トラキアの女剣闘士
突如、背後から聞こえた声に反応してタルキウスは、自分が身を潜めていた場所から飛び出して距離を取る。
タルキウスに声を掛けたのは、十五歳くらいの外見をした腰まで届く紫色の髪をした少女だった。
腰と胸にボロ布を纏い、首には鉄製の首輪が嵌められている。その姿からタルキウスはその少女が奴隷である事をすぐに察した。
一方、突然飛び出してきたタルキウスに驚いたグラベルは、荒れた口調で声を上げる。
「な、何だ、貴様は? 一体どこから入った!?」
それに対して、ティティアヌスは落ち着いた様子で口を開く。
「あぁ、物乞いの子供でしょう。最近多いのです。お見苦しいところをお見せました」
「お前の目は節穴か。今の身のこなしは、その辺の物乞いのガキにできるものではない」
二人がそんなやり取りをしていると、その場に剣闘士団を率いる興行師レティシア・バティアトゥスが姿を現した。
「流石は法務官様。鋭いですな。確かに今のは誰にでもできる動きではありません。ですがご安心を。すぐに我が養成所が誇る最強の剣闘士パルタティアがあの少年を捕らえてみせますので」
その時だった。パルタティアと呼ばれた紫髪の少女の身体から赤紫色の魔力が溢れ出し、まるで少女を守る外殻かのように彼女の身体を包み込む。
「な、何だ?」
その時だった。タルキウスは異様な感覚を覚える。それは視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚からなる五感とは別の魔力反応を感じ取る事ができる感知魔法から来る感覚だ。
タルキウスは周囲の魔力反応、つまり生体反応を常に感知し続ける事でどこに誰がいるのかを把握し続けていた。
その精度にタルキウスは少なからず自信を持っていたのだが、パルタティアという少女はそれに感知されずにタルキウスの背後にまで迫ったのだ。それだけでも驚きだというのに、今度は魔力を感知できないどころかその逆に凄まじい魔力の反応を感知した。
単純に見積もっても身体から放出される魔力量は三倍に膨れ上がっている。
次の瞬間、パルタティアは一瞬にしてタルキウスの目の前にまで移動した。
そのあまりの速さにグラベルやティティアヌスは目が追い付かない様子だが、タルキウスは違った。彼はパルタティアの動きを精確に目で追っていた。
パルタティアは右手で握り拳を作ってタルキウスの身体を殴り付けようとする。それをタルキウスは難なく右手で受け止めた。しかし、ただ受け止めたわけではない。強化魔法と呼ばれる身体能力を向上させたりできる魔法を自分の右手に掛けて、パルタティアの攻撃で受ける衝撃を緩和してだ。
パルタティアの攻撃を受け止めて、その勢いをタルキウス自身の腕力と強化魔法の効力で消失させた所で、今度はタルキウスが左手から攻撃を繰り出す。
そう考えていたのだが、タルキウスの予想以上にパルタティアの拳は凄まじい威力を有していた。
「うぐッ!」
衝撃を吸収し切れなかったタルキウスは後ろへと吹き飛ばされる。
だが、空中で態勢を整えて、飛ばされた先に立つ柱に足を付けて蹴る。それで衝撃を拡散させてタルキウスはゆっくりと床に降り立つ。だが、飛ばされた時の勢いで被っていたフードが外れてその姿が露わになった。
「ほお。物乞いのガキにしては肌艶が良いな。容姿も良いし、奴隷として高く売れそうだ」
カプアの外に出た事がなく“黄金王”の素顔を知らないティティアヌスは呑気にそんな事を言う。
しかし、彼の横に立つグラベルは衝撃に満ちた表情を浮かべた。
「な、なぜ、あいつが?」
「ん? あの者をご存知で?」
「……あ、いや。し、知らんぞ。それより絶対にあの子供を逃がすな!」
「勿論です。今の会話を聞かれたかもしれないですからな」
認識のズレこそあるが、二人の見解は一致している。何としても目の前の少年を、ここから生きて返すわけにはいかないと。
