故郷
信奉深い人間達の崇拝する太陽が水平線の向こう側に沈み、それと入れ替わるように魔族たちが崇拝する三日月が夜の空を支配する。それを見上げながら、ルキウスは口元の煙草に火をつけると、ゆっくりとくゆらせた。
立ち上る煙を目で追いながら、大きく煙草を胸に吸い込むと、浮かぶ月に向かって吹きかける。鼻を抜ける独特の妙味が心地よく、目を細めた。
田舎に建つ邸宅にしては豪奢すぎるバルコニーからの風景には、世辞にも整っているとは言えない庭園が広がっている。
いつか季節に見合った植物を植え、それを楽しむのも悪くないと想像に耽りながらの一服は、ルキウスにとって至福の一時となっていた。
「随分と美味しそうに吸うわね。 お父様も煙草を吸っていたけど、そんな煙の何が美味しいのか理解に苦しむわ」
鼻にかかった幼い声音に振り向けば、駄々をこねられて購入した寝間着を纏ったリフィアがカップを片手に佇んでいた。
購入した時は、なぜ女性の寝間着はそんなにも高いのかと驚愕を禁じ得なかったが、なるほど、ルキウスはリフィアの姿を見てその理由を察した。黄金色の髪を揺らし、緻密な縫い込みが施された純白の服を纏う彼女は、貴族特有の高潔さを体現している。ルキウスが今までいた戦場にはない可憐さだ。
だからこそ、この時間帯にその姿を見る事に違和感を覚えて、首をかしげる。
「なんだ。 まだ起きてたのか。 子供は寝る時間だぞ」
「子ども扱いしないでちょうだい。 それに、まだ寝慣れないのよ、あの部屋じゃあね。 そういうあんたは、いつ寝てるのか分からないわよね」
リフィアがこの家に迎え入れてから2日の時が過ぎていたが、リフィアは自分の主が寝ているところを見たことが無かった。
夜はもちろんの事、朝食を作るために早起きしても、既にルキウスは散歩に出かけており家にはいない。彼女の中でそれは一種の謎になりつつあった。
「睡眠時間は最低限に留める様にしてる。 昔からの癖が抜けきらなくてな」
「辛くないの? 軍人なら体力だけはありそうだけど」
「軍にいた頃は辛かったが、今はそうでもない。 起きているときは気を張っている必要がなくなったからな。 気になった場所を散策して、好きな本を読んで、煙草吸ってればいい毎日だ」
そういってルキウスは1本目の煙草を魔法で燃やし尽くすと、2本目の煙草を胸元のポケットから取り出し、再び咥える。
それを見て、リフィアは片手に持っていたカップを徐に差し出した。ここ2日ばかり、バルコニーで煙草を吸っているルキウスを見ての行動だった。
「これ、さっき入れてきたの。 飲む?」
ルキウスは、昔から愛用している飾り気のないカップに注がれた黒い液体を見て頬を緩ませる。
「珈琲か。 そういえば、飲むのは久しぶりだな」
「王国の豆を使えば、もっと美味しいんだけどね。 この辺は、無理やり痩せた土地を畑にしているから、味はそんなに良くないわよ」
「細かい味なんて分かんねぇから、大丈夫だ」
受け取った珈琲をすすり、大きくため息をつく。心地よい苦みと暖かさが舌を撫でる。
そんな珈琲に夢中のルキウスを見て、リフィアはそっとその隣へと歩み寄る。
奴隷という身分に身をやつした彼女にとって、特異な待遇で迎え入れたルキウスは謎の存在だった。だからこそ、早急にその本性を見抜く必要がある。この世界ではいい人を演じる、ずる賢い者は多い。それこそ、娘である自分を売り払った父親のように。
「なんで軍を抜けたの? この前は、遠征先の事をすごく楽しそうに話してくれたのに」
「さあな。 性に合わなかったのか、才能がなかったのか、根性がなかったのか。 自分でもよくわからん。 ただ本能的に戦場から離れたかったのかもしれないな」
そういう臆病な奴は存外に多いと、ルキウスは自嘲気味に笑って見せる。
隣国との戦では不敗神話を誇り、大陸最強とも謳われた帝国軍に所属していたとは思えない程の弱音だった。
「故郷に帰ろうとか、家族の所に戻ろうとは思わなかったの?」
今は無きリーフレット家を思い出したリフィアが問いかける。
しかしルキウスはその自虐的なな笑みを浮かべたまま、短くない間を迷い、そして口を開いた。
「誰が家族で、どこが故郷か分からない。 俺は軍の奴隷から、遠征中に生まれたからな」
おもむろに告げられたその言葉には、想像もできない程の感情が込められていた。
その曖昧な笑顔の意味を唐突に理解したリフィアは目を見開き、ルキウスの顔から反射的に視線を逸らす。
「ご、ごめんなさい。 私――」
同情や罪悪感、そんなリフィア本人でもはっきりとは分からない感情が口を突く前に、ルキウスが言葉を遮った。
「おっと、お涙頂戴の慰めは十分だ。 ただ、お前がこんな話を聞いて寝られるかが心配だけどな」
そんなことをおどけた様子で言ってのけるルキウスに、リフィアは一瞬だけ視線を奪われる。
本来ならば、思い出したくないはずの過去の記憶。怒りや悲しみを否が応でも想起させる問いかけだったはずだ。それでもなお、ルキウスは負の感情を表に出す事無く、笑って見せていた。
急に自分が子供の様に感じ、リフィアは手に持っていた珈琲を飲み干すと、バルコニーから室内へ踵を返した。
「……変なこと聞いて悪かったわね、もう寝るわ」
「おう、お疲れさん」
リフィアの背中を見送ったルキウスは、2本目の煙草を燃やし尽くすと、手元に残った珈琲を一気に煽る。
すっかり温くなったそれが少しの眠気を払い、そして忌まわしい過去の記憶を呼び覚ます。
「苦いな……。」
月さえ眠る闇夜の中、ルキウスは空を見上げ続けていた。