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戦役・事件

※年代順。カッコ内は時期



 大陸統一戦争(???~???)


 大陸帝国初代皇帝ボリス・ロマノフによって大陸統一がなされるまでの一連の戦争。この戦争によって大陸に数多くあった国家は悉く滅亡し、大陸は大陸帝国によって統一される。




 大陸帝国内戦(302~452)


 大陸帝国初にして最大の内戦で、150年戦争と呼ばれる場合もある。だが実際にはこの150年の間に発生した数多のの独立戦争の総称である。

 皇帝候補であったオリガ・マリュータ・ゲオルギによる壮大な兄弟喧嘩。独立宣言をしたキリス第二帝国による宣戦布告から、シレジア独立までが戦争期間とされる場合が多い。




 オストマルク独立戦争(372~373)


 大陸帝国内戦時に起きた戦争のひとつ。

 時の東大陸帝国皇帝ジョハル・ロマノフが布告した総督職解任・帝都召還命令を拒否したユーリ・フォン・ロマノフ=ヘルメスベルガー起こした独立戦争。僅か3ヶ月で終了した。




 シレジア伯爵の乱(450~452)


 東大陸帝国シレジア伯爵領で発生した反帝国運動。それが規模が大きくなり独立戦争となる。2年間の戦争によりシレジアは独立し、シレジア王国が誕生する。




 コシチューシコのクーデター未遂(454)


 国王と激しく対立した王国軍総司令官コシチューシコ元帥のクーデター未遂。国王暗殺に失敗し首謀者であるコシチューシコは元帥号剥奪の上、粛清された。




 マレク・シレジアによるシレジア拡張戦争(???~518)


 シレジア王国第2代国王マレク・シレジアによる外征。手当たり次第に戦争を吹っかけた結果広大な領土を手に入れるが、修復不可能なほど傷ついた外交関係も手に入れた。




 第一次シレジア分割戦争(560~562)


 シレジア王国と反シレジア同盟による戦争。四正面作戦を強いられたシレジア王国は領土の三分の二を奪われる大敗北を喫する。




 第二次シレジア分割戦争(572~573)


 領土回復を企図したシレジア王国による戦争。手始めにカールスバートに宣戦布告するも、カールスバートを守る名目で反シレジア同盟諸国はシレジアに宣戦布告。同盟諸国がカールスバートそっちのけで領土獲得に勤しんだ結果、シレジアは領土の半分を失った。



【本編開始後】



☆サラ・マリノフスカ撤退作戦(631年9月1日)


 ユゼフ・ワレサが初めて作戦立案をし成功させた作戦、と言うより喧嘩。

 この作戦によってサラ・マリノフスカの女子寮帰還を成し遂げ、さらにはセンプ・タルノフスキを退学させることに成功した。




☆カールスバート政変(632年1月8日)


 共和国軍大将エドヴァルト・ハーハによる軍事クーデター。大統領は殺害され、ハーハが暫定大統領に就任。東大陸帝国が工作していた。





☆シレジア=カールスバート戦争(632年1月28日~2月23日)


 政変によって権力の座に着いたハーハが自己の支持を集めるために行った戦争。シレジア王国が予想外に粘ったため東大陸帝国が仲介に入り両者痛み分けの形で白紙和平が結ばれる。

 東大陸帝国がハーハに唆した結果起こった戦争。




 コバリ会戦(632年1月28日~2月23日)


 シレジア=カールスバート戦争において行われた会戦。

 カールスバートが国境の町コバリを奪うことを企図し、それをシレジアが迎撃した形で起きた。参加兵力はシレジア軍3個師団、カールスバート5個師団。

 地形と数の差からシレジアが圧倒的に不利な立場にあったが、シレジア軍は多大な犠牲を出しつつもコバリ防衛に成功した。




 コバリ北の遭遇戦(632年2月3日~2月4日)


