そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.3
「ねえ、何してるの?」
背後から聞こえた声に、俺は返事をしなかった。その問いかけが、自分に向けて発せられたものとは思わなかったからだ。
「ねえってば。それ、何してるの?」
二度目の問いかけで、俺は声の主へと視線を向ける。
自分への問いかけと思ったからではない。子供の問いかけを無視する、不届きな何者かの顔を見てやろうと思ったのだ。
しかし振り向いた先にあったのは、自分に向けられた無邪気な瞳だった。
「ねえねえ、何してるの?」
声の主はくりくりとした目を大きく見開いて、こちらの顔をじっと見つめている。三つか四つくらいだろうか。ありふれた意匠の服、母親が切ったと思しき揃いすぎた前髪、活発さを示すような、ボロボロの靴を履いた男の子である。
しゃがんだ俺と、バッチリ視線が合っている。話しかけられているのは俺で間違いない。
「それ、なぁに?」
子供はほんの少しだけ視線を落とす。そこに在るのは、俺の手の上の黒い玉砂利である。
こちらが無視することも、嘘を吐くことも、冷たくあしらうことも想定していない。何の屈託もなく、ただ純粋に好奇心をぶつけてくる。ここで消えてしまっては、この子供の心を傷付けることになるだろう。それは神として、絶対に避けねばならないことだ。本来ならばただの人間と言葉を交わすことなど無いのだが、見られてしまったからには仕方がない。俺は正直に答えてやることにした。
「これはな、参拝者が持ち込んだ『穢れ』だ」
「ケガレ?」
「ああ、『穢れ』だ。穢れとは、心身の不調の元になり得る『負』の力、もしくは既に何らかの支障を生じさせている瘴気などの総称だ。この数週間、ここの玉砂利だけが異様に多量の穢れを吸収していてな。何が原因か、調べていたところなのだが……」
と、説明している途中で気付いた。
どう見ても、理解していない表情になっている。
「いや、すまん。そんな顔をするな。分かった。ちゃんとお前にも分かるように説明してやる。あー……そうだ! お前の家の風呂場の前に、足拭きマットはあるか?」
「あるよ」
「風呂上がりに、そこで足や体を拭くだろう?」
「うん」
「拭かずに廊下や部屋に行ったら、どうなる?」
「びちょびちょ!」
「それじゃあ滑って転んだりして、危ないだろう?」
「うん」
「だから足を拭く」
「うん」
「そんな感じだ。この玉砂利はな、人間の体にくっついた、『あぶないもの』を吸ってくれるんだ」
「ふぅん……じゃあ、ここお風呂場なの?」
「いや、そうではなくて……」
「違うの?」
「うん」
「じゃあどこなの?」
「ここで俺にそれを聞くか? 神社だ、神社」
「じんじゃ」
「そう、神社。神社が何か分かるか?」
「カミサマにオネガイシマスするところ!」
「そう、ソレだ。みんな、何か困ったことがあるからオネガイシマスしに来るんだ。そういう人は、体にいっぱい『あぶないもの』をくっつけてくる。だからこの玉砂利に吸わせて、あとで綺麗に洗っている。お前の家の足拭きマットも、何度か使ったら、ママがお洗濯しているだろう?」
「分かんない。ママいない」
「いないのか?」
「うん。パパしかいないよ」
「それはすまなかった。父子家庭だったか。お前、どこから来た?」
「そこ!」
「そこ? なんだ、すぐ目の前ではないか。しかし……氏子の家族構成は把握しているつもりだったのだがなぁ……?」
「そこ、じぃじとばぁばのおうち!」
「ということは、祖父母宅か」
「そふ、ぼた……?」
「おじいちゃんのおうちに遊びに来ているのか?」
「うん!」
「なるほど。俺は外孫のことまでは把握しておらんからな。よし、小僧。失言の詫びだ。何か願いを言ってみよ。俺の力が及ぶ範囲であれば、なんでも一つ叶えてやろう」
「ほんと?」
「ああ、本当だ。何でもいいぞ。何してほしい?」
「じゃあ、カミサマにオネガイシマスして!」
「……うん?」
「じんじゃ、オネガイシマスするところなんだよ!」
「うん、だからな?」
「なんでもしてくれるんでしょ!?」
「……うーん……?」
未就学児は、時折突拍子もないことを言い出す。まだまだ脳の発達が未熟であるため、思っていることと口にしている単語が一致していないことも多いのだ。おそらくこれも、そういった類の発言だろう。俺はそう思い、子供の額に触れて心を読んでみたのだが――。
「……あー……俺と一緒に神社にお参りして、カミサマにオネガイシマスしたい、ということか……?」
「うん! あのね! オネガイシマスするのね、五円玉入れるんだよ! 僕ね、ないの!」
「なるほど、だから五円玉をくれ、と」
「うん!」
「ふむ……いや、五円玉なら、さっきそこに落ちているのを拾ったから、その願いは叶えてやれるのだが……うぅ~む……前代未聞の要求だな……」
「?」
子供はキラキラした目で俺を見ている。
だがしかし、だ。
神が、自分が祀られている神社に向かって、なにを願うというのか。
この賽銭は何のための費用として計上されるのか。
本人がここに居るのに、鈴を鳴らして、いったい誰に何を知らせるのか。
末社のキツネたちがニヤニヤしながらこちらを見ているが、あいつら、全国の神々に触れ回る気ではなかろうな――?