「ご安心下さい。あのパルタティアの一撃を正面から受けて無事なあの少年には驚かされましたが、パルタティアは最強の剣闘士です」
三人がそんなやり取りをする間にもタルキウスとパルタティアの戦闘は続いている。
しかし、タルキウスは本気では戦わず手加減をしていた。タルキウスの魔法は派手な技が多く、人の目と耳を引きやすい。ここで騒ぎを大きくしてはタルキウスの姿が衆目の下に晒されてしまう。
お忍びでここまで来て市役所にまで潜入した今の姿を露わにするのは避けたかった。
今であれば、ここにいる反逆者四人を捕らえてウィテリウス市長の前に引き出すだけで、タルキウスの存在はほんの一握りの者達だけに留める事ができる。
しかし、パルタティアの戦闘能力は並のレベルを遥かに超えている。
幼い頃から過酷な軍事訓練を課されて、魔法を抜きにしても高い身体能力を発揮するタルキウスですら互角の勝負をするのが精一杯だった。
そんなタルキウスは戦いながら、パルタティアの強さの秘密、そして彼女の身体から溢れ出る赤紫色の魔力について分析をする。
「あの妙な魔力で、全身の魔導神経を拡張させているのか」
タルキウスは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。
人間の身体には大きく二つ神経が存在する。身体の感覚を司る感覚神経と身体の動きを司る運動神経である。しかし、魔導師にはこの二つとは別に“魔導神経”と呼ばれる神経がある。魔導師は全身に張り巡らされている魔導神経を通して体内に魔力を流したり、対外に放出して魔法を行使したりする。
タルキウスは、パルタティアがその魔導神経をあの赤紫色の魔力で強引に拡張させて、魔力の大量放出を増幅させているのだろうと予測した。それにより、身体能力を三倍以上に引き上げたのだと。しかし、そんな強引なやり方が長時間続くはずもない。おそらく長期戦に持ち込めば向こうから勝手に自滅するに違いない。だが、そんな悠長な事も言ってはいられない。
タルキウスが戦いながら分析を進める中、その戦いぶりに感服したレティシアがある事を口にする。
「あの子は良い動きをします。うちの養成所に欲しい逸材です」
彼女の言葉を耳にしたグラベルは、不敵な笑みを浮かべる。
「私の出す条件さえ呑んでくれるのなら、私はそれでも構わないぞ」
「え? し、しかし、例の計画を聞かれた恐れがあるのでは?」
ティティアヌスが不安を口にする。
「だからその可能性を潰した上でだ」
そう言うとグラベルは、レティシアに何か耳打ちする。そして、一歩前に出て、中庭で戦うタルキウスとパルタティアに近付く。
「おい。そこの子供! 本来なら市役所への侵入は重罪だが、私の条件を呑むというのなら命だけは助けてやるぞ」
「……てめぇ。誰に口を聞いてるのか分かってるのか?」
「お前こそ分かっているのか?ここで降伏すれば、ここでの出来事は私達の胸の内に留めてやると言っているのだ」
「……」
グラベルはどういうわけかタルキウスを“黄金王”としては扱わず、“ただのカプアの少年”として扱おうとしている。
「もし、降伏したなら、この町のどこかにいるであろうお前の大切な人には一切手を出さないと約束しよう」
グラベルの言葉を聞いた途端、タルキウスの表情から冷静さが失われる。
「ッ!! てめえ! ……う!」
タルキウスが脳裏にリウィアの顔を思い浮かべ、彼女に身の危険が降りかかるかもしれない。そう思った瞬間、タルキウスの集中力がほんの一瞬だけ途切れた。
そこを突いてパルタティアが強烈な拳をタルキウスの左頬にお見舞いした。
タルキウスの身体は風に飛ばされた紙切れのように吹き飛ぶ。しかし、すぐに姿勢を立て直して地面に着地した。