 シレジア=カールスバート戦争において行われた戦い。

 王女殺害を企図しシレジア国内に深く侵入したカールスバート騎兵隊と護衛の歩兵隊の戦いである。参加兵力はシレジア軍1個歩兵小隊、カールスバート軍騎兵十数騎。

 カールスバート軍は一度目の攻撃で成功させる予定だったが、ユゼフ・ワレサら護衛隊の活躍によって阻止され計画が破綻。時を待って二度目の攻撃を仕掛けようとしたものの、シレジア軍がカールスバート騎兵隊の拠点に攻撃を仕掛けてきたため部隊は全滅した。

 この戦いで武勲を立てたユゼフは第8級白鷲勲章が授与された。





☆ラスキノ独立戦争(636年8月15日~10月25日)


 東大陸帝国ラスキノ警備隊長ゲディミナス大佐が起こした反乱。シレジアとオストマルクの義勇軍が参加し本格的な戦争となった。

 2ヶ月の戦争によってラスキノ及びその周辺都市が独立を果たす。




 オゼルキ会戦(636年9月20日~10月25日)


 ラスキノ独立戦争において行われた会戦。名称は会戦だが、実態はオゼルキと言う都市を奪うために行われた攻防戦である。

 オゼルキに立て籠もる独立派に対して帝国軍がこれを撃滅せんとして起きた戦い。参加兵力は独立派1個師団、帝国軍5個師団。

 地形を有効に生かした独立派の防御戦によって、帝国軍司令官シュレメーテフ中将は積極攻勢を断念し、持久戦を展開。同時に部隊を2つに分け一方をラスキノ攻略へ向かわせた。

 義勇軍が増援を繰り出したためシュレメーテフは撤退、独立派が勝利した。




 ラスキノ攻防戦(636年9月24日~10月24日)


 ラスキノ独立戦争において行われた攻防戦。参加兵力は独立派1個連隊、帝国軍2個師団。

 独立派の作戦参謀代理ユゼフ・ワレサによって周到に構築された防衛線によって帝国軍は多大な出血を強いられ、最終的には4割の損害を出す。

 義勇軍側が増援を派遣したため帝国軍は撤退、独立派が勝利した。





☆大陸暦637年シレジア=東大陸帝国の戦役/春戦争(637年4月1日~6月14日)


 東大陸帝国の帝位継承問題に際して、皇帝イヴァンⅦ世が貴族の支持を集めるためにシレジア王国に対して侵攻を始めた戦争。通称「春戦争」

 事前に戦争を察知したシレジア王国は1月24日に動員令を布告し、戦時体制に移行。さらに在オストマルク大使館駐在武官による必死の情報収集によって、侵略軍の規模及び作戦が王国側に露呈した。

 さらに東大陸帝国は内部において皇帝派と皇太大甥派がいがみ合う中戦争に突入したのに対し、シレジア王国は国王派と大公派が一時的に休戦して挙国一致体制を敷くなど、王国は万全の態勢で以って戦争に突入した。

 シレジア王国軍の迎撃作戦を立案したのは、総合作戦本部高等参事官にして第一王女のエミリア・シレジア少佐。

 また、皇太大甥セルゲイ・ロマノフが初めて戦場に立った戦争でもある。


 6月14日のギニエ休戦協定でもって両軍の軍事行動が終結、シレジア側の勝利に終わった。




 ザレシエ会戦(637年4月1日)


 今戦争における最初の大規模会戦。ロコソフスキ元帥率いる帝国軍10個師団と、キシール元帥率いる王国軍8個師団がシレジア王国東部国境中南部のザレシエ平原において衝突した。

 序盤は帝国軍優位なるも、突出した前衛5個師団が王国軍に包囲されて壊滅。残る帝国軍本営も、戦力が半減していたため有効な手が打てず壊滅。

 王国軍の戦死者数約9200名に対し、帝国軍のそれは約9万2800名、さらにロコソフスキ元帥以下多くの将帥が戦死した。




 オスモラ会戦(637年4月1日~4月6日)


