招待
ローマからアッピア街道と呼ばれる街道を通り、南東に二百キロメートルほど移動した地に立つ町カプア。
ローマには当然劣るものの、貴族や資産家の別荘を構える別荘地であり、大きな繁栄を教授している町だった。
そんなカプアの市長ルキウス・ウィテリウスは、カプアにて自らが今度主催する剣闘試合に、黄金王タルキウスの行幸を求めた。
─黄金大宮殿・国王執務室─
椅子に座るタルキウスは、ウィテリウス市長が送った招待状を読んでいる。
羊皮紙の名産地ペルガモン王国製の最高品質の紙に書かれた招待状には、大量の葡萄酒と薔薇油が大量に添えられている。
葡萄酒と薔薇油の原料となるバラは、カプアの名産品であり、カプアの魅力を黄金王に見てもらいたいという理由で贈られている。
だが、それにしては明らかに量が多く、ほぼ間違いなく賄賂目的であろうとタルキウスは見ていた。
薔薇油は少し嗅いでみたら良い香りがしたので、リウィアへの贈り物にしたら喜んでもらえそうだ。
と思ったものの、大量の葡萄酒をどうするかでタルキウスを僅かに悩ませた。結局この前に闘技会に招待してくれたクラッススへのお礼という体を装って彼に押し付ける事にしたが。
「タルキウス様、カプア市長からの申し出は如何なさいますか?」
「う~ん。どうしようかな」
市長が自分の町に王の行幸を求める理由はほぼ二通りしかない。
王の関心を得て、より高い地位を得たいという市長の野心。
町の開発などに王国から資金提供を受けたいという市長の下心。
いずれにせよ、市長はタルキウスに何か要求があるのは間違いない。それも安くはなき要求だろう。そんなもののために、しばらく玉座を空けて、王都を留守にするのか。
という思いもあり、タルキウスはすぐに決断ができなかった。
しかしこの後、カプア市長からの行幸要請の話を耳にした法務官マエケナスがタルキウスに謁見を求めてやって来た。
本来、臣下が王に謁見する場合、大鷲の間や琥珀の間などの広間で行うものなのだが、タルキウス自らが優秀と認めて信頼の厚いマエケナスは、そのまま執務室まで通された。
「で、話とは何だ?」
「私の手の者がカプアに不穏の気配有りとの知らせを送って参りました」
「不穏だと?」
「はい。詳細はまだ不明ですが、そのような知らせがあった直後に行幸の要請があるのは憂慮すべき事態です。もしや陛下の謀殺を企んでいるのかも」
「ふん。余を殺したい奴は何もカプアでなくても、このローマにだって大勢いるさ。余は貴族どもからは不人気だからな」
「警備の厳重さがローマとカプアでは大きく異なります」
「ではお前は、余にローマに留まれと言いたいのか?」
「いいえ。カプアへ行幸して頂きたく思います」
「は?」
「え?」
主君の命が狙われているかもしれないのに、わざわざそこへ飛び込めと言い出す法務官に、タルキウスは唖然とし、二人に飲み物を運んできたリウィアはビックリした拍子に危うくその飲み物を溢しかけた。
「陛下であれば、たとえ十人二十人の刺客が命を狙ったとしても、返り討ちにするのなんて朝飯前でしょう」
とんでもない台詞をさらりと言ってのけるマエケナス。
それにはリウィアも呆れ返る。
一方のタルキウスは不満そうな顔を浮かべて口を開く。
「戯け。余であれば、百人だろうと二百人だろうと蹴散らしてやる」
自信満々に切り返すタルキウスに、リウィアは再び呆れた。
タルキウス様、そこではないでしょう、と心の中で呟くのだった。
「あはは。流石は陛下。お見逸れ致しました」
そう言ってマエケナスは幼い主君に対して一礼をする。
「とまあ、それはともかく今現在、エルトリアはカルタゴやパルティアとは休戦状態にあります。しかし、カプアが争乱が起きた時に、奴等が何らかの介入をしてくる可能性は大いにあるでしょう。そうなってからでは、もう単なる地方反乱では終わりません。事前に火種を摘んでおけるのなら、それに越したことはないと思いますが」
「……そうだな。行幸を名目に探りを入れておくとするか」
こうしてタルキウスは、カプアへの行幸を決定した。
◆◇◆◇◆
その日の夜。マエケナスはクラッススの邸で開かれる晩餐会に出席した。
一流の職人が生み出した絵画や彫刻、そして美しい中庭に囲まれた広間には、クラッススの招待を受けた多くの貴族や資産家、政務官が集まり、豪勢な料理と酒を堪能している。
広間の隅では、奴隷達が楽器を奏でて、歌を歌い、来賓者達の耳を楽しませていた。
広間の各地には小さな舞台が設けられ、その上では裸体を露にした奴隷達が身体を重ねて合わせて何とも淫らな光景を作り出していた。しかも、それは男女の交わりだけではない。中には男同士、女同士で淫らに交わっている者もいた。
しかし、それを貴族達は見て楽しんでいる。これもエルトリア貴族にとっては目を楽しませるための余興なのだ。
