にいられるなら、それで幸せだから」
「私達はこれからもずっと一緒よ。もうすぐ両親の復讐ができる。それが終わったら、混乱のどさくさに紛れて故郷に帰りましょう。お金ならたっぷりあるんだから」
「ふふ。お姉ちゃんはケチだからね。きっとすごい貯め込んでるんだろうなぁ」
他の人の前では決して見せないような楽しそうな笑みを浮かべるパルタティア。
「ケチとは心外ね。何をするにもお金が必要。復讐するのにも、故郷へ帰るのにもね。だからお金を集めるためなら手段は選ばない。それだけよ!」
レティシアは、腕を組んで、頬を膨らませてプイッとそっぽを向いてしまう。




