奴隷にされる少年王
─カプアの郊外・バティアトゥス養成所─
夜も深まり、人の往来などまったくないカプアの町の外れ。そこに建つ剣闘士を養成するための施設に、一台の馬車が到着した。
封印魔法の刻印を刻まれて奴隷にされたタルキウスの乗る馬車である。
ここに到着してすぐタルキウスは、反抗した奴隷を繋ぐための独房へと運び込まれた。そこで壁から垂れた鎖の先にある鉄枷を嵌められて、両手を常に上げた状態を余儀なくされ、両足も爪先立ちの有様だ。そしてご丁寧に両足首にも壁から伸びる鉄枷が嵌められている。
着ていた衣服は全て剥がされ、今のタルキウスは白い布を一枚腰に巻いているのみだった。
そんなタルキウスの前には今、満面の笑みを浮かべたグラベルの姿がある。
「ふふふ。この日が来るのをずっと待っていたぞ、クソガキ」
「……やっぱり俺の正体に気付いていたんだな。どういうつもりだ、グラベル?」
「あの場でお前を殺すより剣闘士にして衆目の下で嬲り殺しにしてやりたいと思ったのさ。我々貴族の、いや、私の栄光を奪ったお前を簡単に殺してなるものか。お前は王としてではなく、下賤な奴隷として見世物になって死ぬのさ!」
「ふん。何かと思えば、ただの憂さ晴らしか。そういう小さい男だから、俺もお前を出世させられなかったんだよ」
身体の自由を奪われながらも、怯えた様子など一切見せずに強気な姿勢を崩さないタルキウス。どんな苦境に立たされようとも最後まで心は屈服しない。それがタルキウスの信念だった。
「くッ! 数日の後には、ローマから一流の奴隷商人を呼び寄せる。そこでこんな安物の奴隷刻印ではなく、最高峰の刻印をこのちっぽけな身体に刻んでやる。そしてお前は晴れて完璧な奴隷だ」
「グラベル、貴様ッ!」
「ふふふ。それにな。お前がここにいるという事は今のローマには影武者を置いているのだろう? 影武者であれば暗殺するのは容易だ。一週間後にここカプアで開かれる闘技会で、ティティアヌスが用意した剣闘士に王は暗殺される。二万人を超す大観衆の前でな。その二万人は王の死の証人となり、その事実を広めて混乱が起きた所で我等が政権を奪い取る。という算段だ。お前を殺すために色々と準備が必要だったのだが、影武者が相手なら何の問題も無い」
「そんな簡単に行くと思ってるのか?」
「計画はすでに動いている。抜かりは無い。その目でじっくり拝ませてやるよ。王国があるべき姿に戻る様をな。だがその前に、お前にはこれまでの借りをきっちり返してやる。鞭の味を教えてやるよ!」
グラベルは右手に握る鞭で、鎖に繋がれたタルキウスの身体を何度も何度も打ち据えた。
それに抵抗できないタルキウスの身体には次々と鞭の痛々しい痕が刻み込まれていく。鞭が打たれる度に、奴隷刻印の痛みにも負けない苦痛がタルキウスを襲う。だが、それにタルキウスが声を上げはしなかった。口元が緩んで苦悶の声が漏れそうになると、自ら唇を噛み締めて決して声を出さないようにと己の口に言い聞かせる。ここで無様に声を上げる事はタルキウスの矜持が許さなかったのだ。どんな痛みにも屈辱にも耐える。それが今のタルキウスにできる唯一の戦いだった。
◆◇◆◇◆
グラベルがタルキウスを鞭で甚振る中、養成所に隣接するバティアトゥス邸では、家主のレティシア・バティアトゥスがティティアヌス副市長を葡萄酒でもてなしていた。
「グラベル法務官は一体いつお戻りになるのか。まったく、痛め付けて恐怖心を刷り込み、口を割らないようにする。という話だが、であればあんな盗人の子供などさっさと始末してしまえば良いものを」
そう言って椅子に腰掛けるティティアヌスは、落ち着かない様子で右手に持つグラスに入っている葡萄酒を一気に飲み干す。
黄金王との面識がないティティアヌスは、未だにあの少年がタルキウスであるという事を知らず、自分達の計画を知ったカプアの少年としか思っていない。しかし、その認識でもタルキウスを殺すべきだと考えるのには充分である。
それでもティティアヌスは今後の栄達のためにもグラベルの意向に逆らおうとはしなかった。グラベルと結託したのも全ては元老院議員へと登り、カプアの中にいては絶対に得られない栄光を手に入れるためなのだから。
「良いではありませんか、副市長。あんな子供一人で法務官の機嫌が取れるんですから」
「ふん。お前は有望な奴隷が手に入って好都合だからそんな事を言っていられるのだ」
「あなただって、この計画で長年の悲願だった栄達が成せるんですから、少しは私にも美味しい思いをさせて頂きたいものですね」
「まるで無償で協力しているような口ぶりだが、お前が協力するのに提示した額を忘れたとは言わさんぞ」
「勿論覚えていますとも。二十万デナリウスですよ」
さらりと言うが、二十万デナリウスというのは途方も無い金額だった。
デナリウスとはエルトリアで流通している銀貨で、一般の軍団兵の平均年収がおよそ二三〇デナリウスとなる。つまり、軍団兵一人の約八七〇年分の給与に相当するというわけだ。
「それだけではないわ。戦力となる剣闘士を買い集めるのもこっちが負担しているのだぞ」
「国への反逆を決意させる額と考えれば、安いものでしょう」
ティティアヌスがレティシアを、この守銭奴め、と心の中で罵る。
その時、独房でタルキウスを鞭で甚振っていたグラベルが二人の下へ戻ってきた。
「レティシア、あのガキをお前の剣闘士とするのは許可するが、如何なる状況でも奴の顔を人目に晒す事は禁じる。兜か仮面を被せるなりして顔を隠せ」