その瞬間、タルキウスの足元に白い円形状の魔法陣が出現。それと同時にタルキウスが氷漬けにされたかのように動かなくなった。
それはレティシアがグラベルの指示を受けて仕掛けた物だった。魔法陣の範囲内にいる者の身体の自由を奪う結界魔法の一つである。
養成所の剣闘士が反抗的だった場合の懲罰、もしくは脱走を図った剣闘士を拘束するための物で、とても強力な結界である。
だが、タルキウスは凄まじい力で身体を動かし、右腕を横一線に振るう。すると、魔法陣は粉々に砕け散り、身体の自由が戻る。
しかしそれも束の間。いつの間にやら近付いてきていたレティシアがタルキウスの腹を掌で突いた。
「小賢しい! ……うぐッ!」
特に痛みもなく、大したダメージを受けたわけではない。しかし、タルキウスはすぐに自分の身に起きた異変に気付いた。
無数の太い針を身体に刺されるような痛みがタルキウスを襲う。
そのあまりの痛みにタルキウスは、着ている服の襟を引っ張って中を覗き、自分の身体を見た。
「な! こ、これは……」
「その魔法刻印は、刻まれた者から放出された魔力を吸って代わりに苦痛を与える封印魔法だ」
タルキウスの胸にはX状の毒々しい模様をした赤い刻印が刻まれていた。
「ふ、封印魔法、だと?」
そう言っている間にもその刻印は点滅をしてタルキウスの身体に苦痛を与える。
封印魔法とは、対象者の行動を封じたり制限したりする事に特化された魔法だ。
奴隷の売買を仲介する奴隷商人やそれを買った主人にもよるが、奴隷にされた者は何らかの封印魔法が刻まれて身体の自由を主人によって魔法的に制限される場合がある。
主人の命令に逆らうと激痛が走るなど、より奴隷用に特化された刻印も存在するのだが、それは刻み手にもかなりの技量と労力が要求されるため、そんな刻印を持つ奴隷は全体の五パーセントにも満たないだろう。
「これでもうお前に逃げる方法はない。大人しく降伏しな」
そう言いながらレティシアは、激痛に苦しみ胸を抑えるタルキウスの腹を殴る。
「うぐッ」
殴られた痛みに、タルキウスは顔を顰めるが、バランスを崩して転びそうになるのを何とか踏み止まる。
しかし、それを見たレティシアは寧ろ嬉しそうだった。
「ふふふ。中々根性があるわね。剣闘士にするのに充分な素養があるわ。それにやはり顔も悪くない。少々子供過ぎるけど、そういう趣味のある変態の金持ちは多いから。夜の務めでも一儲けできそうだわ」
興行師の職業病という奴なのか、既にタルキウスを利用した様々な営業展開を模索するレティシア。
「だ、誰がお前の奴隷なんかになるかよ!」
タルキウスは後ろへ下がってレティシアと距離を置き、魔力を練り上げる。胸に刻まれた刻印はそれに反応し、タルキウスに耐えがたい苦痛を与えた。全身からは汗が吹き出し、呼吸も荒い。だが、それをタルキウスは強靭な意思によって耐え抜こうとする。
そんなタルキウスの前にグラベルが立つ。
「さっきの取引の続きをしよう。投降するなら、お前の友人の安全は保障する。だが、もしそんな状態になってでも抵抗を続けるというのなら、分かるだろう?」
これはグラベルにとっても賭けだった。
タルキウスは必死に隠しているが、彼のリウィアへの溺愛ぶりは宮廷ではかなり有名な話なのだ。
しかし、王の寵愛を独占しながらも、私利私欲を満たすためにそれを利用したりしない彼女の姿勢自体は貞淑さが美徳とするエルトリア女性の鑑とされて、むしろ人々から敬意と尊敬を密かに集めていた。
それはともかく、タルキウスがここにいるという事は十中八九リウィアもカプアのどこにいるという事。その娘を人質にできれば、如何に世界最強の王が相手でも交渉の余地は充分にある。
「……分かった」
タルキウスは降伏を決意した。今の状態ではパルタティアと戦いながら、リウィアの安全を確保するのは難しいと思ったから。