「ねえねえ! 早く! 早く!」
神の袖を引いて急かすとは、なかなか行動力のある子供である。いや、俺が神だと、気付いていないだけなのだと思うが。
玉砂利をジャッカジャッカと踏み鳴らし、子供は拝殿へと向かう。
その後ろをついて歩いて、ふと気づく。
子供の足からは、およそ子供のモノとは思えない、おびただしい量の穢れが吸い出されていた。
真っ黒に染まった玉砂利の上を歩き、俺は鈍感な自分に舌打ちした。
この子は自分で言っていたではないか。
神社は、「カミサマにオネガイシマスするところ」だと。
だから来たのだ。
自分の力ではどうにもできないことを、神に何とかしてもらおうと。
子供の隣に立ち、約束通り、共に願う。
「じぃじも、ばぁばも、パパも、にぃにも、みんな、仲良くしたいです! オネガイシマス!」
片親で、祖父母に預けられていて、願う言葉がこれだ。記憶を読む必要なんて無い。この子の家庭が、ひどく荒れた状況であることが窺えた。
立場上、人の家庭事情に直接介入することはできない。だが、祈るくらいなら許されるだろう。
俺は柏手を打ち、言霊を発した。
「この子の家族が、ちゃんと仲良くできますように!」
そう、俺は言った。
言ってしまった。
本来ならばけっしてやらない、やろうとも思わない、『人間のようなお参りごっこ』をやらかしてしまったのだ。
この瞬間、全国のテレビ局が一斉に緊急地震速報を放送した。
八月八日、午後四時五十六分。奈良県・大阪府を中心に震度六から七の強い揺れが発生する、という内容でだ。実際に地震が発生するようなことは無かったが、どうやら俺の発した言霊は、観測機器にP波として検知されてしまったらしい。
「……これは、他の神から目一杯怒られるヤツだな……?」
ぼやいたところで、後の祭り。
弱めに力を使ったつもりだったが、やはり無理があった。俺は軍神である。守護するのは日本という国家そのもの。通常、一個人の家庭の安寧を祈るようなことは無い。
力加減を思い切り間違えた俺は、慌てて他の神からの念話をシャットアウトした。しばらくの間、鹿島神宮にも春日大社にも帰れそうにない。異世界に逃げよう。あっちで『器』の愚痴に、いい加減な相槌でも打って過ごそう。そしてほとぼりが冷めたころ、何食わぬ顔で戻ってくればいい。そうだ、そうしよう。それがベストな選択だ。
そんな現実逃避中の俺に、子供は言う。
「お兄ちゃん、明日もまた会える?」
「んー? いや、俺はこの辺りに住んでいるわけではないからな。たまにしか来ないんだ」
「えー……じゃあさ、また来たら遊ぼ! 約束!」
「ああ、約束だ。また遊ぼうな」
万歳をするように差し出された両手に、俺は自分の手を重ねる。
そっと触れるだけのハイタッチを交わすと、子供は走って帰っていった。
子供が祖父母の家に入るまで見届けて、それから俺は末社を振り返る。
キツネたちはいない。
全国の神に、あれこれ言いふらしに行ったようだ。
「まったく、あいつらときたら……っと。しまった。名前を聞くのを忘れたな……」
とはいえ、祖父母はうちの氏子だ。名字だけなら分かっている。
「神に奢らせた五円はデカいからな? 仲目黒のチビスケめ」
俺は亜空間ゲートを構築し、可及的速やかにトンズラをキメた。
ここまで自由に異世界旅行を楽しめてしまうのは、戦争をしていない国の軍神だからだ。『お役目』に縛られた他の神は、俺の後を追ってくることはできない。
亜空間を抜けて、俺はいつも通り、快適に過ごせる『器』の中へと収まった。
それから七年後のことだ。ある日、ひょんなところで仲目黒の名を聞くこととなった。
「はい? まるこの、いとこが、とうぼうちゅう?」
ひどい棒読みでそう言うサイトに、女王はため息交じりに事情を説明する。
「そうなの。城で行儀見習いとして働かせ始めたら、ひと月足らずで逃げ出してしまって……」