クラッススはその豊富な財力から多くの議員や実業家と深い繋がりを有しており、邸の豪華さ、晩餐会に集まった来賓者達の顔ぶれから、先祖の衰亡ぶりなど微塵も感じられない。
この晩餐会の主催者クラッスス自身は来賓者達からの挨拶を受けている。
そんな彼に、今度はマエケナスが挨拶をする。
「クラッスス議員、この度はお招き頂きありがとうございます」
「おお、マエケナス法務官。今日はよく来てくれたな。せっかくだ。奥で話そう」
クラッススに案内されて、マエケナスは広間のすぐ隣にある別室に入る。
そこへ褐色の肌をした奴隷の女性が現れて、二人の前に葡萄酒の入った銀製のグラスを置く。
役目を終えた女奴隷は一礼をしてその場から早々と去り、次の仕事に向かうが、マエケナスはその女性が視界から見えなくなるまでじっと見つめていた。
「流石はクラッスス議員だ。邸も調度品も料理も、そして奴隷も一流の物ばかり」
「ふふふ。あの奴隷が気に入ったのなら譲っても構わんぞ。友好の証にな。ははは!」
クラッススは上機嫌でグラスを手に取り、葡萄酒を飲む。
「ありがたい仰せなれど、一流の物は一流の人が持ってこそ。私では持て余してしまうでしょう」
「今をときめく法務官殿が慎み深い事だ」
「それより私が紹介した職人の作品を置いて頂いている様で嬉しく思います」
「君の紹介してくれた者達が作った作品は、どれも素晴らしい出来だった。良い買い物ができたと感謝しているくらいだ」
マエケナスは、芸術に深い関心があった。しかし自ら作品を作るよりも文化人を援助する方に尽力している。文筆家、詩人、絵師、彫刻師、音楽家など分野の対象は多岐に渡り、さらに名のある者も無い者にも援助を惜しまず、彼等に活動の場所を提供したり、資金援助をしたりしていた。
マエケナスがクラッススと親しくしている理由もそこにある。マエケナス1人で援助できる文化人には限りがある。
しかし、エルトリア最大の大富豪であるクラッススから金を引き出す事ができれば、今の何倍もの文化人を支援できる。
「ご満足頂けて何よりです。ところで今度、カプアで開かれる闘技会をご存知ですか?」
「カプア? あぁ、無論知っているとも。私も出資者の一人だからな護民官選挙に備えてローマ以外の都市にも金を落としていたが、結局無駄になってしまった」
「そうでしたか。出資者という事は、議員も闘技会に出席されるので?」
「いや。ちょうどその日は先約があってな。カプアへは別の者を行かせる予定だ」
「それは良かった」
「良かったとは?」
「実はカプアに妙な噂があるのをご存知ですか?」
「妙な噂? 何の事だね?」
「カプアはエルトリアに対して反旗を翻す事を目論んでいる、という噂です」
これは嘘である。不穏な動きがあるという何とも漠然とした情報しか今のマエケナスにしかない。
反逆を企んでいると噂の内容を誇張したのは、クラッススがカプアと闘技会の主催者と出資者という繋がりを持つ以上、何らかの情報を握っている可能性は無視できないからだ。もしかしたら、クラッススも陰謀に加担しているかもしれない。
しかし、マエケナスの目的は事の真相を突き止めるだけに留まらない。場合によっては、それをネタにクラッススを脅迫し、今以上に金を引き出そうという意地の悪い事を考えているのだ。
だが、マエケナスの話を聞いたクラッススは「そんな馬鹿な」と言いながら笑い出した。
「カプアが反乱を起こしたところで、エルトリアに勝てるはずがない。奴等も馬鹿ではない。そんな無謀な真似はしないだろう」
この反応からして、クラッススはこの噂には何の関与もしていないのだろうとマエケナスは判断した。
そして、クラッススは土地や金の扱いには長けているが、政治や戦争の手腕には乏しい。たかが地方反乱でも、今のエルトリア、カルタゴ、パルティアの三ヶ国が微妙なバランスで保っているパワーバランスを崩すきっかけになりかねない。
また、これに介入して共にエルトリアを倒そうと動き出す勢力も現れるやもしれない。
カプアの反乱自体はエルトリアにとっては確かに脅威ではない。しかし、脅威を呼び出す危険性を孕んでいるのだ。
そこにまで考えが及ばないのであれば、クラッスス議員が政務官になったとしても、大した功績はどうせ立てられないだろう、とマエケナスは心の中で思うのだった。
「それもそうですな。いやはや、この歳で法務官などという要職を頂きましたので、どうやら心配性になっているらしい。下手な噂話まで気になってしまっていけない」
「些細な噂なんぞ、しょせんは平民どもが悪ふざけで言いふらしているに過ぎん。放っておくに限る」
「……ふふ。そうですな。ははは!」
一瞬の沈黙の後、そう言ってクラッススは軽快に笑う。