 バクーニン元帥率いる帝国軍10個師団と、ラクス大将率いる王国軍6個師団による会戦。

 帝国軍が優勢だったが、必死の防衛戦闘をする王国軍の前に全面攻勢に出れなずにいた。だが4月5日にザレシエ会戦において帝国軍敗北の報が伝わると、バクーニン元帥は北に転進することを決意。翌4月6日にそれは実行され、さらに王国軍は罠を警戒して追撃しなかかったため、勝敗有耶無耶のうちに戦闘が終了した。




 カレンネの森の戦い(637年4月14日~4月15日)


 グロモイコ上級大将が率い北上していた帝国軍5個師団を、キシール元帥率いる7個師団が迎撃した戦い。

 王国軍の待ち伏せを発見した帝国軍は、それを逆手にとって王国軍を誘い込む作戦を立案した。帝国軍は部隊を二つに分けたが、それは王国軍ヨギヘス中将の罠だった。分かれた部隊は各個撃破の憂き目に遭い、多くの帝国軍将兵が戦死もしくは投降した。




 ヤロスワフ攻防戦(637年4月3日~4月18日)


 ヤロスワフを攻略せんとする帝国軍10個師団と、それを阻止する王国軍3個師団の戦い。

 ラスキノ攻防戦の戦訓からこの攻防戦は自然に持久戦となったが、ザレシエ方面苦戦の情報を得た帝国軍は部隊を半分に分け、一方を北上させた。だが、その部隊がカレンネの森で戦いで惨敗し、さらに司令官グロモイコ上級大将が捕虜になったあげく武装解除命令までしてきたため、ヤロスワフ包囲軍の殆どは戦意を喪失して降伏した。

 カレンネの森の戦いとヤロスワフ攻防戦によって、シレジア王国は7万人の捕虜を獲得してしまい、結果的に兵站の負担を増大させてしまった。




 ウィグリ湖畔の戦い(637年4月6日~4月11日)


 シレジア王国北東部アテニ湖水地方にあるタルタク砦を巡って、キリエンコ大将率いる帝国軍10個師団と、クハルスキ中将率いる王国軍3個師団による戦い。

 地形の関係上、帝国軍はその数の有利を生かせずにいたため、王国軍優勢で事が運んでいた。だが、オスモラから転進してきた帝国軍バクーニン軍団10個師団が増援と駆けつけているとの情報を得ると、クハルスキはタルタク砦の放棄を決定した。

 王国軍は奇襲を繰り返して帝国軍の動きを受動的にした後、撤退を始めた。最後に残った王国軍1個師団が急速後退すると、帝国軍は一気に攻勢に出てタルタク砦を占拠した。だが王国軍の罠によって帝国軍占領部隊は混乱に陥り、2個師団が一時的に孤立してしまった。当然王国軍は逆攻勢に出て、帝国軍に出血を強いることに成功している。

 だが、帝国軍は当分の橋頭堡となるタルタク砦を奪取することに成功した。




 アテニの血戦(637年5月17日~)


 アテニ湖水地方に立て籠もる帝国軍25個師団と、王国軍18個師団の戦い。多くの小規模戦闘と、いくつかの中・大規模戦闘の総称である。

 ウィグリ湖畔の戦いをこの血戦に含めるか否かは、後世の歴史家の議論の的となっている。




 レギエル北街道の遭遇戦(637年5月17日)


 「アテニの血戦」開戦の銅鑼を鳴らした戦い。皇太大甥セルゲイ・ロマノフが初めて作戦を立案し、部隊を指揮した戦いでもある。

 王国軍の歩兵連隊はセルゲイの罠にかかり、多大な損害を出して潰走した。




 ギニエ北街道の遭遇戦(637年5月18日)


 王国軍インベル准将率いる1個旅団と、帝国軍セルゲイ少将率いる1個師団の戦い。インベル旅団は3割の損害を出して敗走した。




 セドランキ攻防戦(637年5月19日)


 王国軍クハルスキ軍団が駐屯するセドランキに対して、セルゲイ少将率いる1個師団が払暁奇襲を仕掛けた戦い。これによって王国軍は少なからぬ損害を受け、補給と補充を受けねばならなくなった。

