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③今の暮らし

 その時、

「おばあちゃん、見つかった?」と言いながら勝手知ったる様で玄関の引き戸を開け、顔をのぞかせたのは高校時代の同級生の吉沢(さとる)だった。

 悟は代々続くこの町の有力者の息子で、今は暇をつぶすためにJAに勤めていた。本来働く必要などないのだ。

 話は古くなるが、第二次世界大戦後のGHQの農地改革でも山林は対象外とされたため、このあたりの山持ちはその富を保持し、戦後の復興ブームに乗って山の木を木材として出荷し、それを右から左へと流すだけで更に富んで行った。目端の利く者はその木々を伐採した跡地にゴルフコースなどを造成して観光ブームにも乗り、さらに富を積み重ねていた。

 高校時代の悟はそんな環境のせいか努力を嫌い、頭はいいくせに全く勉強はせず、毎日のように隣町の繁華街へ出向き遊んで過ごしていた。百済王伝説の残るこの町の歴史に興味を持ち、もっと知るために外国語大学へ進学して朝鮮語を学びたいと必死に受験勉強をする翠の傍らで、「翠が勉強して帰ってきてくれるならそれを待っていようかな」などと言いながら。

 そして翠はこの言葉にときめき、それは自分が帰ってくるまで彼女を作らず待っているということだと勘違いして進んだ大学で一生懸命学んでいたが、大学二年生になったある日、故郷の友達からのメールで悟が結婚したということ、そしてもうすぐ子供も生まれるということを知った。

 悟の言葉はその文字列の通りの「自分が勉強しなくても翠が知識を身につけて帰ってくればいい」という意味だったのだと翠は思い知った。

 四年前、翠が大学三年生の秋、くしくも翠に祖母の異変を知らせてくれたのはその悟だった。

「翠のおばあちゃんの様子が変だ」

 物心つく前に母を病気で亡くした翠にとって祖母は母親の様な存在だった。そして翠が高校一年生の時に父を落石事故で亡くしてしまってからは、祖母は翠のたった一人の身内となっていた。

 悟のその電話で町に戻った翠は、初めて会う人は誰もが翠の母と思い込むほど若々しくそして町の誰よりも美しく、いつもきちんとしていた祖母がひどい身なりで散らかり放題の部屋に住み、詐欺まがいのセールスや押し買いなども「待っていたのよ」と家に上げてしまうようになったその姿を目の当たりにし、大学を中退して故郷に戻り町の観光課に就職した。

 そして悟の期待した町の知識人も誕生しなかった。




 翠の勤務中は、祖母はデイサービスに預かってもらえるが、家に連れ帰った途端に今日のように気づくといなくなっていることも多々あった。 

 悟は祖母がいなくなるといつも真っ先に一緒に探してくれた。頼る者のない翠にはそれは何よりありがたかった。

「ありがとう、今日はすぐ見つかった」そう答えると悟は安心したように笑い、

「あ、それと」と後ろに連れていたものを、体をよけて翠に見せた。

「これ、アイかと思ったんだけどアイじゃないよね。王家の谷の近くでうろうろしていたらしくてJAに連れてこられたんだ」

 アイというのは町の観光課が観光馬車を引かせるために飼育を始めたポニーのことで、かつて翠の父が厩舎を持ち育成馬を飼育していたため、その技術を引き継いでいた翠が家でアイを預かり世話をしていたのだった。

 そして『王家の谷』というのは町はずれの渓谷にある草地のことだった。

 悟の連れていた馬もポニー種と言ってよい、小柄でずんぐりとした原種に近いものだった。

 その瞬間、翠の背後で空気が変わった。振り向くと、あの、祖母が手を握って連れてきた男性が顔色を変えてこちらを(うかが)っていた。悟の位置からは彼の姿は見えていなかった。

 翠は、ほぼ同時に、祖母が男性の異変を不安がってまた手に負えない状態になるのではと予感し思わず、

「ああ、県外の業者さんから輸送中に一頭逃げ出したって連絡が来ていたから、その子だわ。こんなに早く見つかって良かった。厩舎は空いているからうちで預かるわ」

 そう答えて悟をせき立てるように追い返した。

 翠は祖母のあんな姿を、以前の優しい祖母を知っている、そして……曲がりなりにも現在交際している悟に見られたくなかったのだ。

 悟の妻は今この町にはいない。観光に来ていて悟と知り合い結婚しこの小さな町に息苦しさを訴え続けていたその人は「子どもの教育のため」と言って一人息子を連れ二年前に都会の実家へ戻ってしまった。

 翠と悟が始まったのはその後のことだ。

 きっかけは何だったのだろう、と翠は孤独な夜に思う。

 はじまりの日は雨の降る中、悟が翠と一緒にずぶぬれになりながら、姿が見えなくなった祖母を探してくれたあの日だったと確かに言うことができた。祖母は結局知り合いのコンビニ経営者に保護されていて、「話をしていてなんだか以前のおばあちゃんと違うな、とは思ったんだけど」と事情を知らぬその人の家で長居をしていただけだったと後でわかった。祖母を引き取り家に連れ帰った後であまりの緊張から解放されると同時に、終わりの見えない牢獄に放り込まれたように思われ涙が止まらなかったあの日の事だった。祖母の事、生活の事、あきらめた学生生活の事。将来の希望を奪われ、今の暮らしに疲れ、誰かに縋り付きたかったからなのか。そう思い自己嫌悪に陥ることもあった。高校時代の同級生と言っても、その当時に付き合っていたわけではないのだから。

 けれど、と翠は思いなおす。自分はあのころから悟が好きだったのだろう、と。悟は自由で気ままに見えて、やはり家柄に後押しされた自信もあっての事だろうが、学校でもほかの場所でも集団の中でいつもリーダーシップを取っていた。背も高く、品があり、容姿もずば抜けていてほかの男子が子どもに見えるほど大人びていた。この町から出ない選択をしたのも、おそらく悟なりに自分の家に対する責任を全うするためだったのだろう、と。

 翠は更に思う。ただのあこがれだった人から、ほのめかすようなことを言われて勝手に本気にして、勝手に捨てられたような気になっただけだ。それが自分の初めての失恋だった。けれどその後、絶望的な状況で誰も助けてくれない時に、ただ悟一人が親身になってくれた。頼るな、好きになるな、と言われても無理な相談だったと思う。いわば自分の中のくすぶっていた想いに再び火がついたのだとも思う。だからあの日がなくてもいずれ自分は悟と付き合ったはずだ、きっかけはもっと前に始まっていたのだ、と翠は自分自身に言い聞かせていた。

 悟はいずれ離婚する、と翠に言っている。……もし……万一本気で妻と離婚する気がないとしても、認知症の祖母を抱え八方ふさがりの今の翠にはその言葉を信じて今の暮らしを続けていく以外選択肢はなく、気持ちを持て余したまま、翠はその日その日を送っていくしかない状況だった。


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