価値
長くなってしまいましたが、ひと段落。
その日の記憶を、マリーは鮮明に覚えていた。
崇拝する神の化身たる月が灰色の雲に隠れ、暗く寂しい夜のこと。自分と同じボロボロの衣服を纏った両親に連れてこられたのは、帝都と呼ばれる人間の都。その中でも人間の姿がほとんど見受けられない廃墟の広がる一角だった。
何かから逃れる様に訪れたその場所で、父親は自分を廃墟の陰に座らせると、優しい声で語りかけてきた。
「いいかい? パパとママは、これから凄く大事なお仕事をしてくる。 少し遅くなるけど絶対にここを離れちゃいけないよ?」
見知らぬ場所への恐怖に不安が首をもたげるが、その程度の事で両親を困らせるわけにはいかない。
生きていくには仕事が必要。そしてその仕事の邪魔をしてはいけない。過酷な環境で育ってきたマリーの、歪に成長した心がその不安を押し殺す。
父親の背中で涙ぐむ母親を不思議に思いながら、マリーは従順に頷いた。それを両親が望んでいると思っていたから。
「……うん。 待ってる」
悲しそうな笑顔を浮かべる父親の、ごつごつした手で撫でられたことを覚えていた。
しかし、それは在りし日の思い出。競売場の冷たく薄暗い牢の中で思い出すのは、両親と交わしたその約束。
マリーとて、自分が捨てられる可能性を考えなかったわけではない。同族がいとも容易く殺される所を見たことがあった。自分より幼い子供がゴミの様に捨てられているのを見たことがあった。
それでも、家族の絆というものを信じていた。いつでも頼りになる父親の言葉と、優しく寝かしつけてくれた母親の愛情を、心の底から信じていた。
いや、信じたかったのかもしれない。
それが幻想だと知りながら。
顔を上げれば、そこにどうしようもない現実が広がっている。
己と同じように捕らえられた者たちが、絶望の色に染まった表情を浮かべて、牢の隅で自分が買われる事を待っていた。その姿はまるで、廃墟で両親の帰りを待つ自分の様だと感じた。
それらを見たマリーの心に沸き上がるのは、怒りや悲しみではない。
ただ、途方もない倦怠感である。
それまでの生活が恵まれたものではなかったことは、理解していた。
自分が周囲から歓迎されていない存在であることも、理解していた。
それでも、家族との絆や愛情が、マリーの唯一の支えとなっていた。
しかし、今やそれも失った。
時間と共に、ひとりまたひとりと数を減らしていく牢の中の住人達。
物の様に扱われ、連れて行かれる同胞たちを目で追っては、どうかあれよりは良い主人に買われる事を願い、その自分の心の醜さに自己嫌悪する。
そして牢の中でさえひとりになった時、マリーは緋色の瞳を静かに瞳を閉じた。幼い頃に母が聞かせてくれた子守歌を思い出し、いつも父が褒めてくれた月色の髪を撫でる。まるで過去の自分に縋るかのように。
それでも形のない絶望の足音が、ひたひたと聞こえてくる。コールされる自分の命の値段。大きなどよめき。再びのコール。その値段が、自分の一生分の価値なんだと、もはやそれを受け入れていた。
どれほどそうしていたのだろうか。
いつの間にか、あれほどの熱気と狂気が渦巻いていた会場が沈黙に包まれていた。自分を買おうと躍起になる人間たちの声が止んでいた。
不思議に思い、ふと顔を上げると――
「そんな湿気た顔してちゃあ、御大層な名前が台無しだぜ?」
そこには、見覚えのある男が立っていた。数日前にあったときと変わらないレザーコートと、目深の帽子。口には変わらず煙草を咥えており、その顔には不思議と不快ではない不敵な笑みが浮かんでいる。
男は牢の中に入ってくると、自分の目の前までやってきて、しゃがみ込んだ。目線が同じ高さとなり、その自分よりも濃い緋色の瞳と視線が合う。
「よう、久しぶりだな。 マリー」
両親に捨てられたはずの、自分の名前を呼ぶ男がそこにはいた。
