⑦趙の決意
翌早朝、趙は何やら心の決まったような様子で母屋に来ると翠に話があると言った。
「どうなさったのですか?」不審げに問う翠に趙は、
「お陰様で足もすっかり良くなりました。私は元いた場所に戻ろうと思うのです」と言い放った。
「元いた場所? どういうことですか?」翠は驚いて尋ねた。
趙は開け放った縁側から緑豊かな王家の谷のほうを眺め、
「私はおそらくこの世界の人間ではありません。思うに、あなた方が伝説として語り継いでいるおよそ千四百年前の百済よりここに来たのです。何のためにかはわかりませんが。あなたからお聞きした百済伝説というものが私のいた世界の出来事と符合するのです。そして王族方の名も。一行の中の女性が途中で出産なさったという話も。きっとそれは私の直に仕えていた御方です。その場所を見て確信いたしました」 そこで言葉を切った趙は、
「あの方がこの地に無事に着いたことを知ることができた、それが私の何よりの幸せです」と言い、瞳を潤ませた。
「ならば」翠はせき込むように言った。
「その方がご無事だったというのなら、あなたがこのままこの地にいたとしても不都合はないのではありませんか? 私はこのまま」
あなたにここにいてほしいという言葉を翠は直前で飲み込んだ。
「いいえ、そうではないのです」趙はかぶりを振った。
「私は戦の最中にここにきてしまいました。私が我が軍から抜けてしまったことで形勢が変わってしまうかもしれません」
趙はそこで目を閉じ一息つくと改めて翠に向かってこう言った。
「私は我が命に代えてもあの方をお守りすると誓ってこれまで生きて参りました。自分のその誓いを自ら破ってしまうことになるやもしれません。それだけは何としても避けねばなりません」
翠は自分に対して語る趙の言葉が、翠に対してではなく趙自身に対して決意を固めるために語っているように思えた。
趙は更に、「もう一つ、私には懸念していることがあります。もし、私が戦場から消えてしまったことであの方が無事にここにたどりつくという歴史が変わってしまうかもしれないとすると」
趙は少しためらった後、続けた。
「さすれば、今ここにあるあなたがたも消えてしまうかもしれません」
「それはどういうことなのでしょうか?」翠は意味が分からず趙に救いを求めた。
趙は言葉を継いだ。
「あなた様は私のお仕えした方によく似ている。あなたはあの方の血を受け継ぐ子孫であろうと思われます。先日この家にいらした御仁も私の主である王に瓜二つ。おそらく王の子孫のお一人でしょう。わが軍がもし追っ手を阻止できなければ、あなた方は生まれないこととなる」
「そんなこと」
あり得ない、と言葉を続けることが翠はできなかった。目の前にいる趙が千四百年前の百済王国の人間であることを否定することができない今、その趙の語る未来もまた真実であるように思えた。
それでも翠は趙を引き留めたい一心で感情を高ぶらせた。
「私はあなたに行ってほしくない! ここで一緒に暮らしたいのです!」
翠にとって、趙と過ごしたこの数日間に味わった穏やかで安心に満ちた生活を、苦労の絶えなかったこの数年を消し去ってしまう程の幸せな日々を、再び失ってしまうことは絶望に近かった。
翠の言葉は趙の胸を打った。だが、趙は優しく翠に言った。
「あなたには妃に王があったようにあの御仁がふさわしいはずです。自分の心に嘘をついてはいけません」
その静かな言葉は翠に対する拒絶であったが、なんという優しい温かい拒絶であったろう。
趙は悟を翠の恋愛相手であると見抜き、そしておそらくその恋が何らかの障害を抱えるものであると翠の様子から察していたのだ。それでも翠に、その思いを貫いてほしいと励ましたのだ。それは趙自身がかなわぬ恋に身を置き、その壮絶な孤独の中で、それでも「自分自身の心を偽ることはできない」と思い知ったからこその言葉であった。
翠はその言葉に、あまりにつらい現実に自分の本当の気持ちさえ見失いかけていたことに気づかされ頬を打たれたようなショックを受けた。翠は趙を男性として愛していたのではなく、父とも、もしいたらこうであったかと思い描く兄のように慕っていたのだということに思い至った。それほどに、この数日間で趙の誠実な人柄に接し、心からの信頼を寄せていたのだった。
だが、それでも翠は趙に旅立たれこの辛い現実のさなかに置き去りにされることが恐ろしかった。翠は趙ならば、闇を手探りするような状況の今のこの自分を救ってくれるのではないか、と淡い期待をいつの間にか抱いていたのだ。
翠は趙にすべてを打ち明けてしまいたい衝動にかられた。悟には妻子があって自分は二番目の女……都合よく弄ばれる存在でしかないのだということを。そうすれば趙はここにとどまってくれるかもしれないという一縷の望みを捨てきれず。
だが顔を上げて趙を見ると、もはやどんな言葉も彼の決意を覆すことなどできない明確な意志が見て取れ、翠はうなだれるしかなかった。