選択
「では、後はよろしくお願いしますよ。 これ以上の面倒は、御免ですから」
明媚で怜悧な憲兵は、扉の向こうへ消えていった魔族の少女を見届けると、小さな会釈をして踵を返した。流れるような動きに美しい蒼い髪が広がり、その表情を覆い隠す。
諸々の書類を受け取ったルキウスは逃げる様に背中を見せるサラディンに、当初とは違う印象を抱いていた。
「あんたって憲兵に向いてないよな」
サラディンは手続きをしている間、マリーをずっと目で追っていた。そして自分では気づいていないであろう微笑みを、口元に浮かべるのだ。冷徹な人間だとばかり思っていた意外な一面だった。
「もし彼女に何かあれば、私が貴方を牢獄にぶち込みます。 覚悟していてください」
「牢獄行きは嫌だからな。 気を付けるよ」
表情の見えない憲兵の言葉にルキウスは大きく頷いた。それを感じ取ったのか、サラディンは乗ってきたであろう馬車の方へと歩き出す。そのあまりに簡素な別れに、ルキウスは慌ててその背中に声を掛けた。
「食べてかないのか? リフィアが腕によりをかけて作ってくれてる。 味は保証するが」
「任務の最中ですので」
「そうか。 じゃあ、気分が向いたら遊びに来てくれよ。 きっとマリーも喜ぶ」
「……必ず」
その短い返事だけを残して、憲兵は帝都へ戻っていく。遠ざかる馬車を眺めていたルキウスは、帽子でその視線を遮った。あの優しき憲兵の元へマリーを連れて行ってやろう。そう密かに計画を立てるのだった。
◆◇◆
邸宅を買い取ってから2回目の使用となる来賓室では、マリーが居場所なさげソファへ腰かけていた。今まで見たこともない家具の類や出された紅茶の味に驚きながらも、サラディンから書類を受け取ってきたルキウスと目が合うと怯えた様に身を竦ませる。
だがルキウスはマリーに何をするわけでもなく隣を素通りして、むかいのソファへ腰を下ろした。
「久しぶりだな。 元気だったか? いまリフィアが、この家に住んでる使用人が料理を作ってくれてる。 それができるまでの少しの間、俺と話をしようか。 大切な話だ」
「……うん」
大切な話という言葉に、マリーは恐る恐るといった様子で頷く。ルキウスは少し温くなっていた紅茶を飲んでから、口を開いた。
「俺は元軍人ってのは知ってるな。 回りくどい事は基本的に好きじゃない。 だから単刀直入に聞くが、お前はこれからどうする?」
「どう、って?」
「書類上では俺がお前を買い取ったことになってるが、奴隷の証をつけていない以上、奴隷と主人の関係は無いに等しい。 つまり、お前は自分の意志で何処へでも行ける。 晴れて自由の身ってわけだ。 そして現在、お前の前にはふたつの道があり、どちらを選ぶもまた自由だ」
言葉を区切ったルキウスは胸元のポケットから煙草を3本取り出し、そのうち一本に火をつけ、残りの2本を机の上に並べた。マリーに考えるための時間を与えるかのように、ゆっくりとした動作で並んだ煙草の1本を指し示す。
「ひとつ目の道は、この家を離れて、これまでの生活に戻る道。 両親を探しに帝都へ行くことも出来る。 俺の関係者として入れば、今回の様な面倒ごともないだろう。 資金も多少は工面する。 心置きなく、両親を探せばいい。 なんなら帝都を離れて、世界を旅することも出来る。 この世界には、お前の知らない美しい場所が沢山あるからな」
ルキウスは世界の美しさを語る。それは軍人としてではなく、一個人として世界を見て回った際の体験談。
深い森の中に有るという荘厳なエルフの宮殿。地底深くに築かれた巨大なドワーフの国。毎日がお祭り騒ぎの陽気で騒がしいホビットの街。語られるその全てがマリーにとっては新鮮であり、知らずのうちにその話を聞き入っていた。
マリーの幼心に宿った興奮が冷めやらぬうちに、ルキウスはもう1本の煙草を拾い上げる。
「そしてもうひとつは、この家に残り、新しい人生を始める道。 といっても、何も難しい事は無い。 飯食って、仕事して、寝て、また起きる。 そんななんでもない日常を幾度となく繰り返すだけだ。 きっと気に入ると思う」
拾い上げた煙草に火をつけ、くゆらせるルキウスをしり目に、マリーは目の前に置かれていた紅茶を眺めていた。微かに揺れる水面に映るのは、迷いの浮かぶ自分の顔。簡単に思えた判断はしかし、不明瞭な心の痛みを伴い、思考を曇らせる。
「……分からない。 すぐには、決められないよ」
両親への微かな期待。何かの間違いであってほしいという希望的観測。断ち切れない過去の思い出と記憶。それを捨てる事の恐れと、忘れる事への罪悪感。その全てが入り乱れ、混沌とした感情がマリーを縛りつけていた。
視線を彷徨わせるマリーに、ルキウスは一度ソファに深く腰掛け直し、被っていた帽子をテーブルの上へと置く。
「まぁ、即決は難しいだろうな。 それは悪い事じゃない。 その悩みが深いほど、これまでの人生に思い入れが有るってことだ。 じっくり考えればいい。 その答えに正解や過ちなんて物は存在しないからな。 選んだ道が、お前の道だ」
望まない別れの悲しみを乗り越えるのには、時間がかかる。それを理解しているからこそ、急かす事無く静かに煙草を吹かすルキウスに、マリーは自問するように呟いた。
「わたしは……捨てられたのかな」