マリーは、闇夜に浮かぶ星の様な、微かに光る希望を見出した気がした。
◆◇◆
戦場とはまた違う心理戦を交えた競売を終え、ルキウスは新円を描く月を仰いで、一服していた。
壮絶な競り合いの末、マリーを落札するために提示した帝国金貨25枚をリフィアに渡し、複雑な書類と手続きを全て任せきっている。と言うのも、リフィア自身がその役を買ってでたためである。
マリーの身体的な情報が明瞭に記載されている書類を見た瞬間、リフィアはルキウスの手からは羽ペンをむしり取っていた。
結果的に休めているのだからリフィアには感謝しなければと、ルキウスが2本目の煙草を咥えようとした時、背後から近づく多くの足音に眉間にしわを寄せた。
「これは一体、どういうつもりですかな、ルキウス殿」
聞いているだけで不快になる、忘れようにも忘れられないその声に、ルキウスはいつもの表情の仮面を付けて振り返った。
そこには怒りに表情を歪めるレンドルと、軍隊かと見紛うほど大勢の従者が立ち尽していた。
「見ての通りですよ、レンドル卿。 あの魔族は私が買い取らせていただきました。 あしからず」
「なぜあの小娘にそこまでこだわるのかと聞いているのですよ。 あの魔族に帝国金貨25枚に釣り合う価値があるとお思いですかな? だとすれば、愚かと言う他ない」
「価値があるかなんて聞かれても、あいにくと奴隷の市場や相場にはうといもので。 それに、私が愚かでレンドル卿に何かご迷惑でも?」
そう言ってのけるルキウスだが、レンドルは知っていた。目の前の男が以前にも奴隷を買っていることを。それでなお奴隷の相場を知らないとうそぶく不遜な相手に、レンドルの怒りは限界に達しつつあった。
だがルキウスとてそれは同じ。目の前の男に買われた奴隷がどんな運命を辿るのかを知っているがゆえに、1秒でも長く話している事は不愉快で仕方がなかった。
「魔族の相場は金貨2枚がせいぜいと言ったところ。 それを不当に吊り上げるような真似は控えていただきたい。 憲兵の方も混乱するでしょうからな」
「それは失礼しました。 しかし、吊り上げると言っても4大貴族としての財力があれば、金貨25枚なんてはした金でしょう。 それとも、憲兵たちに目を付けられて困る様な事でもあるとか」
「……ルキウス、貴様は少し立場を考えた方がいい。 元将軍と言えど、この帝都で私と敵対してただで済むと思っているのか?」
笑顔で言い放つルキウスの言葉に、レンドルの態度は一変した。先程までの温厚な言葉遣いは鳴りを潜め、代わりに現れたのは4大貴族としての顔。しかしそれはある意味、ルキウスにとってもやり易い相手でもある。
「おいおい、まさか脳まで脂肪になっちまったんじゃないのか? いや、常習性の強い魔力酔いの弊害かもな。 過去の戦役に参加したお前が、この場で一番有利なのが誰か、理解していない訳じゃないだろう。 もっとも、当時は誰と戦っていたのかさえ、理解していない様子だったが」
「貴様、いい加減に……! 殺してやるぞ、化け物め!」
激情に任せて吐き出されたレンドルの言葉に呼応するように、周囲に控えていた従者たちが殺気立つ。各々が各々の得物に手を伸ばし、空気が張り詰めたような緊張が場を支配する。
だがルキウスはそれを待ち望んでいたかのように、腰に下げていた一本の剣の柄を握りしめる。古いレザーコートの陰に隠れていた紅い鞘の剣を見て、それを知る者は呻き声を上げた。
「やってみるか? しかし、これからもゲテモノを食い続けたいなら、早急に失せる事を強くお勧めするが」
ルキウスが戦場にて赤毛の悪魔と呼ばれた所以は幾つかある。その中のひとつとして、その圧倒的な力を秘めた魔剣の存在があった。その力は絶大で、一振りすれば戦場が火の海と化し、その炎に焼かれた者は灰塵となる。
