虚偽
ルキウスの問いかけに、レイナはただひたすらに沈黙を保っていた。帝都ならば決して途絶えることのない喧噪も、辺境に建てられた邸宅には届かない。張り詰めた空気と、耳が痛いほどの静寂がレイナに無言の重圧を押し付ける。
ただ目を閉じて待っていたルキウスは、返答が無いと分かると、淡々とした口調で切り出した。
「お前は知らないだろうが、リカードは羽ペンの収集が趣味でな。 その癖してお世辞にも文字が綺麗なんてこともなかったが、それでもこんなふざけた文字を書くような奴じゃないことぐらい分かってるつもりだ」
帝国軍第四師団長、リカード・テイラーは元々医師としても非常に優秀であり、帝国軍でも最も救護に特化した第四師団の師団長として長い間従事していた。
味方だけでなく、敵対勢力ですら救おうという彼を良く思わない者も多かったが、それでも最強と謳われ血の海を渡ってきた帝国軍に、彼の存在は必要不可欠だったのだ。
そんなリカードをルキウスは個人的な交友関係を抜きにしても、次期将軍として自分の後続に任命していた。だからこそ、そこに書かれた文字が友人の物でない事を瞬時に見抜くことができた。
「……。」
「だんまりか? 俺は存外に気が短い。 ここで隠し立てすれば、この後の話し合いで一切の了承が得られない物と思え」
友人の名をかたる者への静かな怒気。込み上げるそれを、ルキウスは抑えようとは思っていなかった。戦場に立てば常勝無敗を誇る赤毛の将軍。その怒りに触れて、レイナは覚悟を決めた様に顔を上げる。
「リカード将軍は、北方山脈領魔獣征伐の際に……壮絶な戦死を遂げられました」
瞬間、硝子の砕け散る音が室内に反響する。
ルキウスの手元にあった空のカップの取っ手部分が、いつの間にか毟り取られていた。
しかしそれに気付く者はいない。ルキウスも告げられた言葉を理解するのに短くない時間を要していたからだ。
そして自分の手から滴り落ちる血の雫を見て、ようやくルキウスは我を取り戻す。
手の中に残る硝子片をソーサーに戻し、言葉を絞り出す。
「なるほど、なかなか面白い冗談を言えるようになったな。 もっとも安全な場所から全軍を指揮する将軍が、たかが魔獣征伐で戦死したか。 レガドの爺さんがそんな芸を仕込んでいたとは、知らなかった」
現実から視線を逸らしきれないルキウスだが、それも無理はなかった。
師団長や将軍といった指揮官は、基本的に陣形内でも最も安全な場所から作戦の指示を飛ばす。例外も存在するが、今回リカードが決行していた作戦は魔獣征伐。そこに例外が含まれる可能性は限りなく低い。それが、どうして。
友の唐突過ぎる死に狼狽えるルキウスを見て、レイナは目を伏せて言葉を続ける。
「どこかで情報が交錯したらしく、不覚にも本陣が奇襲を受けました」
「だからと言って、師団長を務めるリカードが魔獣に殺されると思っているのか? 山脈に生息する魔獣にそこまで凶悪な種族はいなかったと覚えているんだがな」
もっともな言葉に、レイナは灰色の髪を揺らして肯定した。
元医師とはいえ師団長にまで上り詰めたリカードの実力を考えれば、征伐対象となっていた魔獣の脅威など無いに等しい。
だが、帝国軍が戦うべく敵は魔獣だけではない。
「襲撃を仕掛けてきたのは魔獣ではなく、野盗でした」
刹那、蒼白い火花が舞い散る。
激情により溢れだした魔力が自然発火を巻き起こしたのだ。それはルキウスの内にある怒りを端的に表していた。
「その征伐の立案者は、誰だ」
隠し切れない怒気をにじませながら、ルキウスはレイナを問い詰める。
「それは、どういう意味でしょうか」
「俺の質問の意味が分からない訳じゃないだろ。 それとも、お前は俺の怒りがどこに向いているか、口にしなけりゃ分からないか?」
情報の交錯。野盗の襲撃。そしてあまりにも不自然な将軍の死。それらによって導き出される、最悪の結末に、ルキウスの怒りはすでに友の死ではなく、その先の存在へと向けられていた。
つまり、リカードを死に追いやった存在へと。
「――現在、帝国軍は第一師団長のエルドが将軍代理として指揮しています」
「それで、あのエルドの命令がこの中に書かれているわけか」
震える声で告げられた名前に、ルキウスはいっそ憐れむようにため息をついた。
魔族との戦争において、エルド・ラグバインの名前は広く知れ渡っていた。魔族狩りの英雄と称賛する人々が入れば、大虐殺人と蔑む人々もいる。つまりは、そういう事だった。そんな男が帝国軍の指揮を取ればどうなるかなど、考えるまでもない。
しかしその性格ゆえに、数多くの功績を上げていることも否定できない。リカードを亡き者とした後に、エルドが代理として抜擢されたこともことさら不思議ではないのだ。
手元にある手紙に目を通せば、ルキウスの予想通りの内容が長々と綴られていた。
「はは、なるほど、これは傑作だな。 不可侵条約を結んでいる幻想の森攻略作戦に参加しろとは、とうとうエルドも頭がどうにかなっちまったみたいだな。 でなければ、誰かが裏でエルドを操ってるのか。 リカードの事を考えても、その可能性が高いが……それで? レイナ・レイズベルトの意見を是非とも聞かせてほしい」
