王家の谷
西暦645年に中大兄皇子、中臣鎌足らによって起こされた『乙巳変(いっしのへん)』と呼ばれるクーデーターにより蘇我氏は滅亡した。その変を契機として日本では孝徳天皇が即位し新政府が設立され、中央集権政治を目指す大化の改新が推し進められていた。そのさなかの西暦663年、日本政府は唐・新羅連合軍によって660年に滅ぼされた百済の遺臣、鬼室福信(きしつふくしん)から、「日本にいる百済の王子、豊璋(ほうしょう)を帰国させ擁立し百済王朝を再興させたい」と、軍事的な救援をも含めての要請を受けた。日本の斉明天皇(さいめいてんのう)は、それを受け兵を送り、日本軍は朝鮮半島の南「白村江」で唐・新羅連合軍と戦った。これが白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)である。日本にとっては歴史上初めての外国との戦争であったと言われている。戦いは日本・百済遺臣連合軍の大敗と帰している。