Act.4 特別な場所
その店は、俺にとって特別な場所だった。
悩みは特にない、煩わしいと思うことは少しばかりあれど、それが悩むということに至るまではない。
それでも、時々すべてを忘れて、一人でただぼんやりとする時間が欲しい。
そんな時、足が向かうのがその店だった。
「あれ?」
ようやく休み前の様々な仕事を片付け、家に帰ると電気がひとつもついていなかった。もう深夜となる時間だから、妻も子どもも寝てしまったのだろうとそれだけでは疑問に思うことはない。
では、なぜ自分が疑問符を言葉に出したかというと、手にかけた玄関のドアノブに鍵がかかっていたからだ。都会ならば考えられないことだが、自分の家では自分が帰宅するまで玄関の鍵は施錠されない。帰宅のたびに鍵を出すのは面倒だし、なりより田舎だ、隣近所知り合いと言っても過言ではなく、鍵をかけるのは、留守にするときやすべての家族が家に帰った後、夜眠るときだけだ。
防犯上やはりどうかと思うが、実家でもそうなので特に違和感はない。
仕方なく、普段は使わない鍵を使い、家の中に入ると物音ひとつしない静寂が待っていた。普段であれば、夜遅く帰ってくる自分を気遣って、妻は廊下の小さな灯りだけともしてくれている。その灯りさえ、今日はついていなかった。
いないのだ、妻も息子も。
時計を見ると夜十時を回っている。特に出かけるとは今朝妻は言っていなかった。
通勤かばんから携帯電話を取り出し、短縮の一番に電話をかける。何度か呼び出し音が鳴り、ようやく相手が電話に出た。
『もしもし』
電話の先から聞こえてきた声にほっと胸をなでおろす。電話に出れるということは、無事だということだ。
「家にいないようだけど、どこにいる?」
たまには妻も羽を伸ばしたいだろう、責めるつもりはなかった。ただ、一言連絡がほしかっただけだ。
『喫茶店にいるわ、いつもの。彼方も一緒よ。』
店内にいるからか、いつもよりも潜められた声で、妻は答えを返した。
いつもの喫茶店、その言葉にすぐにある店が頭に浮かんだ。妻とよく出かけた店だ。
「もう帰ってくるか?迎えに行こうか?」
田舎とはいえ、子どもと二人でこんな時間に暗い夜道を帰ることを心配してそう提案すると、息子が寝てしまったからそうしてほしいと告げられた。慌てて、家の中に入り、車の鍵を掴んだ。
通勤に車は使っていない。幸い駅は徒歩圏内で、会社も最寄り駅から歩いて行ける距離で車は必要なかった。妻はあまり車に乗らないので、さっき家に帰ったときに駐車場に車があるのは確認していた。
妻は他の交通機関で店に行ったのだ。
なんだかつい焦る気持ちになるのは、よく考えたら妻の行動に違和感があったからだ。
妻は夫である自分がいうのはどうかと思うが、比較的しっかりとした人間で常識もある。いつもであれば、出かけるときは連絡をくれるし、その上留守にするならば俺の食事を用意した上で家を出る。
しかし、今日は食卓の上にはなにも用意されていなかった。先ほど車の鍵を取りに行った際、それに気が付いた。
そして、なによりこんな時間まで息子を連れださない。実家の両親に頼むなり、妻の両親に頼むなり、普段であればきちんのそんなことまで気を回す。できた妻なのだ。
車に乗り込むと、手早くエンジンをかけ、アクセルを踏んだ。焦る気持ちを抑えながら、慎重に家から道路に出た。人一人歩いていない暗い夜道を車のライトが照らしている。
今、妻は何を思っている。
妻との出会いはよくあるものだった。知り合いの知り合い、そんな感じだった。
当時の俺は、今思い返してみれば最低な男だった。あっちにふらふら、こっちにふらふらと特定の人間を作らず、遊び呆けていた。
始めは妻もそんな女性の中の一人だった。でもすぐに、妻が他の女性とは違う何かを持っていることに気づいた。
妻は少し変わってた。それが面白いと思い、付き合い始めた。はじめはただの好奇心のようなものだった。付き合っても妻は特に変わることなく、自分と一定の距離を保つ、いうなれば都合のいい相手だった。
他の誰かと一緒にいても怒らない。文句を言わない。
約束を断っても、ただ頷くだけ。
デートに誘っても、妻は断ることもあった。