「もしや、先週俺を案内した『新人』ですか?」
先週というのは、サイトがカナカナ村でキメラモンスターと戦ったあの日のことだ。二人は任務に出立する前、王宮に呼び出されたときの話をしていた。
「私の五番目の妹の子なのだけれど、悪戯好きで好奇心が旺盛で、本当に手に負えない子で……」
「その『悪戯好き』が、無断で城から出て行ってしまった、と?」
「ええ。あの日、サイトちゃんたちが乗った馬車ね、あのあと中央駅前に乗り捨てられていたの。本来乗務するはずだった御者は、仕事がキャンセルになったと聞かされて、宿舎に帰って休んでいたわ。だから間違いなく、あの子が御者に変装して、馬車を運転していたはずよ。なにか覚えていないかしら?」
「なにか、と申されましても……すみません。手掛かりになりそうなことは、何も」
「そう……本当に、どこに行っちゃったのかしら……」
「その方のお名前を伺っても?」
「優曇華よ。ファミリーネームは仲目黒。フルネームで呼ぶときは、ファミリーネームを前につけてちょうだい」
「前に? ということは、『ナカメグロ・ウドンゲ』ですか? 変わったお名前ですね……?」
「父親が地球人で、地球とこっちを行き来しながら育った子なの。亜空間移動が得意で、放っておくとどこにでも行ってしまって、本当に困っていて……」
俺は一瞬、あの子供のことかと思った。だが、年齢が合わない。あの時点で三つか四つだったのだ。七年後の今でも、あの子供はまだ小学生のはずである。
サイトと女王の会話はなおも続くが、俺はその『仲目黒優曇華』とやらが気になり、器を抜け出した。俺が把握している限りでは、『仲目黒』という名字の家は日本国内に十数軒しかない。それも、すべての家が同じ一族の分家筋だ。まず間違いなく、あの子供の親族であろう。
「どれ。サイトの代わりに俺が探してやろうか……っと、そこか……」
神の眼は千里を見通し、万象を看破する。よその世界に逃げ込まれたのでは探しようもないが、同じ世界にいる限り、どんな人間も神の眼から逃れることはできない。
仲目黒優曇華は、中央市内の映画館で新作コメディ映画を観ている最中だった。
あの子供とは似ても似つかぬ白い肌、金色の髪、女王と同じ青い瞳。すらりと細く、けれども活発さと力強さを感じさせる体つき。ラフな服装と抱えたポップコーンバケットからは、王族らしさなど微塵も見受けられない。
しかし、肌の色も瞳の色も違うのに、その目鼻立ちはあの子供によく似ていた。
「ふむ……ここまで似ているとなると、兄弟……だよな?」
あの日言っていた『にぃに』とは、この青年のことだろうか。地球に戻って鹿島神社の参拝者記録を辿れば、仲目黒家の人間が参詣した日も、願い事の中身も、境内で交わした家族の会話も、何もかもすべてが分かる。この青年とあの時の子供が実の兄弟かどうか、確認することはできるだろう。だが、そのためだけに地球に戻るのも面倒臭い。居場所が分かっているのだから、本人の額に触れて記憶を読んでしまったほうが早そうだ。
「まあいい。映画のエンドロールが流れ終わるまでは待ってやる。この俺が直々に『オネガイシマス』してやったんだ。一族郎党もれなく全員幸せになっていなかったら、末代まで祟ってやるからな? なあ? 仲目黒?」
俺の声が聞こえるはずは無いのだが、優曇華はビクッと背筋を伸ばし、あたりをキョロキョロと見回している。
どうやら、名前の部分に言霊が乗ってしまったらしい。
「……いかんな。力加減がどうにも分からん……」
国家単位でドンパチやらかすのが軍神の本分である。軽い呼びかけのつもりでも、かなり強力な言霊が乗ってしまう。ここが日本だったら、またも空振り緊急地震速報が発報され、気象庁の担当者が無用な記者会見に引っ張り出されるところであった。
優曇華は後ろの客に座席を蹴られ、慌てて首を引っ込めている。
俺は心の中で、スマンと一言謝った。