⑥歴史を知る
そんな出来事の一方、趙が家にいることで、学ぶ、ということからはじき出されてしまった不本意な境遇の翠に、好きだった朝鮮語を使えるという大きな喜びが訪れていた。
翠は、かつて学んだ朝鮮古語を駆使して夕食の後などに趙にこの町のことを話した。趙が貴人の邸だと思った『百済王の邸』はこの町の博物館の一つであること。この町には、昔朝鮮半島の古代国家百済より王族が逃げのびてきたという伝説があり、それを裏付けるような銅鏡なども数多く残っていること。
そしてその伝説に残る百済王族の逃亡の行程などを教えた。
――昔、西暦六六三年の白村江の戦いの後のことと語り継がれている話である。
百済の王族達は母国を追われ、二艘の船に分かれて船出し、まず日本の安芸の国(広島)の宮島に着いたが、さらに九州の筑紫へと向かう途上で嵐に遭って流された。二艘の船はいったんはぐれた後、奇跡が起こり、太平洋を望むこの町の海岸にたどり着いた。それぞれの船に分かれて乗って居た王家の王族の一人である父王福寿王とその息子の富高王は再び相まみえることができ、双方感極まって詠んだ歌が伝えられている。その後,向かうべき土地を占い、一行は二手に分かれた。王家の血筋を根絶やしにせんと欲するものから御身を隠し、血脈を後世に伝えるためにである。そのうちの一人の王、福寿王らの一行がこの町に向かう途中お産をする女性がおり、その地を『子産み』、その子を洗った地を『産湯川』と名づけた。現在では『子産み』は『小海』、『産湯川』は『宇布由川』とその土地の由来を隠すように文字を変えている。
そこまで話した時、趙が顔色を変えた。
「では、その女性は無事に出産を済ませることができたということでしょうか?」
翠は急に激しい勢いを見せた趙に驚きながらも、
「そういうことになりますね。産湯を使ったという地まで残っているのですから」と答えた。
そして翠は、その後本国からの追っ手が入って戦が起こり、『阿賀槌谷』という地で特に激しい戦いがあったといわれていること、その戦での王族の死、そしてこの地の豪族『力太郎』の加勢もあって追っ手を撃退した、という伝説の続きを語った。
趙は戦や王族の死の部分では顔を歪め、その後言葉を発さなくなり、何かを考えこんでいる様子であった。
翌朝、翠が厩舎に行くと趙はあまり眠れなかったような顔で、昨日翠が話した伝説に登場する地へ案内してもらえないかと頼んできた。
そういった伝承に残る地というものは、時代の流れとともにその場所が変わってしまった、またはその場所自体がなくなってしまったということも考えられる、そう前置きしながらも、翠はその日、趙を伝説の中の地へと連れて回った。
趙の希望は福寿王の一行の足跡ということだったので、福寿王の一行が漂着したといわれる海岸や後に激しい戦場となったと言われる『阿賀槌谷』(この地は元は『赤土谷』と書き戦で流れた血がそこの土地を真っ赤に染めたためこう名付けられたと言われていた)を回り、福寿王を祀っているといわれる福富神社を回った。そして昨日趙が強い興味を示した『小海』、そして『宇布由川』を回った。
『小海』では趙は全く身じろぎもせずその地を見つめていた。そこは今では歴史を示すものは何も残っていない、ただ地名にのみ伝説が残るだけの場所であるというのに。