迫ってくる、甘えてくる人間ばかりの中、妻の存在は異色だった。ただ興味がないだけかと思えば、会えば嬉しそうにするし、笑うし、自分に好意があることは明白だった。でも、俺が他の女性と会っても、なにひとつ言わない。
始めはそれでよかったし、特に何にも妻に対して思っていなかった。
でもそのうち、妻と会っているとき、自分が息を吐けていることに気づき、だんだん妻に惹かれていることを感じた。妻の前では、ただの自分でいられた。飾らない自分でいられることに気づいた。
いつも、周りを気にしていた。自分自身では気づかないうちに、どこか自分を作っていた。いいように思われようとかっこつけていた。
それが妻の前では、そんな装飾一つつけないでいられる、息が吐けた、安心できた。どんな自分でも受け入れてくれるそんな感じがしたのだ。
まるで、妻はあの店と同じのように思えた。
なんだか疲れた時、俺には向かう場所があった。ただコーヒーを飲み、ぼんやりする場所。息を吐く場所。心の休憩の場所、そこと同じ空気を妻に感じたのだ。
だから、初めてその店に他の人間を連れて行った。そこは自分ひとりの場所だったはずなのに、そこにいるときは誰にも邪魔されたくない場所だったのに、妻だけは連れて行ってもいいと思ったのだ。
「ここ?」
駅前で待ち合わせて、二人で他愛もない話をしながら歩いて着いたのがその店だった。他の人間と比べて落ち着きのある彼女が、珍しく店の外観を見て驚いていた。俺がよく行くデート向けのおしゃれな店とはかなり雰囲気が違っていたからだろう。
「そう、ここ。たまに来るんだ。」
重厚な木でできた扉、磨りガラスの窓、派手な看板なく、ひっそりとある喫茶店。
俺は、戸惑っている彼女の手をひいて店内に入った。
「いらっしゃいませ。」
カランカランと扉についた鐘が鳴る。マスターが珍しく彼の定位置であるカウンターではなく、フロアに出ていた。店の中はコーヒーのいい香りがしている。
「こんにちは、テーブルいいですか?」
「ええ、どうぞ。」
声をかけた俺に、マスターににっこりと笑って答えた。俺は、彼女を促して壁際のテーブル席に向かう。
今日は休日だからか、客入りがこの店にしてはいい。テーブル席は俺たちですべてが埋まり、カウンターが2つ空いているだけだ。
椅子に座った彼女は、興味深そうに店内を見回していた。少し楽しそうに見える。
「悪くないだろう?」
そんな彼女をほほえましく思い、そう声をかける。
「ええ、雰囲気がある店ね。」
音楽も流れていない店内、少しばかりの観葉植物、飴色をした家具たち。彼女が嫌いではない雰囲気だと思ったら、案の定お気に召したようだ。
そんなところにマスターがお冷とおしぼりを持ってやってくる。レモンの入ったお冷、温かいおしぼりと順にテーブルに並べて、
「ご注文がお決まりになったら、お知らせください。」
と告げて、マスターは去っていく。いつも通りの隙のなさでちょっと安心する。
基本、自分が来るのは夜が多く、昼の店がどうだったか思い出せないくらい久しぶりに昼間にこの店に来たから、夜と変わらないマスターの態度にほっとする。
「レモンのお冷、すっきりしてるね。」
一口水を口に運んだ彼女は、そう言ってにっこりと笑った。俺は笑い返して、立てかけてあった皮の表紙のメニューを手に取り、テーブルに広げて、彼女に見せた。
「なににする?結構メニューあるよ、この店。」
定食、洋食、軽食まで20種類のほどある食事メニューを彼女に示すと、彼女は少し身を乗り出すようにしてメニューを覗き、そこに並ぶ文字を目で追っている。
そうして、ちょっと困ったような表情になった。そんな彼女を俺は小さく笑う。
どちらかというと即決型の彼女が、様々なラインナップに悩んでいるらしい。当たり前だ、喫茶店にも関わらず、この種類の豊富さだ。彼女に比べたら目移りするタイプに俺は、初めて来たときかなり悩んだものだ。
「味の保証もするよ。」
「さらに悩むようなこと言わないで・・・・。」
種類の多さに無難なところを選ぼうとしたのだろう、俺の言葉に彼女はさらに眉を下げる。
「あなたは何にするの?」
俺の選択を参考にしようと思ったのか、困った顔の彼女が尋ねる。
