表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

Act.1 私の癒し

30をいくつか過ぎれば、独身であることに引け目を感じることもある。でも、今の時代結婚しない人はいくらでもいるし、幸い両親もまだまだ元気で焦ることはないと思っている。


それでも、会社の若い子が寿退社するたび、また先にいかれたなと悔しい気持ちになる。同時にせっかく使えるようになったのにまた違う子を育ててなきゃと残念な思いを抱く。


女、35歳、独身、彼氏なし。








「斎藤さん、これどうしたらいいですか?」

「え、なに?」

物思いにふけっている暇は、月末の私にはない。とりあえず仕事をさばくさばくさばく、それだけ。そんな中、後輩の指導もしないといけない。猫の手も借りたい今日この頃。今話かけてきたのは入社2年目少しずつ仕事を覚えてきた後輩。。わからないことがあれば積極的に聞いてくる仕事を覚えようという気持ちがあっていいと思うが、少しは自分で考えることもしないとねとおもうこともある。言わないけどね。

「あー、これ。また大雑把な資料作ったな、あの人。これじゃあ出せないですね、ここに・・・」

今度の会議で使う資料、大本は手抜きが多い上司が作ったようだ。まったく完成がほど遠い。それをまともにするのも私たちの仕事だが、あの上司のこうゆう事務作業に対する雑さはいただけない。

「はい、そうします。ありがとうございます。」

ぱぱっと指示を出して、資料の訂正をするようにいうとお礼を言って、後輩は自分の席に戻っていく。ちゃんとお礼を言うだけこの子はましかと思う。聞くだけ聞いて無言で去る後輩もいるから、まだ優秀な方だ。少し時間は取られたが、まだお昼まで時間はある、午前中のうちに今やっている仕事だけでも片づけたい。

さあ、集中するぞと思ってパソコンに向かった瞬間、目の前の内線が鳴る。

「はい、斎藤です。」

咄嗟に取ったが、相手の内線番号を見て、内心ため息をつく。これはまずい、お昼遅くなるかもとある意味覚悟を決めた。

『お疲れ様です、受付の仲原です。お客様がお見えです、北丸商事の田中様です。』

「お疲れ様です。田中様ですか・・・。」

相手は受付だった、通常はあまり来客がない部門なのだが、それでも数人は会う必要のあるお客が私にはいる。約束はしてなかったが、近くを通ったのだろう。

「すぐ、降ります。2階の・・・205は今使用してます?」

『205ですか・・・、少しお待ちください。』

お客を通す部屋が空室であることを確認して、案内を頼む。近くの同僚に少し席を離れることを告げ、急ぎ足で5階から2階に降りる。エレベーターを待つのも惜しいし、省エネにうるさい時代の流れで社員は極力階段を使用することを勧められているため、階段を見苦しくない程度に駆け降りる。






案の定、定時には昼休みに入れなかった。

お客は大した用件ではなかったが、話し好きで捕まると長かった。それとなく多忙であることを告げるのだが、なかなか帰らない。これも仕事だと思い、表情が引きつっていないことを願いながら対応した。

上手く短めに切り上げることができないから、私もまだまだスキルが足りないということだろう。

急ぎ足でオフィスに戻り、食事が終えて席で仮眠をしている男性同僚に一声かけ、財布だけ手に持って、会社を出る。朝、出かける準備をしつつ片手間でなにか詰めてくることもあるが、今日はそうではなかった。他の同僚はもう食事を終えている頃だろうし、一人でどこかに入るなりして何かお腹に入れないと古午後からの業務に支障がでる。

同僚とお昼を一緒にできないときに向かう場所は、実は決まっている。そう回数は多くないのだが、いつも一緒に食事をしている同期は、他の課ですれ違うことも少なくない。同世代の女性は同じ課には実はおらず、年齢が少し上だったり、少し下だったりする。

年齢が上である人物は、一度結婚を理由に退職したものの離婚し、子どもを育てるために再雇用された人間で、中学生の子どもためにお弁当を作っているため自身もお弁当を持ってきている。そのため、会社内で食べることが多く外食に付き合ってはくれない。