それは幼い少女が口にするにはあまりに残酷な言葉。聞いていたルキウスでさえも、目を細めその言葉の返答に短くない時間を費やした。
「さあな。 断言は出来ないが、否定もできない。 いわゆる悪魔の証明ってやつだ。 それを断定するには、お前さんの両親を探して聞き出すほかない」
「なんでかな。 わたし、ずっと良い子にしてきたのに。 ずっと、言われた通りにしてきたのに、なんで……。」
「確かに、お前さんの立場から両親の気持ちを察するのは難しいな。 だが、お前さんが両親をどう思うかで、気持ちは簡単に変えられる」
「どういうこと?」
「捨てられたと思うか、捨てたと思うかの違いだ。 お前は両親に捨てられたんじゃない。 お前が両親を捨てたんだ。 そう思えば、少しは気が楽になる」
俺がそうしてきたように、とルキウスは続けるが、マリーは首を横に振り長い月色の髪を揺らす。
「楽にはなるけど、どっちも同じことだよ。 もう、2人には会えない」
顔を覆うマリーは、絞り出すような、悲鳴にも似た声を上げる。それがマリーとルキウスの致命的な差異だった。ルキウスはそこまでに大切だという物を知らない。帝国の為、自分の為だと戦い続けてきたがゆえに、それ以上の物を知らない。たとえ自分を無碍に扱われようとも、なお相手を求め続ける。その心理をルキウスは理解しえなかった。
「なんでそこまで両親に固執する。 そんなに大事か? 俺には理解できんね。 自分を見限った相手だぞ」
「だって、それでも愛してたんだもん。 些細なことで褒めてくれるパパと、いつもわたしの味方だったママを。 たとえ拒絶されても、わたしから拒絶することは、絶対にできないくらいに」
「ここで決別するか過去の思い出に縋って生きていくか。 俺なら断然、前者を選ぶ。 過去は絶対に変えられないが、未来を変えるのは容易い」
「そんなの、別れを知らないから言えるんだよ! わたしの気持ちも知らないくせに、知ったような口を利かないで!」
心の内を叩きつける様に絶叫する少女に、ルキウスは懐かしい既視感を覚えていた。その心理は到底理解できそうにないが、今のマリーの感情は理解できた。
「あぁ、残念ながら分からんね。 別れを惜しむような奴は、今までひとりもいなかったからな」
「だからだよ。 あなたは何も知らないから、簡単に諦められる。 決別して前を向けるんだよ」
「つまり、なにも知らない方が幸せだったと言いたいわけか? 最初から愛なんて知らなければと」
「それは……。」
自分の言葉をなぞり、マリーはふと気づく。なぜ自分がここまで悲しみを背負っているのかを。
別れを嘆き悲しむことで得る物。それを断ち切り、新たに歩き出すことで得る物。どちらが自分を幸福にするか。ルキウスの言葉は、マリーの心の小さな隙間を縫って、深く突き刺さった。
「親を愛していたのに、それさえも否定するってわけか」
「ちがうよっ! わたしは――」
「違うのなら、前を向け。 お前を愛したことで、お前が不幸になる事を、両親が望んでいると思うのか? もしまだお前が両親を愛しているというなら、お前は愛された分だけ幸せになるべきだ」
ルキウスは、内心で自分を笑っていた。愛情を知らない自分が愛を語るなんて、道化も良い所だと。しかしその言葉は、かつてルキウスが師事していた人物がとある少年に送った言葉である。
マリーは覆っていた顔を上げ、泣き顔の様な笑顔を浮かべた。
「そう、だね。 その通りだよ。 愛されてたのに、それが辛いなんて、言っちゃいけないよね。 でも、それなら、最後にさよならだけでも言ってほしかったな……。」
全てを受け入れ、諦めた笑顔を浮かべるマリーに、ルキウスは乱雑に頭をかきむしる。
どうも自分は、情に弱いらしいと反省しながらも、マリーへひとつの提案を持ちかけた。
「一度だけ会う事が出来るが、どうする?」
「ほ、ほんとに!? なんでも聞くから、お願い! パパとママに会せて!」
「何を言われるか分からんぞ? それに会話できるのはせいぜい数十秒だ。 それでもいいのか」
「いいよ、パパとママに会えるなら!」
先ほどまでの雰囲気が嘘のように、満面の笑みを浮かべるマリーを見て、ルキウスもつられて笑ってしまう。
「ただ、少しばかり時間がかかる。 遠くから人を呼ばないといけないからな。 その間は、この屋敷で働いてもらう。 その後の事は自分で決めろ。 いいな?」
「わ、わかったよ! 頑張る!」
胸の前で握りこぶしを作るマリーに、若干の不安と期待を感じながらも、ルキウスは机の上の帽子をかぶり直す。素直過ぎる感謝の念に、少しばかり気恥ずかしくなり、顔を隠すためだ。
と、そこに扉を開け放ったリフィアがエプロン姿で乗り込んできた。その2人の温度差に首を傾げながら、手を叩いて急かす。
「ちょっと、なにしてんのよ。 御飯が出来たから、早く来なさいよね。 料理は温かい内が美味しいんだから」
まさに救いの手にも感じるリフィアの言葉に、ルキウスはすぐさま席を立つと、それに習ってマリーもリフィアの後を追う。
「だ、そうだ。 これからの少しの間、よろしく頼むぜ」
「うんっ!」
料理を目の前にはしゃぐマリーと、それを見て満足げなリフィア。その平和な光景に、ルキウスの口角が僅かに上がる。それは戦場で生きてきた将軍が、初めて実感した平和という物なのかもしれない。
騒がしい日常が幕を開ける。