俺はふっと笑う。
「ハンバーグピラフ。」
「・・・?」
俺の答えに彼女は首を小さく傾げて、メニューに目を落とした。
「そんなメニューないみたいだけど・・・。」
一通り目を通したのだろう、俺が告げたメニューがそこにないことに気づいた彼女は、戸惑ったように告げる。
「うん、ないよ、そこには。特別メニューだから。」
「・・・特別メニュー?」
当然のように答えた俺に、彼女は俺を見つめて数回瞬きを繰り返す。
「そう、特別メニュー、食べたいもの言ったら、ここの人値段を交渉したら作ってくれるから。
俺は、今日はハンバーグとピラフにしようと。」
「・・・・・・えっと・・・、そんなことできるの?」
通常の店の常識から考えたら、ちょっと変わっている注文の仕方に、彼女は戸惑いを覚えたようだ。
「できる。結構来てるからとかじゃなくても、交渉次第だから、お前もそうする?」
「私も大丈夫なの?」
やっぱり俺が常連だからかと思っていたらしい彼女は、自分も勧められて、ちょっと考えこんだ。
目はメニューを追っている。
「デザート付きとかも頼める?」
戸惑いつつ、考えをまとめたようだ。彼女が聞いてくるので頷くと、
「じゃあ、少し小さめのオムライスにデザートとコーヒーとかも可能?」
彼女は希望を口に出した。そういえば彼女は小食だ、確かにこの店の一人前は彼女には多いかもしれない。
「ああ、そんな注文の仕方なら全然大丈夫だと思う。オムライスの量が減るだけだから。」
大した特別使用の内容ではなかったから、マスターは悩むこともなく、引き受けるだろう。悩むのは、俺の注文の方だ。
「すいません、注文いいですか。」
手を挙げて、カウンターのマスターを呼ぶ。気づいたマスタ―はメモを片手ににこやかに近づいてきた。
「お待たせしました、伺います。」
「まず、俺はピラフの上にハンバーグ載せて欲しいんですが・・・。」
俺の言葉に、マスターは少しだけ目を見開いて、考え込む。ピラフはメニューにないが、常連の一人がオムライスの中をピラフで作ってもらっていたのを知っていた。その上の選択だったのだが、どうだろうか。
「ハンバーグのソースは、デミグラスでいいですか?」
その後、小さく頷いたマスターがそう尋ねたので、頷くと、
「いくらお出しされますか?」
特別メニューを注文する際、必ず尋ねられることを聞かれたので、ここまでくればほぼ注文が通ったのと一緒だ。
「うーん、600円でどうです?量は多い方がうれしいな。」
「600円ですね、かしこまりました。そちらの方は、いかがなさいますか?」
ハンバーグは通常400円、サラダとスープにパンかごはん付である。大盛りが100円増しだから、妥当な値段かなと答えたら、マスターもそう思ったようですぐに頷いてくれた。
「えっと、」
彼女は注文を促され、本当に言っていいの?という感じで、俺を見る。
「オムライス少し小さめにして、デザートとコーヒー付とかできますか?」
仕方がないので、慣れている俺がマスターに告げると、
「セットメニューはそのままでいいですか?サラダとスープが付きますが・・・。」
量を減らしたいということを理解したマスターは、オムライスに通常セットされているサラダとスープは必要か尋ねていた。
どうすると今度は俺が彼女を見る。
「サラダだけつけていただいてもいいですか?」
「かしこまりました。お値段はそちらと同じ600円とさせて頂いてよいですか?」
小さな声でマスターを伺うように告げた彼女に、にっこりと笑ったマスターは次に値段を決めさせる。
「はい、かまいません。」
注文が通ったのが分かったのか、彼女もほっとしたように提示された値段で頷いた。これも妥当といえば妥当な値段だろう。
「では、準備します。お待ちください。」
二人分の注文を請け負ったマスターは、小さく礼をして去っていく。それを目で追って、彼女が俺を見た。
「緊張した。」
そうつぶやいて、ほっと息を吐いている。そんな彼女に俺は笑う。落ち着きのある彼女が、恥ずかしそうに微笑んでいるのが、珍しくてほほえましく思う。
「やってみたら、そうでもないだろう?」
「そうね。どんなのがくるか楽しみ。」