年齢が下の人間は、数人いるのだが他の課と合わせてみんな集まって、がやがやとはやりの料理店めぐりを楽しんでいるらしい。おしゃれなカフェや安くておいしいイタリアン、比較的若者向けのお店を回っているようで、同僚が捕まらないとき何度が一緒に行ったが、おしゃべりの多さと会話の内容についていけず、あちらも一応上司にあたる自分がいると休憩にならないと思ったのか、最近はご無沙汰している。もちろん月に数度は誘ってくれるのだが、私も彼女たち相手だと仕事モードが抜けず、息を吐けないので遠慮している。

少し前までは一人だけ同じ課に同期がいたのだが、私にとっては最後の砦だったといえる彼女が、夫の単身赴任をよしとせず、すっぱりと会社を辞め、自身も夫について海外に行ってしまったから、私は一段と一人ランチをすることが増えてしまった。私の会社では肩身が狭い年代なのだ。もともと就職難真っ只中で同期入社が少ない、イコール、一人辞めれば他の年代に比べて比率が特に低くなる悪循環。

まあ、そんなに一人でいることが苦にならないタイプなのでどうにかやっていけてると思っている。

さて、一人ランチのとき、大半お世話になる店は会社から歩いて10分もかからない、小さなお店である。

大通りから一歩はずれた小さな裏通りに、店名を書かれた看板を言うものは掲げてない。

目に留まりにくく、大半の人がそこに店があることに気づかず、通り過ぎる。

その店を私が見つけたのは、ちょっと不幸な偶然からだった。




それは、まだ私が会社に入社して2~3年ほどしか経っていない頃のこと。

その日は一緒に食事をしている同じ課の同期が、季節はずれの風邪で休んでいた。他の課の同期も営業にでていて、社内におらず、仕方なく近くのコンビニで買い、お弁当持参の同僚に混ぜてもらおうかと外出した。

コンビニまで大した距離はにないのだが、その途中通り雨にあい、近くの軒先に駆けこんだ。

「さっきまで晴れていたのに・・・。」

天気予報でも雨の予想はなかった。その上大した距離ではないからと財布しか手にしておらず、傘のない私は途方に暮れた。空ではごろごろと雷が鳴っている。すぐにはやみそうにない雨で、小雨ならまだしも結構な強さの雨。

どうしようかと辺りを見回したとき、自分が雨宿りしている建物がなにかのお店であることに気づいた。

扉にCaféの文字、そしてopenの小さな木の吊り看板。

喫茶店のようだ。

そっと磨りガラスの窓から店内を覗き込むと、窓際に二つの人影がある。

(どうしよう。)