「ボクは……反対に票を投じました。 幻想の森には貴重な資源が埋まっている事は知っていますが、それでも不可侵条約を結んでいる地域への進行は市民たちの反感を買います。 しかし、残り四師団長の裁決を覆すことは出来ず……ボクの力不足のせいです」
悔やむレイナをしり目に、ルキウスは明らかな違和感を感じ取っていた。
本来ならば大規模な作戦を実行するには、五人の師団長からなる軍議会で承諾を得る必要がある。リカードが抜け、エルドが将軍代理となり実権を握っているとなれば、師団長達は急な内部変化に慎重になるはずなのだ。
そもそもリカードを筆頭に良識派と呼ばれていた第二、第三、第四師団が条約を破ってまで進行する作戦に賛同するはずがない。対立していたエルドの立案ならば猶更だった。
「やはりなにかおかしいが……この際は置いておこう。 問題は幻想の森自体の攻略と、それ以上に危険視すべき『同盟』を結んでいる世界樹海の魔女連隊の方だ。 魔女の恐ろしさは、今さら語るまでもないだろ」
「未だ数百年、誰も踏破した事のない世界樹海に住まう、人智を超えた者達。 その力はひとりで王国騎士団を相手にできる程だと聞いています」
「正確に言えば、魔女達は家から一歩も出る事無く、王国騎士団を全員呪い殺す事が出来る。 だが余程のことが無ければそんなことはしないだろう。 彼女らは恐ろしくもあり、そして非常に義理堅い存在でもある。 ただ、条約を破ったのが帝国側だと知れれば、そんな化け物共が文字通り飛んでやってくるだろうがな」
そんな冗談めかした言い方でさえ、その本質的な恐怖を取り除くことは出来ない。
アリーシャという最も魔女らしい魔女を知るルキウスは、その身をもって魔女という存在の恐ろしさを思い知っているからだ。
また、ルキウスが魔女の下で師事していたことを知るレイナも、神妙な面持ちで頷いた。
「確かに厳しい戦いになると予想できます。 幻想の森の守人と帝国軍が拮抗すれば、すぐにでも魔女連隊の攻撃を受けることになるでしょう」
「気取った王国の騎士を相手取り、笑って壊滅させるような連中だ。 多少交友的にしている帝国軍だからといって容赦するような相手じゃない。 あいつらの情に期待しているのなら、それは諦めたほうがいい」
「ボクは帝国軍人として命令されたのであれば、それを命がけでやり遂げて見せます。 それが祖父、レガド・レイズベルトの教えです」
忠告を跳ね除ける言葉が、室内の空気を切り裂いた。
その鋼のような意思は間違いなく祖父から引き継がれたものだろうとルキウスは確信していた。圧倒的不利な作戦であろうとも、それが決定されているのであれば全力を尽くす。それは軍に尽くし、軍で尽きる覚悟。鬼将と名高いレガドの意思を継ぎ、若くして師団長にまで上り詰めた麒麟児レイナ・レイズベルトは、この作戦にも身を捧げる覚悟なのだろう。
しかし、ルキウスは手元の手紙を握りつぶし――
「随分と立派な心意気だが、第二師団長ではなく――レイナ・レイズベルトは、どうしたいんだ?」
強要される事を隠れ蓑に、自分の意思を押し殺す事を、ルキウスは強さだとは認めていなかった。
命を奪う事を強要されるべきではない。奪うのであれば、自分の意思で奪うべきだ。それがルキウスが軍人として生きてきた人生で、唯一残された矜持。
押し付けられた使命と覚悟で戦う事は、相手への侮辱にあたる。相手を殺した意味を見出すため、殺した理由を見つけるためにもそれは許されざることだ。
「軍人の手本みたいな、なんの面白みもない回答は、正直どうでもいい」
「ボクは……」
「逃げたいのならそれでもいい。 戦いたいのならそれでもいいだろう。 だが、どちらにしても自分の弱さを理由に使うな。 それで死ぬ人間がいる事を、忘れるな」
ルキウスの見つめる先、レイナの偽りの仮面に亀裂が奔る。
厳格な家庭に生まれ、幼い頃から押し付けられた借り物の強さ。それをなんの疑いもなく振るい続けてきたレイナには、分からなくなっていた。ただそれが正しい事なのだと信じ込んできたのだから。
「俺は幻想の森に向かい、守人と話を付けてくる。 エルドの尻拭いをするのは癪だが、今回は非常事態だからな。 帝国に滅ばれちゃあ、こっちの目覚めが悪い」
ソファから腰を上げたルキウスは、俯くレイナの肩をそっと叩いた。
そこには仕事の関係を超えた、絆が存在した。
「ありがとう……ございます。 兄さん」
かつてより同じ人物に教育を受けた兄弟として、レイナは兄と慕うルキウスに頭を下げる。
「兄さんもよせ。 それに俺が動くのは、リカードやマリーの為でもある」
幾重もの死線を共に潜り抜けてきた戦友への弔い。そして復讐。
マリーとの約束を取り付けたはずのアリーシャも、幻想の森と同盟を結んでいる世界樹海の筆頭魔女でもある。ここで大規模な戦争へと突入すれば、アリーシャは否が応でも動かざるをえない。そうなればマリーの消えた両親を探すのは困難を極めるだろう。
戦友の無念を晴らす為。約束を守る為。あるいは兄弟の友人を守る為。ルキウスは出かける準備をするよう、使用人たちに指示を出す。
それが、想像を絶する戦いの幕開けになるとも知らずに。