特別メニューを頼むのは、マスターが注文にどのように答えるか、それが面白い。
静かな店内で前回会ったときから、起こった他愛もない話をしながら少しの間待っていると、マスターが片手にお盆、片手に白い大き目のお皿を持ってやってきた。
「お待たせいたしました。オムライスです。」
お皿は彼女が頼んだオムライスのようだ。白いお皿の上には、とろとろの卵とデミグラスソースのオムライス。サイズは指示通り小さめで、皿の三分の一ほどには色とりどりの野菜サラダが添えられている。
「量を少な目にとのことでしたので、ワンプレートにさせていただきました。」
卵の黄色、レタスやキュウリの緑、トマトの赤、デミグラスソースの茶色と皿の中が、綺麗にまとめられており、見ただけでおいしそうだ。彼女も目の前の料理に目を輝かせている。
「そして、お客様にはまずはサラダとスープをお持ちいたしました。ピラフとハンバーグはすぐにお持ちいたします。」
それぞれのカトラリーと俺のセットのサラダ、スープをテーブルに置き、マスターは一度去っていく。
「洋食屋さんみたいなオムライスね、おいしそう。」
「俺のもすぐ来るみたいだから、食べなよ。」
喫茶店とは思えないクオリティの高さに、彼女は関心しているようだ。俺に勧められて、紙ナプキンの巻かれたスプーンを手に取って、嬉々として食べ始める。
「美味しい。」
一口食べて、また関心したように頷いて、呟いている。
「言ったろ、味の保証はするって。」
「本当ね、嘘じゃなかったわ。」
俺もサラダに手をつけながら、自慢するようにそう言葉を返すと、彼女はその言葉ににっこりと笑って頷く。
「お待たせいたしました、ピラフのハンバーグのせです。」
そんな会話をしているところに、マスターが俺のメイン料理を持ってきた。
「うわぁ、本当に上にのってる。」
いろんな色とりどりの食材が入っているピラフの上に、指示通りの通常より大き目のハンバーグがのったピラフが俺の目の前に置かれる。その様子に思わずといった感じで彼女が呟いている。
「デザートは後でお持ちいたします。食事が終わられましたら声をかけて下さい。」
そんな彼女にマスターはにっこりと笑って、そう言って去っていった。
マスターを見送ってからスプーンを手に取って、ハンバーグを割って食べると口の中に肉汁とデミグラスの濃くが広がる。
「うまい。」
いつ食べても確かな味である。
「ふふ。他では見かけない感じね。」
「まさに特別。あー、でも、目玉焼きのせてもらってもよかったか。」
ピラフは比較的あっさりとした味だが、デミグラスソースが濃厚だから少しこってりしている。
「ご飯はピラフだけど、そうなるとロコモコ風ね。」
「そうだよな。サラダを添えるとシシリアンライス風になるな。」
互いにもっと美味しくたべるためにアイデアを出す。ちなみにシシリアンライスは、ハンバーグではなく、甘辛ダレで炒めた牛肉とサラダをご飯の上にのせて、マヨネーズをかけたものだ。
「そうね、食べたことはないけど、そんな感じだよね。想像するだけで楽しい。」
彼女の楽しそうな表情に、こっちも楽しい気持ちになる。連れてよかったなと思う。
今度はどんなものが食べたいとか、こんなものもいいなどと話しながら、食事は進む。互いの料理を味見しあったりもした。これは二人で訪れたからできることでもある。
互いに料理を食べ終わり、デザートをお願いすると、
「わぁ。」
マスターの運んできたデザートに、彼女は声をあげて喜んでいる。小さなワッフルにアイスクリーム、フルーツソース、苺やブルーベリーなどが添えられた一皿だ。量は多くはないが、見た目が華やかで女性が好きそうな組み合わせだった。
あまり甘いものが得意ではない俺には、少量だがレモンシャーベットが提供された。そういえば彼女には伝えていなかったが、特別メニューを頼むと何かしらデザートが用意される。でも、コーヒーはついていないので、俺は別でホットコーヒーを頼んだ。それでも、1000円超えないのがこの店のいいところだ。
「すごい、これで600円なの?」
「さずがにすごいな。」