私は少しの間考え込んだ。なんだか古めかしいし、入りずらい。その上、自分は一人。

今の私ならば、お一人様もできないことはない。しかし、当時20代半ばの私には、かなり勇気のいることだった。

ぎゅっと手に持つ財布を握り、もう一度空を見上げる。

雨はまだ降っている。待っていても数分程度ではおそらく止まない。なにかお腹に入れないと、戻っても仕事にならない。

怖気づく自分の心を叱咤して、そっと、目の前の扉を押した。

「いらっしゃいませ。」

静かに店員の声が響いた。店の外観から想像していた店主よりも20は若い店員だった。

ドアに手をかけたまま、私は小さく会釈をし、

「あの、なにか食事できるメニューはありますか?」

そうカウンターの中にいる店員に尋ねた。

「ございますよ。」

店員は柔らかく笑ってそう告げた。ほっと息を吐く。

勇気を出して、中に入ったのに食べ物がなければ意味がない。

「雨が降ってきましたか?今、タオルをお出しします。」

「あ・・・。」

私の髪や服を濡らしている雨に気づいた店員は、素早くカウンターを出て私に大き目のタオルを差し出した。

「ありがとうございます。」

私はタオルを受け取って、手や髪など気になる部分を拭く。

「カウンターでよろしいですか?」

「あ、はい。」

反射的に答えて、しまったと思う。一人とは言え、テーブル席の方が気を使わないかもと思ったからだ。

そう考えて、店内を改めて見回すと四人掛けのテーブル席は四つ、カウンターは10席にも満たない小さな店。

私は店員に案内されて、恐る恐るカウンターの真ん中の椅子に腰かけた。古めかしい飴色をした少し重めの木で作られた椅子だった。

お客は私の他に、窓から姿が見えた窓際の2人組のみ。

「フードのメニューは、2ページ目にございます。」

店員がメニューとお冷を私の前に置いた。

「ありがとうございます。」

メニューを手に取った私は、言われた通りに2ページ目を開く。

そして、驚いた。こんな小さなお店で、昔ながらの喫茶店という感じなのに、そこには20種類近い料理名が並んでいたからだ。

なぜか喫茶店には似合わない生姜焼き定食まである。

その定食の文字に思わず笑ってしまった。

「ふふ、定食なんてあるんですね。」

積極的に店員と会話する気なんてなかったのに、つい話かけてしまった。

少し私から離れたカウンターの中で、お皿を拭いていた店員は私の問いかけににこりと笑う。

「お好きな方がいらっしゃいまして、各種揃えてみたんですよ。」

「そうなんですね、でも、どうしようかな。」

片手で髪についた水分を拭き取りながら、片手でメニューの文字をなぞる。

そして、気づいた。

メニュー名の横に書かれた価格の、ファミレスような安さに。

「え、ラザニアが450円?小さいんですか?」

グラタンならどこにでもあると思うが、ラザニアである。都会ならまだしもこんな田舎では、イタリアンのお店でも置いているところは少ない。にもかかわらず、この金額。せめて7~800円は通常するのではないだろうか。

「ん~、どうでしょうか。」

そう答えた店員は、カウンターの下から器を出して、これでお出ししますと私に見せてくれた。

通常の白いグラタン皿のサイズだ。楕円形をした20センチほどのもので、普通のサイズと言える。

「この値段ですよ?」

「ええ、その値段でこのサイズです。もう少し大きいほうがよければ、100円増しでお作りできますが・・。」

驚く私に、店員は小さいと感じたと思ったのかそう告げたが、いや十分すぎる量である。

もちろん、示された皿一杯にラザニアが作られるならばであるが。

「いえ、大きさはいいんですけど・・・。じゃあ、そのラザニアをください。」

値段が値段だ、これで皿にぺらりと出てきてもいいかと思い、注文する。

最近では、冷凍食品でラザニアが商品として出ているが、当時はそういうものもあまり見かけず、名前とどんなものかは知っていたが、実は食べたことがなかった私は、一度食べてみたいと思っていた。

「少しお時間かかりますが、よろしいですか?」

ちらりと携帯を覗いた私は、店員のその問いに頷いた。職場からは定時に出てきた。十分焼き上がりの時間を待てる余裕があった。

とりあえず、何かをお腹に入れられることがわかった私は、ほっと息を吐く。

粗方濡れた服や髪も、借りたタオルで拭くことができ、ようやく出されたお冷に手をかける。口に含むとレモンの香りがした。

手が行き届いている、カウンターもピカピカに拭き上げられており、埃ひとつない。

カウンターの上には、小さなコップに入った野花、ガラスの容器に入った塩と胡椒、白い紙袋の爪楊枝。

カウンターの後ろの飾り棚には、陶器や磁器のコーヒーカップが並んでいる。

カウンター席のお客の声は、内容が聞き取れないくらいの声量で、あとは、店員の料理をする音だけする店内。萎縮してしまいそうな様子だが、そんな雰囲気はこの店にない。

ただゆっくりと時間が流れる、ただそれだけ。居心地は悪くないとその時の私は感じた。

借りたタオルを畳んで、カウンターの上に置いた。店員は今ラザニアを焼き始めたようだ。手際は悪くない。そんなに待たずに料理はでてきそうだ。

「失礼します。」

店内を観察していた私の前に、ラザニアの仕込みを終えた店員が、紙ナプキンで包まれたスプーンとフォークを運んできた。それと一緒にカウンターに置かれたのは、小さなガラスの器に盛られたサラダであった。