戻るなりグラベルは、タルキウスを剣闘士とする条件を提示した。このカプアでタルキウスの素顔を知る者はほぼいないだろうが、万全を期すためにも顔を衆目に晒すのは避けたかった。
しかし、その辺りの事情を把握していないレティシアは困惑した表情を浮かべる。
「な、なぜです?せっかく美形の顔立ちをしているのですから、それを活かさねば!」
「卑しい興行師風情が、元老院議員たるこの私に口答えするな!」
元老院議員にして名門の家に生まれたグラベルにとって剣闘士とは見世物としてはともかく、やはり下賤な存在に見えてならなかった。
そして、その剣闘士を使って商売をする興行師にも同等の眼差しを送っている。
「……」
「それから、明後日に開かれる地下闘技会に出場させるんだ」
「ち、地下闘技会ですと?あそこはならず者が違法賭博を行う場ですよ!正規の闘技会に比べると過酷で、子供の耐えられる試合ではありません!」
「話は最後まで聞け。その闘技会が終わるまで、あの子供に水や食糧を与えてはならん」
「え? み、水もですか?」
徹底的なまでに過酷な条件を突き付けるグラベルに、レティシアは不満などを通り越して違和感を覚えた。
「一体なぜ、そんな死ぬと決まっている条件を出されるので? そこまでして殺したいのであれば、今ここで首を刎ねてしまえば宜しいのに。第一、あの子供を市役所で殺さずに助けたのはあなたではありませんか」
「お前には関係の無い事だ。以上の条件が呑めないというのであれば、あのクソガキは私が貰い受ける」
「くぅ。……大変失礼致しました」
◆◇◆◇◆
グラベルが去った後、タルキウスは散々鞭で打たれて傷だらけになった身体のあちこちから来る痛みに表情を歪ませていた。
「うぅ。くそ~。あの野郎、やりたい放題やりやがって……」
「大丈夫?」
鉄格子の向こう側からパルタティアが心配そうな声を掛けてきた。
「このくらい何とも無いよ!」
敵に弱味を見せなくないと思ったタルキウスはつい荒い口調となり、顔を横に向けてそっぽを向く。
身体が少しでも動く度に、タルキウスの両手と両足に嵌められている鉄枷の鎖がチャリチャリ鳴る。その音を聞くとタルキウスは自分の置かれている状況を痛感させられて不快感を覚えるも、今は耳を塞ぐ事すらできない。
その様子を見ていたパルタティアは檻の鍵を開けて独房の中に入る。
そしてタルキウスの身体にそっと触れた。
「お、おい! 何をする気だ!?」
虚栄を張って暴れたりはしないものの、タルキウスは明らかに動揺している。
「そのままじっとしてて、その怪我を治すから」
「え?」
パルタティアの身体から、カプア市役所で見せたように赤紫色の魔力が溢れ出し、それがタルキウスの身体へと注がれる。
赤紫色の魔力はタルキウスもパルタティアと同じ様に包み込んだ。
すると、タルキウスはふかふかの毛布に包まれるような心地よさを覚えた。そしてゆっくりとだが、鞭によって引き裂かれた傷が塞がり、傷痕が消えていく。
ほぼ全ての治癒が終わると、パルタティアはタルキウスの身体から手を離す。
「あ、ありがとな」
「ご主人様の命令だから。あなたの怪我を治しておけって」
「そ、そうか」
「ごめんなさいね。あなたをこんな目に会わせてしまって」
申し訳なさそうに謝罪し、頭を下げるパルタティア。
感情表現に乏しく大人しそうな人だ、とタルキウスは最初に思った。しかしその中でも少ならず優しさや気遣いが感じられ、単に冷たく対応しているわけではないと分かる。
「べ、別にお前が謝る事じゃないだろ。お前はただ主人の命令に従っただけなんだからよ。それにしても、お前のその力は一体何なんだ?」
さっきからずっと気になっていた事をこの機会に聞いてみるタルキウス。
思ったより余裕があるな、と思ったような驚きの表情を浮かべた後、パルタティアはタルキウスの質問に答える。
「あれは“ディオニュソスの秘技”って言って私の部族に代々伝わる魔法よ」
「ディオニュソス?」
それは神話に登場する酒の神の名だった。エルトリアの神話においてはバックスという名で知られている神だ。この世界でバックスをディオニュソスと呼ぶ地域はギリシャとその影響を強く受けた周辺地域に限られる。
「お前、ひょっとしてトラキア人か?」
タルキウスの言葉を聞いた途端、パルタティアは驚きのあまり目を見開く。
「すごい!どうして分かったの?」
「ま、まあ、バ、いや、ディオニュソス神を主神に崇めている地域で考えたら、候補はかなり絞られるからな!」
感心された事に気分を良くしたタルキウスは頬を赤くして得意げに語る。
しかし、実際には特に幾つか浮かんだ候補の内、たまたま最初に口にしたのがトラキアだった、というだけなのだが。
「へえ。あなた、頭が良いのね。それにとっても前向きな子みたい。こんな状態なのに、楽しそうにしちゃって」
面白がられている。そう感じるタルキウスだが、声にあまり感情に籠っていないせいなのか、少し馬鹿にされているような印象も受ける。しかし、主人から命令されたからとはいえ怪我を治してくれた恩人を冷たくあしらう事はタルキウスの矜持が許さない。
「ま、まあ。泣き喚いても仕方が無いからな!」
「ふふ。あなたって面白い子ね」
パルタティアと出会ってから、まだ僅かな時間しか経過していないが、今初めてタルキウスは彼女の笑顔を目にした。