この店のコストパフォーマンスに、彼女は驚きぱなしだ。俺も、彼女にそんなデザートが来るとは想像していなかった。別にデザートまでつけてとは今まで希望したことがなかったから、どんなものが来るかは俺にもわからなかった。
「ご飯も食べれて、デザートもこんなにしっかりと。本当にいい店ね。」
にこにこと彼女はデザートを楽しむ。その上、この店の雰囲気はゆったりしているから、急かされるような様子もなく、食後のコーヒーものんびりと楽しんだ。
嬉しそうにデザートを食べ、いつになく楽しそうにはしゃぐ彼女に、俺は幸せを感じた。
初めて妻をそこに連れて行ってから、その店は俺たちのデートの定番の店になった。
妻は比較的静かなところを好むようで、あの喫茶店は妻にとっても心地が良い店のようだった。妻が店を気に入ってくれたことが、俺は嬉しかった。
妻が自分のテリトリーにいる、あの店に妻を連れていくことはある意味自分にとって妻に対する独占欲を満たすものだった。
自分はふらふらしているにも関わらず、俺は妻を独り占めしたいといつからか思っていた。
その欲が、あの店に妻といくことで少しだけ満たされていたのだ。
妻は、自分を独占しようという気持ちがないように思えた。諦めもあったのだろう、妻に出会ったとき何人も他の人間の影があった俺だ、そんな欲を見せても仕方がない、そんな思いもあったのだろう。
それでも、俺はいつまでもこのまま妻といたいと思っていた。このままの関係でいたいと思っていた。
お互いつかず離れず、一定の距離をもって、会えば穏やかに笑いあえるそんな関係でいたいと思っていた。
妻が妊娠を告げたとき、俺は、今までの自分に嫌気がさした。
妻は俺との結婚を望んでいなかった。ただ、産みたいとだけ俺に告げた。
認知してくれればと、ただそれだけ。
愕然とした、今までの自分の態度が妻にそう言わせたのだ。
本当ならば、こんな男のこと忘れて、他の男と幸せになるように諭すべきだったかもしれない。
こんな男のために、一人で子どもを育てるような苦労をするなと言うべきだったかもしれない。
随分悩んだ、自分と一緒になっても妻は幸せにはなれないだろう。少しでも幸せと思わせることができるだろうかと、自分に問いかけた。
でも、その時すでに、俺は妻の存在なしでは、生きられない、妻を手放せないそんな人間になっていた。
だから、自分のわがままとわかっていても、自分の意見を通すことにしたのだ。
あの日、あの時、あの店で、妻に言った言葉を嘘にしない。
そう心に誓ったのだ。
コインパーキングに車を停めると、足早に店に向かった。さすがのあの店ももうそろそろ閉店する時間だろう。いつからいつまで営業しているか不明とはいえ、こんな深夜になろうかという時間である。
夏の終わり、夜は少し寒く感じる。昼間は上着を着ていることが苦痛で仕方ないが、今の時間は丁度よかった。
店の窓から、人通りのない道に光が差している。その光を見て、少しほっとした。
木でできた重みのある扉を開けると、コーヒーの良い匂いが漂ってきた。
「いらっしゃいませ。」
マスターの心地よい声が聞こえる。こんな時間でもその声からは疲れを感じない。
店内を見回すと妻の姿をすぐに見つけた。窓際のテーブル席、静かにそこにいた。この店になんの違和感もなく、ずっとそこにあるようなそんな雰囲気で、妻はそこに座っていた。
目の前の席に座ると、窓に向けていた視線をこちらに向ける。
「今日も遅かったのね。」
小さな苦笑のような表情を浮かべて、妻は俺にそう声をかけた。彼女はいつでも静かで穏やかだが、今日はいつも以上にどこか柔らかな雰囲気をその身に纏っていた。
「週末だから、仕方ない。彼方は?」
妻の口調が自分を責めるような感じはしなかったので、肩をすくめて見せ、そう問いかけると妻は自分の下に視線を向けた。どうやら、息子は彼女の膝枕で眠っているようだ。少し体を横にずらすと息子の足が見えたので、息子はそこにいるのだろう。
「食事は?もう済ませたのか?」
そう尋ねてから、随分当たり前のことを聞いたと後悔する。お腹を空かせた息子が空腹のまま黙って眠るはずもないし、第一こんな時間だ、済ませているに決まっていた。それでも、俺にそう尋ねさせたのは、今日の妻の雰囲気がどことなく、現実身のない感じがしたからだ。まるで食事も睡眠も必要としない幻のようなそんな不思議な存在のように感じたからだ。