「ランチの時間は、こちらのサラダがどの料理にも一緒にお出ししております。

お料理はもうしばらくかかりますので、もうしばらくお待ちください。」

彼の告げた言葉に驚かないわけがない。何度も思うが、あの値段である。

いくらランチは、どの店もサービスをしているとはいえ、ただでさえ手のかかる料理であるし価格からも他になにかセットされているとは思っていなかった。

目の前に置かれたサラダを眺める。レタスの上にかけられた液体が少し白く見えるから、おそらくフレンチドレッシングがかけられているのだろう。レタス、櫛形のトマト、キュウリの三種類のシンプルなサラダであるが、盛られてそんなに時間が経っていないのだろう。つやつや光り輝いてみえた。

「いただきます。」

店員は、驚く私の尻目にあっさりとサラダを置いて、静かに去っていった。

小さく食事の前の挨拶を無意識に呟いて、綺麗に巻かれたフォークの紙ナプキンを外し、まずレタスを口に運んだ。

シャキシャキしていて、見た目からの想像通り新鮮なものだ。ドレッシングも多すぎず、少なすぎず丁度よい量をかけられている。この時点で、この店かなり大当たりの店であると私は理解した。

ただ何か食べれればいいと思っていた。店に入る際、味や雰囲気など全く期待していなかったのだ。

古い外観だし、ランチの時間にも関わらずお客は少ない。少し割高で味はそこそこ、小さな店であるからフードのメニューは少なく、メインはコーヒーなどの飲み物だろうと想像していたのだ。フードはあっても、サンドイッチなにかの軽食が関の山だろうと思い、財布には痛いけど、そんなものでも食べれるだけまし、少しだけでも空腹の胃に何かを入れ、午後から仕事ができればいいと。幸い自分は女だし、大食いではないから軽食程度でもお腹は満たされるなんて思っていた。

でも、お店に入ってみれば、店員は苦にならない距離で接し、フードのメニューは迷うほどあるし、店内は手が行き届き不快に感じるものが存在しない、なんだかほっと息を吐ける雰囲気が流れている。

居心地の悪い店って、実は自分が想像していた以上に多い。店員の態度が悪かったり、お客の質が悪かったり、なんでという料理を出す店、20年ちょっと生きている中で何店舗もそんな店に入った。

でも入ったからには注文したものを我慢して食べ、会計をして今日の店ははずれだったなって思いながら、その店を出るしかない。

でも、この店は今のところ、そんな不快に思うことが一つもない。雨に打たれた私に柔らかなタオルを差出し、気遣ってくれた。お一人様の私に快く受け入れくれた。もちろん、お客が少ないという理由もあるだろうが、お一人様を嫌うお店って結構ある。お一人様が入りずらい店って結構ある。

この店はそんなところが一切ない。どなたでもどうぞ、ごゆっくりとお寛ぎくださいという印象だ。

なんだか私は楽しくなってきた、こんな店まだまだ知らないだけであったんだと、これからは勇気を出して行ったことのない店に入ってみるものいいかもしれないと少しだけ希望をもてた。

そんなことを考えながら、サラダを食べ終えた私の前に、店員が運んできたのはチーズがきつね色に焦げた、さっき見せてもらったグラタン皿だ。この店に私が抱いた印象通り、嘘偽りがないほど皿に満杯の量のラザニアがそこにはあった。

私は笑った。幸せな気分になった。店に抱いた思いを裏切られないってこんなに嬉しいことなんだって、そんなにたくさんまだ生きていないけど、人生で初めて知った。

今度はスプーンを手に持ち、綺麗に焦がれたチーズを割って人生で初めて食べるラザニアを掬った。つるりと逃げる四角いパスタに小さく笑う。ミートソースとホワイトソースをまとったそのパスタを口に運ぶと、しっかりとお肉の味がするソースと濃厚なクリームを舌で感じた。塩気も問題ない。

「おいしい。」

なんとなく料理の想像は、見た目や人からの話からあったのだが、その想像を超えた料理のプロの味だ。

その上、私は見つけてしまった。実はこのラザニア、ミートソースとホワイトソースの他に、味をくどくしないためにバジルソースの層があることと、ホワイトソースにブロッコリーやニンジンなど混ぜてあること。