 クハルスキの求めに応じて出動した王国軍輜重兵部隊が、同日夕刻にセルゲイ師団の側面攻撃を受け全滅。クハルスキ軍団が一時的に孤立してしまった。




 レギエル攻防戦(637年5月21日)


 王国軍キシール軍団の拠点レギエルを巡って起きた戦い。第一王女エミリアと皇太大甥セルゲイ・ロマノフが初めて戦場で対決した戦いとして有名。

 帝国軍は一連の戦いで王国軍の耳目をギニエ及びセドランキに集めさせ、レギエルが手薄になったところをセルゲイ師団が奇襲するという作戦だった。だがこれはエミリア少佐によって見抜かれており、逆にセルゲイ師団が半包囲されてしまった。

 結局レギエルに対する奇襲は失敗し、セルゲイ師団は4割の損害を出したが、それも秩序を持って撤退した。




 第一次ガドネ=ドルギエ会戦(637年5月21日)


 セルゲイ少将の作戦案に則り、ギニエに対する攻勢作戦を準備していたキリエンコ大将率いる帝国軍10個師団と、これを迎撃したラクス大将率いる王国軍6個師団の会戦。

 キリエンコは、傲慢な貴族指揮官を旗下に入れられていたため部隊を上手く統率できず、また王国軍ラクス大将の罠にまんまとかかってしまい、3割の損害を出して敗北してしまった。




 第二次ガドネ=ドルギエ会戦(637年5月25日)


 王国軍7個師団がタルタク砦を攻略戦と出動し、これを帝国軍12個師団が迎え撃った戦い。数の差が歴然としており、また帝国軍が重厚な防御陣を敷いたため、王国軍は4000の損害を出して敗北。その後戦線が膠着した。




 ヴァラヴィリエ後方補給基地奇襲作戦(637年6月5日~6月12日)


 帝国軍の後方補給基地たるヴァラヴィリエを奇襲するために、近衛師団第3騎兵連隊所属のサラ・マリノフスカらが立案した作戦。

 アテニ湖水地方を大きく時計回りに迂回、ラスキノ自由国領を通って東大陸帝国領に深く浸透し、ヴァラヴィリエを奇襲した。

 これによって帝国軍は物資欠乏状態に陥り、さらにはオストマルク帝国の非難声明が重なり急遽休戦の準備を始めた。




☆ベルクソン事件(637年3月20日)


 3月20日、オストマルク帝国で発生したクロスノ総督府襲撃事件に端を発する一連の事件。この事件をきっかけに、内務省と資源省の不正が発覚した。

 この事件終息後、オストマルク帝国外務省が東大陸帝国に対して非難声明を発表。春戦争終結の大きな一打となった。




☆マリノフスカ事件(637年8月20日)


 クラクフスキ公爵領で発生したサラ・マリノフスカに対する冤罪事件。カロル大公の謀略によって、王女暗殺未遂の容疑でサラが指名手配された。だが、サラの軍事的才幹とユゼフの策謀によって、カロルの企てを阻止した。




☆エドヴァルト・ハーハ暗殺未遂事件(637年10月27日)


 国内情勢が不安定になってきたカールスバート共和国で起きた暫定大統領暗殺未遂事件。ハーハ自身は軽傷で済んだが、大統領府は全焼した。そのため大統領府放火事件とも呼ばれる。

 共和国憲兵隊の発表によれば共和主義者の犯行ということになっている。


 真相は、東大陸帝国の陰謀によるもの。大陸統一において邪魔になったハーハを暗殺することが目的だった。




☆カールスバート内戦(637年10月29日~)


 エドヴァルト・ハーハ暗殺未遂事件を契機としたカールスバート共和国の内戦。現政権の国粋派、共和政復活を望む共和派、王政復古を狙う王権派の三つ巴の戦いとなった。

 また、シレジア王国が王権派を支援する目的でエミリア王女指揮する軍を派遣しており、オストマルク帝国も情報面、補給面でこれを支援している。




 レトナ国立公園の殲滅戦(637年11月15日)