「ええ。先に頂きました。」
当然、妻は頷いた。
「帰るか?もう遅い、俺は家でなにか食べるよ。」
妻は手作りの料理を出すことが多いが、家に即席でできる食べ物がないわけではない。無理を言うつもりはなかったので、今日はそれでいいかと納得したのだが、
「彼方も寝てるから、あなたもここで食べて帰ったら?」
妻は家に食事を用意していないことを負い目を感じたのか、そう提案してきた。
「もうこんな時間だから、ここも閉まるじゃないか?」
ちらりとカウンターの中にいるマスターを盗み見る。マスターは食器を洗っているようだった。
「他にお客さんまだいるし、・・・・ちょっと話したいこともあるから。
よかったら、食べていって。」
躊躇った俺に、妻は再び食事をするように勧める。
「話したいこと?」
それよりも気になったのは、妻の他の言葉だった。
「そう、話したいことがあるの。」
「家ではダメなのか?」
大事な話ならば、落ち着いて聞きたいとそんな思いで問うが、妻はここがいいのと呟いて、俺を見た。
妻がこんな風に自分の意見を押し通すのは珍しい。流されやすいというわけではない。意思はしっかりしている方だが、人を思いやることができる妻だから、一方的に主張することはほどんどしない。
「わかった。じゃあ、そうする。」
そうしたいならば、今日は俺が折れようと思った。カウンターの中のマスターを、手を挙げて呼ぶ。
「今から食事しても大丈夫?」
「大丈夫ですよ。何になさいますか?」
時間が遅いし、ラストオーダーが終わっているんじゃないかと思ったが、マスターは快く引き受けてくれた。
「こんな時間だし、何か軽いものでいいんだけど。
そうだな、ホットサンドとスープかなにかもらえる?」
あまり手の込んだものは迷惑になるだろうと、この店のメニューを思い出しつつ、お願いする。今から、ご飯ものを食べていたら、胃がもたれそうな気がしたし、残業中に多少は食事とはいえないがお腹には入れていたので、そこまで空腹ではなかった。
「わかりました。」
マスターは頷いて、俺の前にお冷を置いて、去って行った。ホットサンドとスープというセットは、メニューにないが、マスターは俺たちの雰囲気を察したのか、通常であれば聞くはずの値段について、今日は聞かなかった。それでいい、この店でびっくりするような値段を請求されることはないだろうし、今はそんなことをきかれたくなかった。
「それで、話って?」
マスターは手際がいいから、そんなに待たずに来るだろう。妻に話を促すと、
「食事が来たら、話すわ。」
そう告げて俺の顔から視線を下げて、口を閉じた。その行動でいい話ではないかもしれないと思う。
話しにくい、言いたくない、そんな話なのか。でも、俺には話の内容が想像つかなかった。
程よい距離を保って、うまく生活できていたように思うからだ。
マスターの持ってきたお冷を一口だけ口に運び、テーブルに戻してグラスを撫でる。
今までなにも言わなかったが、何か許せないことでもあったのか、我慢できないことがあったのか。
妻は、いつでも穏やかに笑っていたように俺には見えた。不満があるようには見えなかった。
料理を待つ間、互いに沈黙していた。それでも気づまりだと思わなかったのは、これまで二人で築いてきた信頼関係の証のように思う。話さなくても、声に出さなくても、空気でなにかが伝わる、そんな感じ。
こんな沈黙を俺たちはいくつも越えてきた。
「お待たせしました。ホットサンドとコンソメスープです。」
「ありがとう。」
やはりそう待たないうちに料理が届いた。四つに切られたホットサンドと深皿に入った黄金色のコンソメスープ。おいしそうだ。俺がマスターにお礼を言うと、ぺこりと小さく頭を下げて、マスターはカウンターに戻っていく。無言だった。
妻を見ると、妻も俺を見ていた。そうして、片手を上に向けて、俺に食べるように促した。
俺は小さく頷いて、ホットサンドを口に運んだ。こんがりと焼けたパンとチーズを挟んだ卵、レタス。シンプルだが、とても食欲をそそる匂いがしていた。