あまりのおいしさにぺろりと食べてしまった。お皿についたソースさえ、綺麗に食べてしまった。

お冷を口に運びながら、携帯の画面で時間を確認するとまだ少し余裕があった。メニューを手に取り、中を眺めると3ページ目にデザートが書かれてあった。アイス、ケーキ、ゼリーとそんなに量はなかったが、温かいものを食べたので何か冷たいものを思い、バニラアイスとコーヒーを頼んだ。値段は大したものではない。先ほどのラザニアと合わせても1000円からおつりがくる。

どちらもそんなに手間がかからないのか、すぐに出てきた。

いつの間にか店内には、私しかいない。でも、焦る気持ちなんか湧かなかった。ゆっくりしても大丈夫、この店はその期待を裏切らない。

初めて訪れた店にも関わらず、それは確信できた。

「お待たせいたしました。」

出されたのは花柄の磁器に入ったコーヒーと、透明のこれまた花の切込みの入った器に盛られたバニラアイス。バニラアイスにはミントとブルーべりー、生クリームが添えてあった。

やっぱり、期待を裏切らない。

ゆっくりと時間をかけて、デザートを楽しんだ。深い香りのするコーヒーは一滴残らず飲んだ。

お腹が一杯。

「ご馳走さまでした、おいくらですか?」

レジ台の前に立ってそう告げると、にこりと店員は笑う。

「お口に合いましたら幸いです。」

「初めてラザニアを頂きました。想像以上においしかったです。」

それはよかったと店員はもっと深く笑って、金額を口にした。

その金額に首を傾げた私に、店員は告げる。初めてお越しいただいたお客様にはコーヒーを一杯無料で提供していますと。

私は笑った、この店、本当に大当たりだ。間違いない。そんなサービスまでしているなんて、私は可笑しくて仕方なかった。

お店の心意気に感謝して、言われた金額を支払う。

「またのお越しをお待ちしております。」

店員のその言葉を背に、ご馳走様でしたともう一度告げて私は店を出た。見上げた空は、雲一つない青空。この店に入る前は、あんなに降っていたのに、嘘みたいと思った。






からんからんと扉のベルが鳴る。

「いらっしゃいませ。」

マスターが私の来店に気づき、いつも通り小さく笑って迎えてくれた。香ばしいコーヒーの香り、少しばかり香るおいしそうな料理の匂い。今日も、お店の中はガラガラだ。なんでこの店が繁盛しないか私にはわからないが、一つだけその理由を知っている。

「今日は開店しててよかった。この前来た時は、閉まっていたもの。」

私のその言葉にマスターは、苦笑する。この店、不定休なのだ、1週間開いているいると思えば、3日も休んだり、それも突然にだ、予告もない。定休日はなく、マスターの気分、それが繁盛しない理由の1つであろうと私は想像している。

「こんちにわ、マスター。

こんな時間だけど、まだ何かあるかしら。」

初めてこの店を訪れてから、私の定位置は、カウンターの真ん中の席だ。その席に案内されないうちに勝手に座り、挨拶をかわす。

「いらっしゃい、美咲さん。

今日はオムライスがもうありません。あとは・・・おそらく大丈夫かと。」

もう10年近く通っている私は、マスターに名前だって知られている。この店の持ち主が、目の前の彼だと気が付いたのは、3度目に店を訪れたとき、それ以外の店員を見たことがなかったから疑問に思い、失礼を承知で尋ねたのだ。

彼は素直に話してくれた。空き店舗だったこの店を買い、閉めてしまった近くの喫茶店から家具を買い取り、この店を始めたのだと。

そして、自分の年齢を。この男性、初めて会ったときからそう変わらないのだが、私より一回りはいかないが年上なのだ。その年齢を聞いて、当時30近くなり始めて肌の衰えを感じはじめていた私は、詐欺だと腹が立った。10代と言われても疑われない肌がつるつるだからだ。絶対、年下だと思っていた。

