⑩もう一つの真実の愛
翠は気づくと先祖の遺影や肖像画の飾ってある奥の部屋にいた。いつ眠ってしまったのだろうかと思った。
何やら光の昔話を聞いたような気がした。祖父のもとに嫁ぐ前に好きになった人がいたが、祖父の子どもを妊娠した時、そのことをその人に知られたくなかったというような。
翠はハッとして光の姿を探した。自分が眠っている間にどこかへ行ってしまったのではないかと恐れたからだ。が、光は翠のすぐそばでこっくりこっくりと船を漕いでいた。翠はほっとして光の肩に畳の上に落ちていたショールをかけた。
翠は頭の芯がしびれたように痛み、何やらここ数日のことがよく思い出せなかった。
翠は鴨居にかかる祖父の遺影をぼんやりと眺めた。
四十代で亡くなったという祖父の遺影は若々しく、翠は子どもの頃からこの人が光の連れ合いだといわれても妙な隔たりを感じるばかりだった。
だが、と翠は思った。隔たり、それもむべなるかな(※)、と。
光は祖父にとって『別宅』と呼ばれる立場、いわゆる妾だった。
かつて地方ではよくあったことらしいが、有力者の家では正式な妻以外にも妻を持ち、家を構え、家庭を作った。その当時、ある意味それは結婚の一つの形であったらしい。女のほうにも貧しい実家の生活を支えるという目的もあったはずだ。それでも光が祖父の二番目……ただ一人の妻ではなかったということに変わりはない。
「翠、いるの?」
悟が玄関から呼びかけていた。
その声を聞いても、翠は以前のようなほっとした気分にはなれなかった。今までは光のこともあるし、頼るもののない翠には悟がいてくれることはありがたいことだったのに。今日はなぜだか寂しく……誰にも愛されずに見捨てられたような気分になっていた。亡くなった父が無性に恋しかった。
そして、悟だっていずれ離婚すると餌をちらつかせながら自分を遊び相手としか見ていないのだ、結局自分は光と同じ二番目の女に甘んじなければならないのだ、と翠はふさぎ込んだ気持ちになった。
「どうした?」そう言いながらいつものように勝手に家に上がり、翠の顔を覗き込んだ悟だったが、その様子が今日はどことなく違っていた。翠が、
「あなたこそどうしたの」と問い返すと、悟はおもむろに翠の手を握り、言った。
「翠、やっとだ」
何がやっとなのだろうと翠が顔を上げると、悟は神妙な、だが明るい表情で言った。
「翠、今までいい加減なことしていてごめん。やっと妻と離婚が成立したよ」
悟はこの数日間全く翠の前に姿を現さなかったことをまず詫び、妻と離婚に関しての最後の話し合いを行っていたのだと理由を告げ、続けた。
「向こうにも支えてくれる相手が見つかったみたいだ。子どもとの相性もいいそうで、その人は子どものためにも一度俺に会いたいとまで言ってくれているらしい。養育費などの金銭面の事も決着した。もう誰にも俺たちの事を隠しておく必要はない」
そして、
「高校の時言ったこと覚えているかい? あんなこと言ったくせに俺、翠が帰ってくるまで待っていなくてすまなかった」と詫びた。
驚いた翠は悟を見つめ、思った。
あの時の言葉は自分の思い違いではなかったのか。もう一度あそこからやり直せるのか。
だとしたら。
私はこの人のただ一人に、一番になれるのだ、と。
翠の双眸から涙が滴り落ちた。
何も知らずこっくりこっくりと眠り続ける光の傍らで、悟が翠の肩に腕を回し、抱きしめた。
西暦645年に中大兄皇子、中臣鎌足らによって起こされた『乙巳変』と呼ばれるクーデーターにより蘇我氏は滅亡した。その変を契機として日本では孝徳天皇が即位し新政府が設立され、中央集権政治を目指す大化の改新が推し進められていた。そのさなかの西暦663年、日本政府は唐・新羅連合軍によって660年に滅ぼされた百済の遺臣、鬼室福信から、「日本にいる百済の王子、豊璋を帰国させ擁立し百済王朝を再興させたい」と、軍事的な救援をも含めての要請を受けた。日本の斉明天皇は、それを受け兵を送り、日本軍は朝鮮半島の南「白村江」で唐・新羅連合軍と戦った。これが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)である。日本にとっては歴史上初めての外国との戦争であったと言われている。戦いは日本・百済遺臣連合軍の大敗と帰している。
≪終≫
※和子様……貴人、良家の男子・後継ぎとなる子息を親しみと敬いを持って呼ぶ言い方
※むべなるかな……もっともなことだ、という意
参考資料・・・みやざきの神話と伝承101 神門神社と百済王伝説≪ウエブサイトより≫
お時間取ってお読みいただきありがとうございました。m(__)m