 国粋派ヘルベルト・リーバル少将の策謀により、共和派が首都ソコロフ郊外のレトナ国立公園に集結させられ、これを国粋派が包囲殲滅した戦い。これにより、首都の共和派は一掃された。




 フラニッツェ会戦(637年11月26日)


 王権派の拠点カルビナを攻略せんと出動した国粋派バレシュ少将指揮する1個師団を、シレジア王国エミリア王女率いる1個師団が迎撃した会戦。

 ユゼフの策謀により戦力を2つに分けたバレシュ師団は、エミリア師団に側面を突かれ、数的不利のまま完全に後手に回る。

 数時間の戦闘によってバレシュ師団は壊滅。バレシュ少将は戦死し、王権派は3000名の捕虜を獲得した。




 オルミュッツ要塞攻防戦(637年12月2日~12月3日)


 エミリア師団が、国粋派の拠点であるオルミュッツ要塞を攻略せんとした戦い。

 ユゼフの策謀により、要塞守備隊が要塞を離れてしまい、また潜入していた工作員により正門が開け放たれてしまった。そのため早い段階で要塞攻略戦を行うことができたが、辞退に気付いた要塞司令官クドラーチェク少将が戻ってきたこと、要塞防御指揮官ハルバーチェク大佐の奮闘によって思いの外攻略に手間取ることになった。

 だがエミリア師団が苦心の末クドラーチェクを討ち捕ると、要塞守備隊は戦意を喪失し降伏、要塞は陥落した。




 ロシュティッツェ会戦(638年1月1日~1月3日)


 王権派の捕虜となったヘルベルト・リーバル中将を救うために動いた国粋派2個師団を、王権派3個師団が迎撃した戦い。

 当初は、消極的な攻勢と積極的な防衛によって長期戦の様相を呈していたが、1月3日にエミリア師団が国粋派2個師団の後背に出たため一気に国粋派が瓦解した。

 結果、王権派の完勝に終わる。




 スヴィナー会戦(638年2月14日~2月17日)


 カールスバート内戦における最大の会戦。国粋派・共和派連合軍10万と、王権派8万が衝突。

 連合軍総司令官はエドヴァルド・ハーハ大将。王権派はカレル・ツー・リヒノフ。2大派閥の首席が1つの戦場に相対したことでも有名。

 初日はハーハによる巧みな指揮と数的優勢を持つ連合軍が優勢であったが、2日目にユゼフ発案の「斜線陣」作戦にはまり、またシレジア王国軍の健闘もあって王権派が劣勢を覆す。その後も一進一退を繰り返したが、連合軍内部で不和が生じた。そのため、3日目の王権派の攻勢を連合軍が支えきれず戦線が崩壊。

 王権派は追撃戦に移行し、結果17日までそれが続いた。

 最終的に連合軍は壊滅。国粋派も共和派も戦力の大半を失ったために、内戦における王権派の勝利がほぼ確定した。




 オストマルク帝国軍による大規模軍事演習(638年2月19日)


 オストマルク帝国軍が、カールスバート国境にほど近いローアバッハにおいて実施した軍事演習。参加人数は「数万人」規模。

 これはオストマルク帝国による間接的な「カールスバートへの宣戦布告」「リヴォニア貴族連合によるカールスバート内戦介入の阻止」を目的としたもの。これによってカールスバート国粋派は外交的に孤立したのである。




 エドヴァルト・ハーハ暗殺事件(638年2月20日)


 スヴィナー会戦の敗北とオストマルク帝国軍大規模軍事演習によって敗北が確定した国粋派の幹部が、降伏するか否かを迷うハーハを暗殺した事件。

 これによってカールスバート軍事政権は幕を閉じ、首都ソコロフは無血開城され内戦が終結した。




☆ヴィクトル・ロマノフⅡ世亡命事件(大陸暦638年7月2日)


 東大陸帝国宰相セルゲイ・ロマノフによる大改革によって、ヴィクトル・ロマノフⅡ世の政治的立場が危うくなったことで起きた事件。

 シレジア王国に逃げ込んだのはヴィクトルⅡ世の他に、エレナ・ロマノワや彼女らに付き従う貴族や近侍の姿もあった。

 シレジア王国は外交上看過できないとして、エレナ・ロマノワの入国を拒否。代わりにキリス第二帝国へ亡命することに協力して、これが第七次キリス=オストマルク戦争の引き金になる。