一つ食べて、スープを飲んだ。忘れていた空腹を思い出されるような、ほっとする優しい味だった。
一息ついて、妻を見る。
静かな眼差しで、妻は食事をする俺を見ていた。
「それで?」
二つ目のホットサンドを手に取り、問いかける。
妻は小さく頷いて、ようやく口を開いた。
「平田さんという女性に会ったわ。」
「平田?」
妻の言い方からして、妻の知り合いではないのだろう。少し考えるが、覚えがない。
「綺麗な方だった。」
妻は、思い出すかのように視線を上に向けてそう俺に告げた。
俺は、そうなんだと答えて、ホットサンドを口に運んだ。
「彼女、私にあなたと別れて欲しいといったわ。」
その言葉に、ホットサンドにかぶりつこうとしていた手が止まった。
妻を見る。
妻の目には、何の感情も感じられない。ただ、俺を見ていた。
「・・・意味が分からない。平田?・・・・。」
ただ、困惑した。そんなことを妻に言う人間が、思い当たらない。嘘ではなく、本心だった。
結婚前は、不誠実だったと自分で分かっているが、そういう相手は妻と結婚する際、すべて別れていた。
「そう名乗ったわ。覚えがないの?」
妻も俺の表情を見て、心当たりがないことを感じたのだろう。少しだけ不思議そうな顔をして、首を傾げた。
「ないな。平田・・・・・、他の部署にいたか?取引先・・?」
もちろん、仕事上いろんな人間に知り合いはいるが、そんな思わせぶりな態度をとった覚えもなければ、言い寄った覚えもない。ましてや、肉体関係になった人間なんて、妻と結婚して以来ない。潔白も潔白だ。
「嘘ではない・・・、そう見えるわ。」
伊達に数年夫婦ではない、妻だって俺が嘘をつく時の癖やしぐさを知っているだろう。少しだけ疑っているような目はしていたが、嘘をついているようには感じられなかったのだろう。今度は妻が困惑している。
「言っとくけど、結婚して以来浮気したことないぞ。信じるか信じないかは、お前の好きにすればいいけど。」
「・・・・・。」
結婚前が結婚前だ、俺自身も簡単に信じてもらえるとは思っていないが、一応主張しておく。少しずつでも結婚生活を続ける中で、信じてもらう努力をするつもりだ。何年かかったとしても、それは心に決めている。
「あの時、ここで約束したこと、覚えているか?」
手に持ったホットサンドを、一度皿に戻し、妻をしっかりと見て問いかける。
妻は少しだけ視線を迷わせたあと、俺を見て頷いた。
「覚えているわ。忘れたことなんてない。」
「なら、ちゃんと言うよ、俺から。
相手なんかに言わせない。俺がちゃんと言うよ。万が一そんなやつができたら。
だから・・・」
他の人間が言うことなんて気に留めるな、優季。
そんな日、こないと俺が一番わかっているけど、お前がそう望むなら約束する。
あの日、結婚を決めたあの日、
結婚してほしいと言った俺に、優季は、妻は俺に言った。
「じゃあ、ほかに結婚したい人ができたら、ちゃんと素直に言って。
嘘偽りなく、私に伝えて。
私はあなたを縛りたいわけじゃないの。」
分かっている、妻に自分が信じられていないことなんて、自分が一番分かっている。
結婚するときに、そんな約束を求められるくらいだ。
でもこれだけは、嘘偽りなく言える。
本当は、お前を縛りたいは俺の方だってこと。
お前に依存しているのは俺の方だってこと。
お前がいないと、生きていけないのは俺の方だってこと。
なあ、優季。
知っていたか。
息子を抱え、店を出る。
会計を済ませた妻が出てくるのを、店の前でしばらく待つ。すっかり辺りに人通りはない。どこまでも静かだった。
からん、からんと鐘が鳴り、妻が出てきた。
「車、あっちの駐車場に停めたから。」
ちらりと妻を見て、歩き出す。妻は、小さく頷いた。
ゆっくりと歩く俺の隣で、妻が呟くように告げた。
「ごめんね。」
俺は首を振って、それに答えた。
「いいんだ。疲れたろ、早く帰ろう。」
その店は特別な場所。
妻との約束を交わした、大切な場所。
俺に家族を与えてくれた場所。
誤字・脱字は見逃してくださると幸いです。
ちょっと納得できない部分があるので、そのうち訂正をするかもしれません。