ドワーフの伝説にもなる程の魔剣に手を掛けたルキウスの瞳は、魔力の急速な集中により煌々と紅く輝き、闇夜に浮かび上がった。その姿はまさに、戦場において恐怖と殺戮の象徴と謳われた、赤毛の悪魔そのもの。
その姿を見て動けないでいたレンドルの従者達。そしてそれを切り伏せようとルキウスが剣を鞘から抜き放とうとした、その瞬間。憲兵団本部の重い扉が開け放たれた。
極限まで高まっていた緊張が弛緩し、双方の意識は飛び出てきた蒼髪の美しい憲兵へと向けられる事となった。
「よりによって憲兵団本部の眼前で揉め事とは、随分と舐めた真似をしてくれますね。 双方共に、牢にぶち込まれたくなければ、剣を引きなさい」
凛とした声を響かせるサラディンは、その場の雰囲気に呑まれることなく超然とした物腰でルキウスとレンドルの間に割り込むと、瞬く間にその場を収めて見せた。
「憲兵様のお言葉じゃあ、仕方ないな」
サラディンの抑制に便乗したルキウスは柄から手を放すと、傾いていた帽子を整え直す。
帝王の側近であり、保守派の元老院でもあるアレクサンドルの直轄である憲兵団の権力は、貴族の持つ財力を超越した力を発揮する。つまり、頑固とも言える正義を掲げる憲兵団に、貴族の持つ金の力は通用しない。
偏食というにはいささか度が過ぎるレンドルの食人行動は法に触れていないため、裁くことは出来ない。しかし、公然と法に触れる行動を起こせば、憲兵団は容赦なく牙をむく。
「クソ。 覚えていろよ、化け物め」
場の不利を感じ取ったのかレンドルは、毒づきながら身をひるがえし、夜の帝都に消えていった。その背中を見送ったルキウスは視線を感じて振り返る。そこにはルキウスに氷の様に冷たい視線を送るサラディンとリフィアが立っていた。
「あ、あれ? マリーがいないみたいだが」
「彼女の手続きには、数日を頂きます。 なんせ、取引金額が大きかったので、その書類の処理などに時間が掛かります。 正式な処理が済んだ後、そちらの邸宅まで届けますのでご安心ください」
少し疲労の色が見て取れるサラディンは、それだけを述べると憲兵団本部へと戻っていく。それを見て、ルキウスはやっと終わったのだと、実感する。急な出発に、慣れない貴族との会話で精神をすり減らしていたルキウスは、すぐにでも宿へ戻りたい気分だったが、その手をリフィアが捕まえた。
「だそうよ。 それとマリーって娘の物を色々と買いそろえる必要がありそうだから、買い物に行くわよ」
「い、今からか!?」
驚愕の表情を浮かべるルキウスの手を、リフィアは強引に引っ張り始める。
「当然じゃない。 女の子には色々と必要なの! 気合い入れていくわよ!」
結果、眠る事を知らない帝都の街々を、ルキウスは空が白んでくるまで連れまわされる事となった。その間に買い漁ったのは、数日前に購入した物とほとんど同じものである。リフィアいわく、マリーの生活用品だという。そんな新しく屋敷で住まう事となった仲間の名前を、嬉しそうに呼ぶリフィアに対して、ルキウスは自分の行動の意味を考えていた。
マリーへ帽子を与えた日の事を思い出し、その行動が本当に正しかったのかを考え直す。戦場でも、作戦のミスで多くの命を失った。その事を今でもふと思い出し、考えに耽る。過去の事をいくら考えても、答えは出ない。それが分かっていながら。
今まで戦争で大勢の命を奪ってきた。自分では殺していなくても、命令を下したのは己であり、全てを責任は自分にある。
しかし、雨に打たれる魔族の少女を見て、ルキウスの中で、何かが変わった。それが何かは、自分でもわからない。
その何かに突き動かされ、軍をやめてでも手が届く範囲で救いたかった。
それが自己満足だと知りながらも。
慌ただしかったアルトリウス家に、平穏が訪れようとしていた。
何やら伏線をばらまきつつも、日常編に突入です。