「そうね~。ちょっと今日ついてないのよね、元気がでるやつ。」

年齢を知ったとき、もう私は彼に対してタメ口だった、マスターも咎めないのでそのままの態度でいままで通している。

「元気が出るものですか、力うどんでも作りますか?」

私の無茶な注文にも、彼はにこにこと返す。たぶん、これは冗談だ。いや、ここで頷いたら、にこにこ笑ったまま、手早くうどんを湯掻いて出してくれるだろうが。もちろん、メニューに力うどんなんてない。ここは一応喫茶店だ。一応とつくところでどんな店が想像してもらいたい。

「元気と聞いて、力うどんなの?その想像は私にはなかったわ。

ん~、天丼は?作れる?」

がっつり英気を養いたいのだ、今日は。ごはんものが食べたい。午前中、あまり仕事にならなかったので、机の上は仕事の山だ。残業かもしれないから、胃の溜まって、夕方までもつもの。

マスターがうどんと言ったので、もう私の頭には和食しか浮かばなかった。どちらかというとこの店は洋食が多い。どんぶりものはメニューにはない。

「天丼ですか?」

ちょっと考え込んだマスターは、私の想像通りその後、にっこりといいですよと言って頷いた。たぶん、考え込んだのは、天丼の具を何にするかと考えただけだ。この店主、何を求めても材料がない限り断らない。だから、一応喫茶店と私のような常連に言われてしまうのだ。

喫茶店なのに、天ぷらを揚げる音がする。しっかり換気扇を回しているのか、不快な油の匂いは感じない。だから、他にもお客がいるが油の匂いが服について迷惑は掛からないだろう。

私は、にこにことマスターの料理姿を眺めながら、出来上がりを待つ。

カランカランと入口のベルが鳴る、誰か来たようだ。

「いらっしゃいませ。」

マスターが天ぷらを揚げるのを一度中断して、案内に向かう。

お客は、テーブル席を選んだようだ。戻ってきたマスターが、私の前に丼と小鉢を持ってほどなくやってきた。定食用の木製の盆に載っていた。お盆の上には、ほうじ茶にお吸い物まである。

やっぱり、ここ喫茶店の域を超えてるなと改めて思う。小鉢の中は、紅白なますが入っていた。

どこの和食店だ、ここまでしてほしいとは言ってないが、これがマスターである。

海老、オクラ、玉ねぎ、人参、そして、真ん中に半熟たまごの天ぷらがご飯の上に載っている。どこまでも私の期待を裏切らないこの店に、笑ってしまう。

そういえば、今日は何円出しますかって聞かれなかったな。特別メニューは、いつも聞くのに。

まあ、大丈夫か、この店だ。




案の定の安価な代金を代金を払い、外に出ると小雨が降っているようで、スーツ姿の男性が扉の前で雨宿りをしていた。

「あ、すいません。」

扉を開けた私に気づいた男性は、少し体をずらして私が出ることができる隙間を作ってくれた。

「雨ですか。」

「はい。あれ?ここお店なんですか?」

つい声をかけた私に、困ったように笑った彼は、私の開けた扉から中をのぞき込んで、聞いてきた。たぶん、営業していない店先だと思っていたのだろう。

「そうです、喫茶店ですよ。」

私はにっこりと笑って告げた。しかし、雨か、マスター傘貸してくれないかしらと、もう一度扉に手をかける。

「食べ物もありますか?」

店に戻ってマスターに頼んでみようと思った私に、目の前の彼が尋ねる。ちょっと可笑しくて笑う。初めてここに来た私と同じ疑問を抱いたようだ。

「ありますよ、結構お安くてがっつりも。」

「喫茶店なのに?」

首をかしげる相手に、私は再び笑う。

「ええ、喫茶店なのに。お昼を食べるところお探しなら、どうぞ。味も保証します。」

扉に隙間を作った私に、男性はついてきた。

「いらっしゃいませ。」

柔らかなマスターの声。


「マスター、お客さんですよ。」

私は後ろの彼を、マスターに示して笑った。




その店はどこまでも居心地がいい。

窓から店内が見えないから、ちょっと入りずらい。でも、入ってしまえば、気のいい店主が笑顔で迎えてくれる。ささくれだった心を癒してくれるそんなお店。


私の癒しの空間。

誤字、脱字は見逃してくださると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