☆第七次キリス=オストマルク戦争(大陸暦638年8月8日~)


 東大陸帝国の皇族ヴィクトル・ロマノフⅡ世一行のキリス第二帝国への亡命と、キリスとオストマルクの国境にあるハドリアノポリスで発生した暴動事件を契機とした、キリスとオストマルクの通算7回目の戦争。後に神聖ティレニア教皇国が南海東部の権益を巡ってオストマルク側に立って参戦する。

 また、ユゼフとサラが観戦武官として現地入りしている。




 カピタン平原の戦い(大陸暦638年8月8日)


 第七次戦争最初の正規軍同士の戦い。キリス中央軍5000に対してオストマルク帝国軍3000と比較的小規模だった。結果は数に勝るキリス中央軍の勝利。




 アセノフグラート会戦(8月8日~17日)


 キリス軍少将にして皇族のティベリウス・アナトリコン率いる1万がカピタン平原の戦いの後に、オストマルク領奥深くに侵攻した後に起きた一連の戦い。

 サロニカ守備隊から抽出した戦力5000の増援と、中央からの鐡甲重騎兵連隊カタフラクトの増援を受けたティベリウスは、その戦力を最大限生かしてオストマルク軍クライン軍団2万を撃破した。




 カロヤノ騎兵戦(8月19日~8月22日)


 敗北し、敵軍に包囲されたクライン軍団を救出するためにユゼフが立案した作戦。

 カロヤノに押し込められた敗残兵部隊を使って、牽制と追撃戦を仕掛けてきたキリス軍騎兵隊を無防備な輜重兵を囮としたことで、神出鬼没の騎兵隊を迎撃、撃破することに成功した。

 騎兵隊の壊滅と、補給上の問題、さらには帝国軍を過大評価したことによってキリス軍はクライン軍団の包囲を断念、戦線を後退させた。




 クレタ沖海戦(638年9月8日)


 南海東部権益を巡ってキリスと対立している神聖ティレニア教皇国と取引したオストマルク帝国が、ティレニアの教皇海軍レジア・マリーナと共に戦った海戦。

 オストマルク・ティレニア連合艦隊は数的優勢・地理的劣勢でキリス艦隊と交戦。ユゼフ発案の丁字戦法によって、前衛オストマルク艦隊がキリス艦隊中央に特攻して混乱させることに成功する。その混乱するキリス艦隊の背後からティレニア艦隊が猛撃を加え、キリス艦隊は壊滅的ダメージを受けた。


 この海戦の結果、エーゲ海におけるオストマルクとティレニアの優勢を確保する。




 セレスの戦い(638年9月29日~10月3日)


 キリス第二帝国から離反したティベリウス・アナトリコン率いる軍及びサロニカ守備隊が、オストマルク軍と交戦した戦い。

 帝国軍マテウス少将とライフアイゼン少将が指揮する軍隊が巧みな指揮で防御戦を演じる最中、サロニカ守備隊後方に帝国軍が上陸、10月3日にティベリウス軍後方にさらなる帝国軍の増援を得たことで決着がつき、ティベリウス軍は降伏。サロニカもオストマルク帝国の占領下に入った。




 ヘレス海峡海戦(638年10月30日)


 第七次戦争の趨勢を決めた戦い。オストマルク帝国グライコス艦隊とキリス第二帝国黒海艦隊が衝突した。

 参加艦艇数は両軍合わせて15隻と非常に小規模だが戦略的意義は非常に大きく「この海戦に勝てば戦争の勝者」と言える戦いでもあった。

 数的・質的劣勢であったグライコス艦隊だったが、ユゼフの奇抜な作戦と艦長らの巧みな操艦によって形勢は逆転。黒海艦隊は壊滅し、ここにオストマルク帝国の海上優勢権が確立した。

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